第10話 与謝野アキコ、略奪する(下)


  ※※※※


 怪文書事件の影響で、与謝野テッカンのもとから人はいなくなっていった。

 まずいなくなったのは妻の林タキノである。テッカンが目を覚ますと、彼女はとっくに隣の布団から姿を消して、机の上に置き手紙を残していた。

「実家に帰ります。浮気者のバカヤロウ、地獄へ落ちろ」

 そう書いてあった。

 次にいなくなったのは山川トミコである。

 彼女は親が勧めてきたお見合いに従って、田舎に帰らなければならなくなってしまった。

「先生」

「なんだい?」

「先生はタキノさんを泣かせたんですよ。だったらせめてアキコちゃんは幸せにしてください」

 トミコは涙まじりにそう言ったと伝えられている。

「――うん」

 テッカンは真剣に頷いた。「僕が招いてしまったことだよ。必ず責任はとるつもりだ」

「先生、自分がイケメンで女の子から惚れられやすいってこと、ちょっとは自覚したほうがいいですよ」

 とトミコは言った。

「私も、実は、先生のこと好きだったので」

「えっ」

「ふふ、知らなかったの?」

 トミコは悪戯っぽく笑うと、テッカンの和服の上に少しだけ人差し指を当てた。

「――私はこれだけです。アキコちゃんと違って、私は弱い女ですから」

 そうして彼女は去っていった。

 男たちも、日に日に人数を減らしていったという。

 テッカンはただうなだれていた。だが、鳳アキコの歌集を出版する、という夢だけは捨てるわけにはいかなかった。

 一方で鳳アキコは、不倫騒動のせいで両親からブン殴られ、実兄のヒデタロウからもきつく叱られたという。

 彼女がテッカンの家に再び来たときは、前よりも酷い傷を負っていたらしい。

「あ、アキコくん! どうしたんだその怪我は?」

「ケジメだよ」

 彼女はそう言って笑った。

「しかしなあ、ずいぶん人が減ってテッカン先生の家が広くなっちまったな! アハハ!」

「笑いごとじゃないのに――」

「な~に言ってんだあ?」

 アキコは舌を出してニヤニヤした。

「このタイミングで歌集を出版してみろよ~! 絶対に売れまくるぜ~! なにしろ既婚者を平気で寝取ったエロ女の歌が読めるんだからなァ~!」

 アキコの言葉に、テッカンは驚くしかなかった。

 ――この子、正気なのか?

 彼がそう思っている間も、アキコは言葉を繋ぐ。

「アタシの敬愛する森オウガイ先生だって、ドイツで女をヤリ捨てたっていうらしいぜ? でもそれをネタにして小説書いて今じゃあ文壇のトップランナーだ!」

 アキコはケラケラと笑うと、下駄を脱いで「さあ編集だよ編集!」と言ってリビングに向かった。

「あ、アキコくん!?」

「文学はスキャンダルがつきものだろう? どこのバカが怪文書を出したか知らねえが、だったら逆手に取っちまえばいい!」

「は、あ――!?」

 アキコはどっかりとリビングに腰を下ろした。

「女が女の、女による、女のためのエロを歌うんだ。きっとみんな夢中になる!

 そしたらどうなるよ? 日本中の男たちが買い占めるぜェ!? テッカン先生が編集したアタシたちの不倫セックス歌集をよォ!」

 彼女の言葉を聞きながら、テッカンはただ、戦慄していた。

 ――もしかして僕は、僕は、とんでもないケモノを世に放つことになるんじゃないのか?

 彼のそんな不安をよそに、アキコは近くにあった煎餅を頬張っていた。

「この国はでっかいキンタマみてえなもんだ。うじゃうじゃと精子みてえに人間がいて、アタシの歌に群がってくるんだよ。ククッ」

 アキコは頬を赤らめながら、テッカンを見つめた。

「受精しちゃうぞ~!? こんなの!! どうしようなァ、テッカン!!

 世間にどう思われたっていいも~ん! アタシにゃあテッカン先生がいる!!」


 同年、鳳アキコは与謝野テッカンと結婚。

 与謝野アキコと名を改めると、デビュー作『みだれ髪』を発行。

 不倫略奪婚をした女の文学を、皆が気になって買って読んだという。

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