第04話 夫、与謝野テッカンについて(下)


  ※※※※


 1892年のことである。

 与謝野テッカンは正式に女学校を辞めて、林タキノを連れて京都に帰った。そうして11月ごろには東京に引っ越している。

 落合ナオフミという歌人の弟子になって、改めて和歌を学んだらしい。

 そのとき、1894年であった。

 彼は短歌論『亡国の音』を発表する。

 テッカンの『亡国の音。現代の非丈夫的和歌を罵る』という論文は『二六新報』という雑誌の5月10日から18日に渡って掲載された。その内容は、こういうものだったらしい。

「僕たちは保守的な文学に囚われることなく、個人の感情に従って、自由に、ありのままの歌を歌うべきなのだ」

 と。

 こういう精力的な活動が、世間に認められたおかげなのかどうかは分からない。

 ともあれ彼は1896年、明治書院という出版社に雇われて編集長職についた。そうして、同時に跡見女学校で再び教師の仕事についたと言われている。

 どうも与謝野テッカンという男は、押しに弱く雰囲気に流されやすい男ではあったが、食い扶持には困らない人間だったということらしい。

 これが才能ってやつか~。

 さて、彼は『東西南北』や『天地玄黄』というタイトルの歌集を矢継ぎ早に出版している。これらがどういう文学なのかは、正直、あまり記録に残っていない。

 与謝野テッカンという男は女に愛されて仕事にも恵まれていたが、ただひとつ、文学の神様にだけは施しを受けなかったということで片づけていいらしいのだ。皮肉な話である。

 とはいえ、彼の素朴な作風は当時「質実剛健」「万葉集の男らしい歌みたいだ(当時はこれを『ますらおぶり』と呼んだ)」みたいな評価は受けていたという。

 時代は1899年になっていた。彼は東京新詩社という新しい出版社を建て、なんとかビジネスで持ち直そうとしていた。

 このころには、最初の恋人だった浅田ノブコと正式に話をつけて、林タキノという新しい恋人と結ばれたようである。

 玄関先の会話が残っている――。

「なんで!? なんであたしが先生に振られなくちゃいけないの!? こんなに先生のこと大好きなのに!」

「ごめん、ノブコ。でも違うんだ。僕はタキノを裏切るわけにはいかないんだよ」

「そんなの全然納得できない! テッカン先生はあたしのものなのに! なんで? なんでタキノほうがいいのおかしいよ教えてよお!」

「ノブコが悪いわけじゃない。一度に二人の女性を好きになってしまう僕がよくなかったんだよ」

 そんな風に話をしていると、林タキノが家から出てきた。

「ノブコ、あんた未練がましいんだよ。もうテッカン先生はあたしのもんなんだからさあ、大人しく家に帰ってお見合いでもやってりゃいいの」

「タキノ—―!」

 ノブコがタキノを睨むと、彼女のほうはニヤニヤと笑った。

「なんだよノブコ。じゃあストレートに言ってやろうか? テッカン先生はな、お前みたいな貧乳クソ女じゃなくてあたしのカラダがイイって思ってんだよ! だからあたしを選んだんだ! 分かったら、負け犬はさっさと出ていけよ! なあ!」

 タキノがそう怒鳴ると、ノブコはもう泣きわめくしかなかった。テッカンのほうも自分が悪いと思っているから、どちらにも肩入れすることはできない。ただ黙っているしかなかったのである。

 こうして1900年、与謝野テッカンは妻・林タキノとともに東京都麹町に引っ越した。ここで創刊されたのが、近代日本文学史に名前を残す『明星』という雑誌である。

 与謝野テッカンという男は女の欲情に負け続ける男ではあるが、それでも、文学に対する情熱だけは本物だった。

 彼が見出した作家らは、どれも一流。北原白秋、吉井勇、石川啄木。

 この男はのちに「ロマン主義」と呼ばれる文学的な動きの中心的な役割を果たしたとされる。


 そして1900年。テッカンはとうとう鳳アキコという怪物のような女に遭遇してしまうのだった。

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