第13話 ああ弟よ、君を泣く(上)


  ※※※※


 ここで、ほんの少し時計の針を戻してみよう。

 与謝野アキコは1878年生まれ、弟の鳳チュウザブロウは1880年生まれ。2歳しか違わない弟だったと言われている。

 アキコは当時は、チュウザブロウのことを疎ましく思っていたらしい。彼が両親から愛されて、かわりに、自分のことは無視されていたからだ。

「面白くねェ~!! 女に生まれたってだけで親からシカトされてんのによ、弟なんかいたら、それこそ相手にされねえじゃねえか」

 だからアキコはチュウザブロウには冷たかったと記録には残っている。しかし一方でチュウザブロウのほうは自分より威勢のいいアキコによく懐いていた。

「お姉ちゃァん、遊ぼう! 遊ぼう!」

「あ? 遊ばねえよ、テメエとなんか」

「やだ遊びたい、遊びたい遊びたい!」

 チュウザブロウが駄々をこねると、アキコは、悪いことを思いついた。ニヤニヤしてくる。

「おう、じゃあ『かくれんぼ』でもして遊ぼうじゃねえか?」

 彼女はそう言い、弟を遠くまで連れて行って、そうして置き去りにして独りで家に帰ってしまったという。

「アハハァ! バァーカ! どんだけ親から愛されててもなあ、いなくなっちまえばこっちのもんだ! 飢え死にしろボケッ!」

 アキコは夕食をもりもり食べて、兄のヒデタロウから「チュウザブロウの帰りが遅くないか?」という言葉を聞いても知らん顔をしていたらしい。

「さぁーな。どっかで道に迷ったんじゃねえの?」

 そうアキコは言っていたが、夜、チュウザブロウは傷だらけで家に帰ってきた。

「お姉ちゃん!」

 と彼は呼んできた。

 ――ゲェ~~!? 弟が帰ってきやがった! どうしよう、悪さをしたのがチクられちまうぞ!!

 アキコは焦った。

 だが、チュウザブロウの言葉は意外なものだった。

「すごく楽しいお遊びだったよ、お姉ちゃん! あんなに遠くから歩いてきたの、初めて!」

「あ、ハァ?」

「お姉ちゃん大好き! また『かくれんぼ』しようよぉ! 次はどこに連れていってくれるの!?」

 彼はそう言ってアキコに抱きつき、頬ずりをしてきたという。

「やめろ、気持ち悪ィ!」

「どうして? ボクお姉ちゃんのこと大好きだよ?」

「クソッ、バカ弟がよ!」

 それからアキコは、毎日チュウザブロウをどこかに連れて行っては放置。鬱陶しい弟なんか忘れようと思った。

 しかし、彼は毎回きちんと帰宅してきた。

 そしていつも、チュウザブロウは笑顔だった。

「お姉ちゃんのお遊び、いつも楽しい! 次はどこに連れていってくれるの?」

「ああ~ウゼェウゼェウゼェ! なんだこのガキ! アタシはお前なんか嫌いなんだよ!」

 アキコがこう言ってそっぽを向いても、チュウザブロウはアキコのそばから離れなかった。

 そうしてチュウザブロウは、アキコが読んでいる文学作品に手をのばした。

 特に『源氏物語』に興味を持ったという。

「なにこれぇ? 読めないや」

「お前はバカだから古典なんか読めねえよ」

「お姉ちゃん読めるの!? すごい!! きっとお姉ちゃんはすごい文学者になるんだねえ!!」

「黙れ。

 お前はこの家を継いで商人になるんだろ。文学の知識なんか要らねえんだよ。ハハハハ!」

「お姉ちゃん、どこかに行っちゃうの?」

「おう、アタシのこと無視する両親なんかアタシだって無視してやる。そしたらいつかすっげえ詩人にでもなってやるよ?」

 アキコがそう吐き捨てると、チュウザブロウは瞳を輝かせた。

「お姉ちゃん、すごい! すごいすごいすごい! ボクもいつか、お姉ちゃんの書いた和歌を読んでみたい!」


 そう言ってくれた弟だった。

 その弟が、チュウザブロウが、日本とロシアが勝手に始めた戦争のせいで兵隊になって、今は人殺しを命令されているというのだ。


 1904年。

 与謝野アキコは、ぼろぼろと涙を流した。

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