第18話 夫、与謝野テッカンの奔走(下)
※※※※
論争のあと、与謝野アキコは大町ケイゲツと2人きりで食事に行っている。
とっくに頭を冷やしていたアキコは、そこで、自分が反戦歌を書いた経緯をポツポツと喋った。
自分があまり親から愛されていなかったこと、代わりに親に優遇されている弟が嫌いだったこと。そして、そんな弟がずっと自分を大好きでいてくれたことに、戦争が始まってからやっと気づいたこと。
「だから書こうと思ったんですよ、『頼むから死なないでくれ』って」
とアキコは言った。
その話を聞いた大町ケイゲツは、「それは――さぞ辛かったろうね」と、酒を飲みながら静かに答えた。
逆にケイゲツは、日本という国に対する自分の想いを、ありのままに語った。旅好きのケイゲツにとって愛国心とは、なによりもまず、日本の景色に対する愛着だったのである。
アキコはそれを黙って聞いたあとで、
「別にアタシもケイゲツさんの意見を否定する気はねえですよ」
と言った。
これが2人の論争の終わりと言えば終わりである。ケイゲツは最後まで「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」という主張は捨てなかったが、結局は、アキコに対する「乱臣・賊子」という暴言を撤回した。
さて、令和の現代においては、大町ケイゲツはあまり評価が高くない文学者だ。それは彼のアキコに対する批判が、今の世の中からするとあまりに保守的に見えてしまうからである。
しかし、忘れてはいけない。
当時の日本では、ケイゲツとアキコならケイゲツのほうがずっと「常識的」で「多数派」の意見だったのである。
アキコはここで、世間に認められないような異端の、少数派の意見を歌うことによって人々の支持を集めていたのだ。
ところで、テッカンは「アキコが政府に目をつけられるのでは?」と心配していたが、これは完全に杞憂だった。
というのも1905年、つまり開戦から1年も経たず日露戦争はアッサリ終結してしまったからである。
当時、既に超大国だったアメリカが「お前らマジでいい加減にしろよ」と、ロシアと日本の両方に注意してケジメをつけさせた。
ロシアのほうは「いまアメリカとも揉めるのはイヤすぎる」と矛を収めて、日本のほうは「チッ、うっせーな反省してまーす」と攻撃を止めた。
いわゆる、ポーツマス条約である。
この条約によって、日本はロシアのカラフトって場所の南半分をゲット。朝鮮半島と中国東北部の侵略も維持できた。
ただしその代わり、ロシアからの賠償金はない。日本人の多くは、この終戦に不満を抱いていたという。
戦場からは、アキコの弟である鳳チュウザブロウも無事に帰ってきた。
「よかったァ—―!」
アキコは実家からの手紙でそのことを知り、ただ涙を流していた。夫のテッカンは彼女の肩に手を置くと、「よかった、本当によかったなアキコくん」と言った。
「戦争は終わった。弟くんも問題なく帰ってきた。もうこれ以上、酷いことは起きないよ」
「そうだな、そうだよな!」
アキコはボロボロと泣きながら、ただ、弟チュウザブロウの帰還を喜んでいたと史実には残っている。
こうして、時代は1905年になったのだった。
で、
与謝野アキコは家で仕事をしていたとき、さらに一通の手紙を受け取った。
「なんだァ? これェ?」
宛名を見ると、それは、
かつての友人、山川トミコであった。
「トミコ!?」
彼女は大慌てで封を切って中身を読んだ。そこにはトミコの繊細な文字で、こう書かれていた。
《お久しぶりです、アキコちゃん!
お元気ですか? いま私は大学で文学を勉強し直しています。アキコちゃんの作品は、私のクラスメイトもみんなよく読んでいます。
いっしょに本をつくりませんか? マサコちゃんって友だちもいるんです。
今の私、きっと、アキコちゃんのとなりに立てます!》
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