転生リザードマンはドラゴンになりたい

三社

第1話 トカゲ

 空を飛びたい、と俺は願った。

 かつての話だ。今では断片的にしか憶えていないほど、遠い昔の話。

 前世だとか、そんな風に呼ぶべき場所なのかもしれない。


 その世界での俺がどういう人生を送っていたのか、具体的なことは忘れてしまった。

 ただ、空を見上げていた記憶は残っている。

 この地上を飛び立って、空を自由に駆け巡る——それはどんなに楽しいことなのだろうかと、あの時の俺は考えていた。渇望していた。


 果てしないほどに広がる青。

 世界そのものを染めてしまう赤。

 決して見通せない、どこまでも深い黒。

 そして、それらをなににも縛られず、自由に飛んでいく翼。


 そんなものに、どうしようもないほどに、憧れていた。

 その衝動と熱だけが、俺に残された確かな願いだ。









 ——まぶしい。

 最初にそう感じた。薄く開いた俺の目に、丸く切り取られた空が映っていた。


 ここはどこだ、とぼんやりとした頭で思う。

 どういうわけか、視界がひどくかすんでいた。なにかが空の大部分を覆い隠していることはわかるが、あれはなんだ。

 頭が痛い。思考が混乱していて、うまくまとまらない。


 俺は息を吐いた。まばたきをして、空気を深く吸いこむ。世界が徐々に、色合いと形を取り戻していく。

 そうしてまず見えたのは、ごつごつとした岩肌だった。


 洞窟の中、だろうか。静かでがらんとした空間が広がっている。

 辺りを照らす太陽の光は、ちょうど天井に当たる位置に空いた大きな亀裂から差し込んでいた。


 もちろん、まったく見覚えのない場所だ。そもそも、俺は洞窟を訪れたことなんて——


「おれ?」

 反射的につぶやいたその声には、どことなく違和感があった。

 正確に発音できていたか怪しい。人間の声ですら、なかったかもしれない。

 だが、そんなことを気にしている場合でもなかった。


「おれは、だれだ」

 憶えていなかった。

 住所も、年齢も、名前でさえも。ただぽっかりとした空白がそこにあった。長い夢を見て目覚めた朝のような、そんな気分だった。

 喪失感と、焦燥。じっとりとした不快感が、背中から這い上がってくる。


 ——落ち着け。

 俺は頭を振る。こういうとき、まずしなければならないのは冷静になることだ。

 なんでもいいから、なにか手を考える——そうするべきだと、本能が告げていた。


 そうだ、財布。スマートフォンでもいい。ポケットかどこかに入っていれば、そこから俺に関する情報を得られる可能性は高いはずだ。

 半ば祈るような心持ちで、俺は自身の体を見下ろす。

 そして、絶句した。


 ずいぶん奇妙な光景だった。

 割れて半分ほど残った卵の殻から、痩せた胴体が突き出ている。その手足の爪は鋭く硬質で、皮膚のほとんどは深紅の鱗に覆われていた。

 どこからどう見ても人間ではなかったが、それは間違えようもなく、俺の体だった。


 呆然と立ちすくむ俺の目の前で、背後から伸びてきた細い尻尾が、まるで挨拶でもするかのようにゆらゆらと揺れた。


「ああ」

 声が漏れる。

 爬虫類めいた風貌に、人のそれに近い知性。こういう存在のことをなんと呼ぶのか、俺は知っていた。

 ドラゴンだ。


 なぜ自分がドラゴンになっているのかとか、そもそもドラゴンは実在しないはずだとか、ここはどこなのかとか、考えるべきことはたくさんあった。

 だが、ドラゴンになった以上、やることは決まっていた。


 ——飛べる。

 ドラゴンなら、空を飛べる。

 それだけが重要だった。ほかのことはすべて忘れたってかまわない、と俺は思う。不安が消え、全身を熱い高揚感が満たしていく。


 こうしてはいられない。

 いつまでも地面でぐずぐずしているほど、俺は我慢強くはなかった。

 残っていた殻を素早く脱ぎ捨てる。真上に見える大穴に狙いを定め、そして——。


 翼をはためかせようとして、そこでようやく、俺は気づいた。

 この背中には、なにも生えてはいないことに。


 自分が単なるトカゲ人間リザードマンにすぎないということを知ったのは、これから一時間ほどあとの出来事だ。



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