第14話 ああ弟よ、君を泣く(下)


  ※※※※


 人は誰かから愛されることなしに、人を愛することはできない。誰かを愛するとはどういうことか、その人から教わる。

 与謝野アキコは史実によれば、両親から疎まれて育ったという。

 そんな彼女がどうやって愛を知り、愛を歌って、与謝野テッカンという男と愛し合うことができたのだろうか。

 とっくに愛されていたからである。家族として、弟のチュウザブロウから。

 そのことにアキコは、日露戦争勃発後、ようやく気づいたのだ。

 ボロボロと涙がこぼれて廊下の床に染みていった。

「なんであんないいヤツが戦争に行って、人殺しにならなきゃなんねえんだよ! 間違ってるだろこんな世の中ッ!」

 彼女は床をコブシで殴りつけた。

「戦争してッ、人と殺し合いしてえならッ! やりたいヤツらだけで勝手にやってろッ! なんなんだよ日本もロシアもッ!

 クソッ! クソが許さねえッ! なんでチュウザブロウが死にそうになってんだよッ!」

 木の床をグーパンチしまくり、いつしか手には血がにじんだ。

 そんな様子をうしろで眺めていたのは、夫の与謝野テッカンである。彼はゆっくりとアキコに近づいてその背中をさすった。

「テッカン先生――?」

「アキコくん」

 テッカンは彼女の手をとり、内出血まみれのその肌を優しくいたわった。そしてこう言った。

「――今の気持ちを詩にしよう、アキコくん」

 突拍子もない彼の提案に、アキコは泣きはらした瞳を見開いて、「ハァ?」と声を上げた。

「詩なんか書いてどうなるんだよ、先生」

「それは――」

「詩を書いたら戦争が終わんのかよ! 詩を書いたらアタシの弟が戦場から帰ってくるのかよ! ならねえだろうがッ!

 書いてもなんにもなんねえよッ!」

 そう怒鳴るアキコに、テッカンは、ただ俯くことしかできなかった。

 だが、やがて顔を上げる。

「でも、でも書くべきだと思う。今のアキコくんみたいな気持ちを抱いている人が日本にはたくさんいる。ロシアのほうにだっているよ。

『どうして私の家族が戦争に行くのか?』って。でもなにも言えない。

 そういう人たちに届けるべき言葉を、僕たちはつくるべきじゃないか?」

「他人のことなんか知るかッ! アタシは今、弟の話をしてるんだよッ!」


「僕たちは文学者じゃないか!」


 テッカンが珍しく声を張り上げると、アキコのほうは、きょとんとした目で彼を見つめた。

「――あれ?」

 と彼女は小さく呟いた。

「な、なんかテッカン先生に怒られたの――初めてかもしれねぇな」

「あ、ご、ごめん大声なんか出して――夫として失格だな、これは」

 そう言ってうろたえるテッカンを、アキコはぼんやりと眺めていた。そして、

「――じゃあ書くよ」

 とだけ囁いた。「このクソ戦争起こしたヤツら、みんな怒らせてやる」

「アキコくん――?」

 戸惑うテッカンに、彼女は軽くキスをした。そのころにはもう、詩人・与謝野アキコの心は復活していた。

「さすがアタシの旦那で、アタシの先生だ。アタシがほしい言葉を、アタシも知らないってのにくれるんだな?」

 彼女は少しだけ笑って立ち上がると、リビングへ向かった。原稿用紙を引きずり出して、ガリガリと音を鳴らしてペンを走らせた。

 頭のなかにあるのは、悲しみと、怒りと、弟への気持ちだけ。

 この日、のちに日本近代文学史に残る反戦ソングが書かれることになる。

 その書き出しは、こういうものだった。


『ああをとうとよ、君を泣く。 君死にたまふことなかれ』

(訳:弟、アタシはお前を想って泣く。頼むから死なないでくれ)

『末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、』

(訳:末っ子に生まれたお前だから、親から愛されまくったろ?)

『親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、』

(訳:親はお前にナイフを握らせて、人殺しになれとでも教えたのか?)

『人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。』

(訳:人殺しになって戦場で死ねって、お前を24歳まで育てたのか?)


 アキコは、一心不乱で歌を書き続けていたという。書き続けている間は、与謝野テッカンがどれだけ声をかけても反応がなかった。

 こうして、ひとつの名作が生まれる。

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