第2話 ドラゴン
旅立ちの日は、晴れにしようと決めていた。
雨だと歩きにくいだろうし、なにより空が見えると気分がいい。あらかじめ荷物をまとめておいた皮袋を背負って、俺は歩き出す。
目指すのは、とりあえず西——そちらの方角には大きな都市があると、話に聞いていた。まずはそこからだ。
集落の境を踏み越えると、その先は傾斜のきつい丘になる。
とくに別れの挨拶をしていくつもりもなかったが、登り切ったところで待っていたリザードマンがいた。
「行くのか」
青い鱗を持つそのリザードマン——ギルは俺の弟で、五人いる兄弟姉妹の中では最もまともに話の通じる相手だった。
唯一、と言い換えてもいい。
「なんだよ」
俺は目を細める。
「意外だな。見送りとかするタイプなのか」
「一応、家族だろ」
家族。その割には、ここに来たのはギルひとりだ。
リザードマンという種族の文化的慣習なのか、あるいは俺が彼らのコミュニティに馴染めていなかったからなのか。
たぶん後者なのだろう。
「まあとにかく、俺は行く。ここには、もう戻らないだろうな」
「そうか」
ギルは頷いた。その表情は相変わらず希薄で、俺にはなにも読み取れない。
だが、こうして別れを告げに来たという事実から考えるに、俺とギルの間にはそれなりの信頼関係があったということなのか。
そう思ってみると、確かにほんの少しだけ、寂しいような気がした。
背後を振り返る。赤茶けた岩が形作る谷の合間に、天幕が立ち並ぶ集落が見えた。
その内のひとつの前で、爪と爪が激しく交差している。
彼らの流儀で言うところの『誇り高き決闘』。
どんなに些細な揉め事も喧嘩で決着するリザードマンの文化は、おそらく前世の影響を多大に受けたのだろう俺の精神性とは致命的なまでに相性が悪かった。
——やっぱり、うんざりするだけだな。
そう思って、俺は笑う。
ようやくここから出られると思うと晴れやかな気分になった。
「なあ、兄貴」
視線を戻す。無表情のままのギルが、こちらを見ていた。
「本当に、なれると思うのか」
「なれる」
俺はそう断言する。
「少なくとも、実際になった奴はいる。長老の爺さんもそう言ってた」
「それは、二百年も前の伝説だろ。長老だって、その目で見たわけじゃない」
「おい、心配してるなら余計なお世話だし、引き止めたいなら——」
「そうじゃない。ただ」
ギルはそこで言葉を切って、喉を鳴らした。
名前の由来が、生まれたあとに最初に発した言葉が「ぎるぅ」だったからだというふざけた命名法則を思い出す。
それはちょうど、そんな音に聞こえた。
ちなみに同様の理由で、俺にはガルという名前が付けられている。
覚えやすいところだけは気に入っている。
「ただ、そんな無駄なことに人生を費やす兄貴の気持ちが、わからないだけだ」
「そうかよ」
お互い様だな、と俺は思った。
それ以上話すべきことはなかった。
「長老によろしくな。それから一応、他の家族にも。なんか聞かれたら、あいつは出てったって言っといてくれ」
「……ああ」
さよなら、とも言わなかった。最後に目を合わせることもなく、俺たちは別れた。
こうして俺は、リザードマンとして生まれ育った集落を出た。
リザードマンの身でありながら、ドラゴンへと昇華した英雄という、誰からも一笑に付されるような伝説を当てにして。
◆
それは、尾を引く流星のように見えた。
だが、流れ星ではないことはすぐにわかった。真っ昼間だったし、星にしては距離が近すぎたし、なにより徐々にその高度を落としてきていたからだ。
端的に言えば、墜落していた。
休んでいた俺は思わず立ち上がって、その落下物に目を凝らした。
故郷を出てからはまだ三日しか経っていなかったし、あれが落ちる位置が集落かどうかはさすがに気になる。
決して好きな場所ではなかったが、だからといってどうなってもいいと思えるほど、俺はくだらない性格の持ち主でもない。
白い影はどんどん近づいてくる。
隕石——では、ないらしい。鳥にしては大きすぎたし、飛行機はもちろん違うだろう。
それには尾があった。頭があった。四肢があり、角があり、そして翼が生えていた。
俺が叫び声を上げそうになったのは言うまでもない。
今度こそ間違えようもなく、それはドラゴンだった。
