第02話 与謝野アキコ、歌を詠む

 鳳アキコは20歳になっていた。

 両親の和菓子店「駿河屋」の店番をしながら、趣味で書いた和歌を文芸雑誌に投稿するだけの日々だ。

「はーあ、つまんねえ。なーんか面白えことはねえのかよ、オイ」

 アキコはあくびをしながら、暇を見つけては57577の歌を紙に書いて投稿していたという。

 そんな彼女の才能を真っ先に見出したのは、浪華青年文学会という文芸サークルだったらしい。

 ただ、このサークルについての記録はあまり残ってはいない。どうも、のちの与謝野アキコという女傑を見出したという以外に大した業績はなかったようだ。

 とはいえ当時の鳳アキコは自分を認めてもらえたと喜んで、大いに参加したことが知られている。

 男たちは、

「キミがアキコちゃんかあ! 歌、よかったよ!」

「なんか男勝りだねえ! カッコよくていいよ!」

 そんなことを言ってアキコを持て囃していたらしい。彼女のほうも、そういう扱いについてあまりイヤな気はしなかった。

 ――良いものを書こう。

 そう思った。

 時代は1900年になっていた。

 あるときアキコは、浪華青年文学会の男たちに歌会に誘われることになった。

「浜寺公園でさあ、みんなで歌を詠み合うんだよ。アキコちゃんも来なよ!」

「へえ、歌の詠み合いか!」

 アキコは、ぱっと目の前が開けたような気持ちになった。自分の才能がもっと多くの人にに認められるような思いがした。

「ふふーん、ふーん」

「なんだよアキコちゃん、ずいぶんご機嫌だなあ」

「そりゃあそうだろ。アタシさあ、歌を詠んで添削してもらえるなんて生まれて初めてだ。

 どんな偉い先生が来てんのかなあ? ちゃんと聞いてくれなかったらブッ飛ばしてやる」

 アキコはぴょんぴょんと跳ねながら歌会の場所に入っていった。

「こんちゃーす! 鳳アキコでーす!」

 彼女がそう言って下駄を脱ぐと、既に待っていた先生がぐっと顔を上げた。

 男で、綺麗な顔立ちをしていた。

「え、あ」

 アキコがその美しさに戸惑っていると、彼のほうはフッと微笑んで手をひらひら

とさせた。

「ようこそ、待ってましたよ――鳳アキコさんだっけ?」

 と先生は言った。

「僕は与謝野テッカンです。ちょっと待っててね、いま妻が茶を出すから、ゆっくりしてて?」

 そんな風に彼は言う。

 アキコは、ぽかーんとしながら彼の顔を見て、それから火がついたように頬が熱くなるのを感じた。

 人が恋をする瞬間は、どんなものなのだろうか。

 きっと一般論で語ることはできない。

 しかし、鳳アキコにとっては、これが生まれて初めて人を好きになった瞬間であった。

 ――あれ? どうしよう。アタシ、この人のことが好きだ。歌人としての尊敬とかじゃない。女として、男のこの人が好きになってる。

 こんな風に黙っているアキコを、誰もが不思議に思っていた。

 浪華青年文学会の男たちも、

「どうしたのアキコちゃん、早く中に入りな?」

 と促してきた。

 それに対して、アキコのほうはといえば静かに、

「――黙れ」

 と呟くだけだった。彼女は今、与謝野テッカンの言葉しか耳にする気がなくなっていた。

 やがて鳳アキコは下駄を脱ぎ、居間に向かってゆっくりと歩を進めた。

 与謝野テッカンも彼女の重々しい雰囲気に気づいてゴクリと喉を鳴らす。

 そうしてアキコは正座すると、テッカンの目を真正面から見つめてこう言った。

「アタシが書いた歌、隅から隅までぜーんぶ検討してくれよ、テッカン先生?」


 不倫の始まりだった。

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