第03話 夫、与謝野テッカンについて(上)


  ※※※※


 このあたりで、与謝野テッカンという男がどういう人間なのか書いたほうがいいかもしれない。

 彼は京都府で、与謝野レイガンという男の四男として生まれた。レイガンは、西願寺というところのお坊さんであったという。

 レイガン自身は特に立派な名字も持たない庄屋の次男として生まれたのだが、京都府与謝野町(ヨサノチョウ)というところで生まれたという理由で、明治あたりから与謝野という名字を名乗るようになったらしい。

 これが、のちの鳳アキコの名字、与謝野の由来である。

 なお、テッカンの母親はハツエと言って、京都の商人の家で生まれた女だったという。


 1883年のことである。テッカンはまるで親に捨てられるかのように、安養寺という寺の安藤秀乗という男の養子になったと言われている。

 血のつながった親と離ればなれになることが、どれだけ苦しいのかは現代からは想像もつかない。

 そうして彼は、1889年まで静かに養子として過ごしていたのだ。

 テッカンは西本願寺で、得度の式(仏教で、僧侶になるための偉い儀式のこと)を経験した。そうして、兄の赤松照幢が務めている山口県周南市の寺に赴いた。

 当時としては寺のカネで学校が経営されていることも珍しくなかったらしい。彼は兄・赤松の寺が営んでいる徳山高等女学校の教員になった。

 テッカンはその学校で『山口県積善会雑誌』を発行し、のちにアキコを支える編集者としての才能を見せている。そうして1890年には、今のテッカンというペンネームを始めて使うようになった。

 さらに1891年には、まるで養子に出されたことの報復かのように、与謝野という名字を使うようになったという。

 そんな与謝野テッカンは、母親から愛されなかった反動かどうか知らないが、女性からの性的な誘惑に流されやすい男であった。

 徳山女学校では4年間ほど国語教師を務めた。が、浅田ノブコという女子生徒に迫られて、先生としてあってはならない一線を越えた。なにやってんだよお前、という話だ。

「ねえテッカン先生? エッチなことってどうやったらいいの?」

「なっ、な、なにを言ってるんだよノブコちゃん」

「いいでしょ先生。あたし先生に教えてほしいの」

「ダメだよノブコちゃん、そんな、ダメだよ――」

「ダメじゃないでしょ、先生? 素直になって?」

「あっあっあっあっ」

 まあそんな感じでセックスしちゃったってことですね与謝野テッカン先生。

 こんなことがあって、与謝野テッカンは教師の職を追われることになった。

 そして、落ち込む彼に手を差し伸べたのは、同じく教え子だった林タキノという女である。

「先生って可哀想。あたしが慰めてあげなくちゃ」

「待ってくれよ、タキノくん。ぼ、僕はもう教え子と不義理はしないって決めたんだ」

「不義理じゃないよ先生、だってあたし本気だし」

「や、やめて、あっ、待って、だめだ、だめだよ」

 林タキノのセックステクニックってヤバかったのかな?

 それはともかく、与謝野テッカンは彼女とドロドロな同棲をすることになった。

 このころには、浅田ノブコが彼の家を訪れても、タキノが追い出していたと言われている。

「テッカン先生にあたしを会わせてよ! ねえ、あたしを先生に会わせて!」

「ガタガタうるせえんだよ寝取られ女! もうテッカン先生はあたしのモンなんだよ! ボケ! あんまりナメてるとブチ殺すぞこの野郎!!」

 そういうケンカが、玄関先で繰り広げられていたと伝えられている。張本人のテッカンは、ただ、女たちが争っている声を聞きながら部屋の隅でうずくまっていた。


 顔がいいくせに意気地のない男が、威勢のいい女たちから奪い合いをされる――こういう構図が、のちの与謝野アキコからの略奪婚でも再現されたのだ。

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