白いドラゴンははばたくこともなくそのまま高度を下げ続け、やがてここからほど近い森の中に墜落した。轟音とともに地面が揺れ、小鳥の群れが散っていく。
意識した時にはすでに、俺は走り出している。
たいした距離ではなかったはずだが、ずいぶん遠く感じた。
俺が墜落地点にたどり着いた時、すでに土煙は収まっていて、森は普段の静けさを取り戻しつつあるように思えた。
ゆっくりと、周囲を見回す。
へし折れた木々、砕けた地面、潰れた草花。そういう痕跡が、確かにここに落ちたという事実を証明している。
だが、肝心のドラゴンの姿がなかった。逃げたのか? いや、あの巨体が移動したような跡はどこにもない。
まるで煙のように、ドラゴンは消えていた。
「——」
その時、なにかが聞こえた。
俺は息をひそめる。耳を澄まし、それを聞き取ろうとする。
「——れか——いるの、か」
人の声だ。間違いない。
声のした方向を探索すると、相手はすぐに見つかった。
人間の、女だった。折れた木の根元に、寄りかかるようにして座り込んでいる。
年齢は二十五とか、それくらいだろうか。鉤爪のような紋章の付いた軍帽を被り、出来のいい皮鎧を身に着けていた。階級とか――詳しくないが、それなりに立場のある人間らしい、と俺は思う。
女は俺の顔を見て、ひどく驚いたようだった。
「——リザードマン、か」
「ああ。悪いか」
俺は頷く。
「……失礼。会うのは、初めてでな。こんな状況でなければ、握手でも——交わしたかった、のだが」
掠れた声でそう言って、女は力なく笑う。
その腹を深く貫くように、一本の槍が刺さっていた。装飾もない、黒い槍。
傷口からは血が流れ続けている。
俺に医療の知識はなかったが、それがすでに手の施しようのない傷であるということはなんとなく理解できた。
あまり喋らないほうがいいんじゃないか——なんてありがちな台詞を吐こうとして、俺は思いとどまる。
黙られたところで助けようがないのはわかりきっていたし、向こうが喋りたいのなら喋らせておけばいい。俺にそれを止める権利はないし、意味もない。
「きみの——名前も、知らないが」
女はじっと、俺の目を見ていた。
なにかを計りかねているようだったが、やがて決心したのか、それとも諦めたのか。
とにかく小さく息を吐いて、言った。
「頼みたい、ことがある」
「頼み?」
死を迎える人間の、最後の頼み。そう考えると断りづらかったが、正直なところ引き受けたくはなかった。
俺には目指すべき目標があり、それは始まったばかりなのだ。
「悪いけど、あまり気は進まないな」
「はは、正直な、奴だな。嫌いじゃない」
「……でもまあ、ついでにできそうなことなら聞いてやるよ」
しかしもちろん、俺はくだらない性格ではない。
気に食わないリザードマンたちへの反抗の意を込めて、せめて俺だけは社交的かつ文化的なリザードマンであろうと決めていた。
あるいはそれは、薄れていく前世の記憶への抵抗なのかもしれない。
「それは、嬉しいが。そう簡単ではない。ドラ、ゴンの——護衛、なんて。だが、見ての通り、きみにしか頼めないし——」
「待て」
続けようとした女を、思わず制止する。
「いま、ドラゴンって言ったよな? ドラゴンの、護衛?」
「ああ——助けを、必要としている。もちろん、危険な」
「引き受けた」
「追手が——はあ?」
呆気にとられたような表情で、女はまばたきをした。
若干の困惑すら含んでいた。
「い、いいのか? いや、いいなら、いいんだが、その」
俺は大きく頷く。向こうが健康なら握手をしていただろう。
「もちろんだ。あとは任せてくれ。で、ドラゴンはどこにいるんだ」
「……あ、ああ、そうか。そうだな。わかった——出てきて、いいぞ」
背後の木立から、がさりという音がした。
ついに。期待とともに、俺は振り返る。
だがそこに待っていたものは、俺が想像していたものとはまったく別の、百八十度異なる種類の衝撃だった。
「竜士部隊所属騎竜、十七番。ドラゴンです。よろしく、お願いします」
暗記した挨拶を、型通りに述べたような。
そんな無機質さとともに、白い髪の少女は自己紹介をした。
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