第三章「1910年まで」
第21話 与謝野アキコ、看病する(上)
※※※※
初めはちょっとした違和感だった。いつも会って遊んでいるトミコが、よく咳をしている。
「けほっ、けほっ」
「おい大丈夫かトミコ? 風邪かあ?」
アキコがそう訊くと、トミコは笑ってこう答えた。
「そうかも~。ちゃんと家の風邪薬は飲んでるんだけどね」
「おいおい、気をつけろよ?」
だが、何日経ってもトミコの咳はよくならない。それどころか、どんどん酷くなっていく気がした。
「げほっ、げほっ」
「トミコ、マジで大丈夫か? いったん医者に行ったほうがいいんじゃねえの?」
「あはは、アキコちゃんは大袈裟なあ。こんなのなんでもないって――」
だがそのとき、トミコはさらに発作に襲われてうずくまった。
「げはっ、がっ、ああっ――がはっ!」
「トミコ――トミコ?」
アキコが駆け寄ると、トミコの左手のひらはベットリと赤い血に染まっていた。
いわゆる、喀血である。肺が菌に壊されて、その血が気管を通じて喉の奥から溢れ出しているのだ。
「え、あえ? な、なにこれぇ――?」
次の瞬間、「うぷっ!」とトミコは口もとを両手で抑えたあとで、
――ビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャ。
と、鮮やかな色をした血を道路に吐き出していた。
そして、ドサッと倒れる。
「トミコォ!」
アキコは慌てて彼女を抱き寄せ、自分のうしろに立っている増田マサコのほうを振り返った。
「医者だ! 医者呼べ! トミコがヤバい!」
「え、へ、ああ――?」
「さっさと呼べッ、バカヤロウ! 呼べよ!」
こうして山川トミコは入院することになった。このとき彼女がかかっていた病気がなんであったのか、それは所説ある。
ただ、最も有力な説では「結核」と記録に残されている。
呼吸器疾患を発生し、当時としては、ほとんど治らない状態まで臓器をズタズタにしていく難病のひとつだったという。
つまり、山川トミコはもう助からないのだ。
――ある説によれば、彼女は亡き夫であるチュウシチロウの看病を必死にしていたとき、この病気を感染されてしまったという。
与謝野アキコは看護師と医師の許可を貰い、頻繁に見舞いに行っていた。そのときはいつも、文学書の新刊を土産に持って病室に来た。
「元気かぁ? トミコ」
「アキコちゃん――!」
トミコは儚げに笑った。それを見たアキコは病室の棚に土産の本を置き、椅子に座って世間話をしていた。
話すことといえば、和歌と、詩と、要は文学ばっかり。
「早く病気が治るといいよなァ、いま西洋医術ってすごいらしいからな、トミコもよくなるぜ!」
アキコはそう言って懸命に励ましていたが、実際には彼女もトミコも、うっすら気づいていたのだ。
死ぬ、絶対に死ぬ、死は避けられないと。
トミコは「私、死んじゃうのかなあ」と呟いた。それに対して、アキコは「そういうことを言うのはやめろ」と静かに怒っていた。
「アキコちゃん?」
「なんでお前が死ぬんだよ」
――アタシとお前だったら、イイ女ってお前のほうだろ。お前が誰かに変に怒鳴ったりケンカしたり、人を殴ったりしたの見たことねえよ。
アタシなんかより長生きしたほうがいいのって、絶対にお前のほうだろ。
だからお前の病気は治るんだよ。絶対に治る。じゃなきゃ理不尽だろ。そうじゃなきゃダメだろ。
アキコは拳を握りしめて、泣きながらトミコを見つめた。
「お前が死ぬんだったら、じゃあ世の中のほうがおかしいだろ。違うか?」
「もお、アキコちゃんは大袈裟だなあ――あんまり心配しないでよ」
そうトミコは微笑んだ。
だが運命は変わらない。このとき、彼女は確実に死に向かっていたのだ。
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