第17話 夫、与謝野テッカンの奔走(上)


  ※※※※


 与謝野テッカンは友人の平出シュウとともに、大町ケイゲツの家を直接訪ねることにした。

 どうして平出シュウとともに行ったのか? 記録には詳しく残っていないが、おそらく、彼が法律に詳しいことと、もともと反戦思想の持ち主だったことが主な理由だと思われる。

「テッカンさん?」

 シュウは短い髪を整えながら呼びかけた。「自由に詩を書いていいと奥さんに言ったのは、あなたですよ」

「――分かってる」

「それで奥さんが炎上して、国粋主義者のオヤジとレスバを始めたら、それを止めたいと? やっていることがメチャクチャじゃあないですか?」

「――返す言葉もない」

 テッカンは唇を噛んだ。

「でも、それでも僕にはふたつの気持ちがある。まずは、アキコくんには文学の才能をそのまま輝かせてほしいという気持ち。

 それから、大町ケイゲツ先生は有名な評論家だ。彼とは争ってほしくないという気持ちもある。

 両方とも解決するには、僕が間に入ればいい」

 彼はそう言った。


 こうして二人は大町ケイゲツの家に到着すると、静かに戸を叩いた。

 彼は酒のとっくりを片手に出てきた(ケイゲツは評論家である以前に、酒と旅をこよなく愛するエッセイストだったと史実にはある)。

「キミたちか」

 とケイゲツは言った。「立ち話もアレだ。一杯やりながら聞こうじゃないか」

 こうして昼間の酒の席が始まった。

 ケイゲツはとっくりをあおると、「で、なんの用だ?」と切り出した。

「言いたいことは分かってる。キミの妻、アキコ氏の詩を私が批判した、それが気に入らないのか?」

「いえ、批判は自由です」

 テッカンは微笑んで、静かに答えた。「ただ、ひとつだけお願いがありまして」

「なんだね?」

「彼女を反逆者・国賊と呼んだことだけは取り下げていただきたい。

 このままお2人が言い争いを続けると、僕のアキコくんは政府に目をつけられてしまいます。――今は文学者どうしが争う時代ではないはずです」

 テッカンは、単純明快・単刀直入な申し入れをしてからツマミの刺し身に箸を入れた。

 ケイゲツは少し、彼を睨みつけた。

「もちろん、女が女の自由を歌うのは大いに結構! 今は近代化の時代というわけなんだから。

 だが、文学は必要な時期には、お国のために尽くさなければならないものだよ。

 だいたい女は、愛する身内の男が戦に行くなら、笑顔で見送るくらいの気概は持つべきだ!」

 これに対して、テッカンは少しだけ意見を譲った。

「ええ、ケイゲツ先生のおっしゃることはもっともだと思います。僕もケイゲツ先生のエッセイには感銘を受けているから、その思想は少しは分かるつもりです」

 こう言って、テッカンは少し彼の油断を引き出す。

 そして、それからこう切り返すことにした。

「でも僕の妻は、アキコは、本当に自分の弟を戦に取られています。いつ死ぬか分からないという話です。

 家族の思い出は僕も聞きました。悔しく、哀しいのは当たり前です。

 そんな女性の嘆きを、怒りを、素直に書き記すことだって文学の役割だとは思いませんか?

 それとも、まさかケイゲツ先生ともあろう御方が、女には泣き寝入りをしろと?

 そんなことを、おっしゃるわけがないですよね?」

 テッカンはそう言った。

 そして、ケイゲツが言葉に詰まっているうちに、彼は刺し身をさらに食べ、酒を飲んでみせた。

「いやあ、いいお酒です! 流石はケイゲツ先生のもてなしです! これ、どこの地酒か教えていただいても?」

「え、ああ、まあ」


 ケイゲツはこのとき、とっくにトーンダウンをしていたという。

 現代でもそうだが、レスバや論争は相手の顔が見えないからヒートアップする。いざ相手と酒を飲み交わして会話をしたら、「な~んであんなしょーもないことでケンカしてたんだ?」と思うものなのだ。

 そしてまさにテッカンは、人の怒りを鎮める技にかけては、文学の天才・アキコより遥かに優れていたのである。

 となりに座って茶を飲んでいた平出シュウは、

 ――なるほど、人気文学雑誌の編集長になるだけの人ですね。心というものを分かっているようだ。

 と思った。


 のちに与謝野アキコと大町ケイゲツは和解し、論争は終結した。文学上の交流も復活したという。

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