第12話 与謝野アキコ、本を売る(下)


  ※※※※


 他の女たちについても書いておこう。

 林タキノはそのころ、正富オウヨウという年下の詩人と付き合うようになり、のちに穏やかな結婚生活を送ったと言われている。

 もうイケメン野郎を他の女と奪い合うのはこりごり、という感じだったらしい。そのあとのことは、詳しい記録には残っていない。


 山川トミコのほうは親の縁談に従い、一族の山川チュウシチロウという男と結婚した。だが、彼は結核のせいで翌年には死んでしまう。

 両親はトミコを家に呼び戻した。

「これからトミコはどうするんだ?」

「わ、わわ、私ですか?」

「また別の男と見合いをさせよう。うん、女の幸せは結婚だからな」

 だが、トミコには別の感情が生まれていた。彼女の手もとには、与謝野アキコが出版した『みだれ髪』があったという。

「わ私、大学に入りたいです」

「大学? 女が大学なんかに入ってどうするんだ?」

「ぶ、文学を勉強したいと思っています。外国の! そうして、もういちど文学をやりたいんです!」

 トミコは立ち上がった。

「テッカン先生のところで作品を書いてたころの私は、未熟でした。でも、アキコちゃんに出会えました。

 アキコちゃんは文学の天才です! 私、アキコちゃんのとなりに立てるような女になりたい!」

 両親は、彼女の決意に頭を抱えた。

「トミコ、なにを言っているんだ――お前は?

 あの『みだれ髪』とかいうポルノを読んで頭がおかしくなったのか。あれのどこが文学なんだ。どのページをめくっても性描写、性描写、性描写。ただのエロ本じゃないのか」

「アキコちゃんは女の心を本気で歌ってるんです! 悪く言わないでください!」

 トミコはそういうと自室に籠もって、机に向かった。

 のちに彼女は両親の許可をもらい、1904年、日本女子大学英文科の予備科に入学した。

 1907年まで、真面目に在学していたらしい。


 そう、時代は1904年である。


 このころの日本はイケイケドンドンという感じだった。開国して近代化してから、外国の真似事をして帝国主義に目覚めると、韓国と中国を侵略した。

 いわゆる日清戦争である。

 これに対して欧米列強は激怒。フランス・ドイツ・そしてロシアが「てめえ俺たちの後輩のくせに調子こいてんじゃねーぞ、イエローモンキーのクソジャップが」みたいな注意勧告をしてきたという。

 のちに三国干渉と呼ばれるトラブルが発生した。特に、中国狙いのロシア人がいちばんキレていたという。

 こうして日本とロシアは、朝鮮半島と中国東北部をどちらが支配すべきか、もう面倒くせえから戦争で決めようぜということになった。

 日露戦争、1904年に勃発。

 トミコは大学で勉強しながら、「怖い」と、ただそう思っていた。「どうして? どうして男の人たちはすぐに戦争をしてしまうの?」

 だが、日露戦争にショックを受けていたのは山川トミコだけではない。


 与謝野アキコは、実家からの手紙を受け取ると真っ青になった。

「チュウザブロウ—―!?」

 彼女は、わなわなと震える手を自分で抱きしめながらそう呟いた。鳳チュウザブロウとは、与謝野アキコにとっては末の弟にあたる男である。

 その可愛いチュウザブロウが、兵隊に取られて、中国の旅順(リョジュン)包囲軍というところでロシア人どもと戦うことになったというのだ。

 アキコの様子がおかしくなっていることに、夫のテッカンはすぐに気づいた。

「どうした? どうしたんだ、アキコくん」

「せ、せせ、戦争に――戦争に弟が取られちまった――」

「戦争に!?」

「あ、ああ、弟が死ぬ! 弟が死んじまう! あああっ、あっ、イヤだ! イヤだイヤだイヤだ! なんでアタシの弟が死ななくちゃいけねえんだッ!」

 アキコは突っ伏して、ただ泣き喚いた。


 文学の運命は皮肉だ。

 このときの与謝野アキコの嘆きが、また名作を生み出すのだから。

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