第06話 与謝野アキコ、恋をする(下)
※※※※
鳳アキコは、血を出して酸欠になっている脳ミソでぼんやりと考えていた。
――なんで、アタシはこんな目に遭ってるんだ?
そうして最初に思い出すことは、まず物心ついたときの親の冷めた表情だ。
《せっかく子供ができたと思ったら、また女か》
《こんなの食い扶持を減らすだけじゃねえかよ》
そういう言葉だ。
次に思い出すのは兄の本棚を漁って、文学、特に『源氏物語』にハマったときの両親の顔だ。
《こんな下らないお遊びみたいなもんにハマって、お前はなにをしたいんだ?》
《お前に対する教育費だってバカにならねえんだ。ちょっとは「産んで良かった」って母親に思わせろ、アホタレ》
アキコはそういう言葉を今でも記憶している。
――ああ、そうか、アタシは親に愛されたことがないんだな。
実兄のヒデタロウには親しくしてもらっていたかもしれない。だが、それはあくまで戯れであって、本気で親代わりになってくれたわけではないのだ。
そんなアキコがどうして文学を志したのか。
誰かに認められたかったのだ、自分の存在そのものを。
「カハ、アハハハッ、ハハッ」
アキコは路地裏で寝そべりながら、大声で笑う。それを聞いた林タキノは、不気味がって後ずさりした。
タキノのそんな姿を見た彼女は、ダラダラ流れる鼻血も拭かないまま立ち上がる。
「テッカン先生にもっと褒められたら、アタシ、いつかは幸せになれんのかなあ?」
「あ? なに言ってんの? 狂ってんの?」
「テッカン先生に愛されてるお前が、羨ましいって言ったんだよアタシは」
アキコは鼻血をボタボタと地面に落としながら、ゆっくりと林タキノに近づいた。タキノが先に喧嘩を売ったのだ、逃げるわけにはいかない。
アキコは、猛獣のように笑った。
「羨ましいからよォ――ぜんぶよこせよ、林タキノ」
これは、宣戦布告である。
既婚の女を旧姓で呼ぶのは要するに、「昔の名字に戻ってしまえ」という意味だ。
その瞬間のことであった。
どうも林タキノの帰りが遅いことを訝しんだ与謝野テッカンが、街まで探しにきていたらしい。彼は、路地裏で争っている彼女たちを見つけた。
「な――! なにを、なにをしてるんだタキノ! アキコくん!」
テッカンが駆け寄ってくると、タキノのほうはさっと青ざめた。なにか弁明をしないと――と思ったということだ。
が、
ここで先手を打ったのはアキコのほうだった。
「大丈夫だよ、テッカン先生」
とアキコは笑った。
「アタシが路地裏に迷って転んじゃってさあ。血ィ出ちゃって。そしたら先生の奥さんがさ、タキノさんが助けてくれたんだよ。なあ?」
彼女はそう答えた。
この言葉を聞いた瞬間、タキノは「やられた!」と思った。
目の前にいるアキコの傷の深さを見てみろ。ただ転んだだけってわけがない。こんなものはウソだって誰でも分かるんだ。あたしならもっと上手い言葉を思いつくっていうのに、アキコは先に下手な虚言を吐いて、言い訳の機会を封じやがった。
――こ、このクソアマ!!
アキコが血まみれでニヤニヤ笑っていると、テッカンとしては、
「本当なのか? タキノ?」
と質問するしかなくなる。
そして、それに対して「いいえアキコはウソをついています」などと言ったら余計に藪蛇になるのだ。
タキノは拳を握りながら、
「うん、アキコちゃんの言ってることは本当だよ――」
と答えるしかなかった。
テッカンはため息をつくと、
「ともかく怪我の手当てをしなければいけないよ」
と言った。
「僕の知り合いの医者に連絡するから、しばらくじっとしていて?」
「ハァーイ」
アキコは満面の笑みで(頬をにっこりとさせると、鼻血の流れ道が変わってさらに顔が汚れた)、テッカンに手をぴらぴらと振った。
彼女が和歌のなかで詠んだ「柔肌の熱き血潮」とやらはまるで、蒸気を立てるような勢いで流れ続けていたのである。
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