第05話 与謝野アキコ、恋をする(上)
※※※※
与謝野テッカンの前で、鳳アキコはただ静かに自作の和歌を発表した。
浪華青年文学会の男たちは、彼女の美しい声にただ惚れぼれとしていた。とはいえアキコの歌を完全に理解していたわけではないらしい。
理解したのは、与謝野テッカンだった。彼は彼女の和歌を聞いて、すぐに彼女の才能に気づいた。
――ウソだろ? こんな、こんな化け物みたいな天才が20歳までずっと眠っていたって言うのか?
テッカンはただ、怯えていた。自分が情熱を傾けていたジャンルを、ほんのちょっとの力で超越してしまう女の存在に。
一方で、そのとき、アキコは自分の文学がどれだけ優れているものかなんて関心なかった。
あるのは、ただ、与謝野テッカンに対する性的欲望。
――コイツと寝たい。コイツのガキを生んでみたい。
そういう気持ちだけだった。
「テッカン先生、どうだい、アタシの歌は?」
「え? ああ、そうだな――」
テッカンは頬をかきながら論評を始めた。
「すごいと思うよ。旧来のやりかたにとらわれず、自分の気持ちを素直に伝えようとしているところとかかな。今まで、こんな歌人は知らなかった。
きっとこの才能を伸ばせば、世間で名前を知らない人はいないような文学者になれるかもしれないなあ」
テッカンは、最初、こんな風に極めて穏やかに評価を伝えていたという。
だが、アキコのほうは納得しなかった。
のちに、アキコはこのときの気持ちを歌に詠んでいる。こういう和歌だ。
「やわはだの 熱き血潮に触れもみで さみしからずや 道を説く君」
(訳:アタシの柔らかい肌にアツい血がタギっているっていうのに、それに触りもしねえで道理なんか説きやがって。お前は寂しくならないのか?)
求愛ソングだった。
この歌会のときからアキコは女のエロ感情を素直に詠んでばかりいたらしい。
こうして歌会は終わった。浪華青年文学会の男たちは挨拶を終えると「どこかで飲もうぜ!」と盛り上がっていたが、アキコのほうには、ただひとり声をかける女がいた。
林タキノ。与謝野テッカンの当時の妻である。
「あたしが駅まで送りますよ、アキコちゃん」
「んああ、えっ、ありがとうございます――」
アキコは微笑んだ。
タキノは二人で大通りを歩いたあと、「ちょっと裏通りにイイ感じの喫茶店があるんだけど、奢るよ、寄っていかない?」と誘ってきた。
「いいですねえ!」
とアキコは返事をした。
そうして人気(ひとけ)のない路地に連れていかれたあとで――、
アキコはタキノにブン殴られた。
「ぶぇ、ぼぁ、ほあっ!?」
アキコは顔面を勢いよくタキノの拳に打たれると、近代建築風なビルヂングの壁に身体を預けた。それだけタキノの暴力が激しかったということである。
「テメエあたしの夫に色目使ってたろ? ああ? なんだあのポルノみてえな作品はよ」
「え、ええ――?」
「テッカン先生はあたしのモンなんだよ、テメエが手を出していい男じゃねえんだ。だいたい不倫なんかしてみろよ、どれだけの詩人に迷惑がかかると思ってんだ」
タキノは和服の袖から紙巻きタバコとマッチを取り出すと、悠々と煙を吸った。そして、最後にはアキコの服の上に吸い殻を落としたという。
「北原ハクシュウ先生、吉井イサム先生、石川タクボク先生。あたしの男が見つけた詩人はな、全員一流なんだよ。てめえなんか足もとにも及ばねえんだ、このアバズレクソ女」
「なんだよそれ」
「二度と歌会に顔を出すなよ。テッカン先生には夜のベッドんなかでよーく教えておいてやる。鳳アキコは文学のブの字も知らない色ボケだから身の程をわきまえて引退したってなあ?」
林タキノはそう言って凄んだ。鳳アキコのほうはといえば、ただ彼女に殴られた傷跡を確かめながら、ダラダラと流れる鼻血を自分の舌で舐めていた。
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