砂漠の水槽に水が落ちる
雨野水月
プロローグ
誰もいなくなった放課後の教室で、私は一人泣いていた。
悲しくて悲しくて仕方がなくて、瞼から勝手に流れてくるこの水を、どうしてもせき止めることができない。
私は、どうしていつもこうなんだろう。
頑張りたくて、けど寂しくて、結局一人じゃ何もできなくて、最後はこうやって泣きだしてしまう。
いっそ、またすべてを諦めてしまおうか──
そう思った時、突然教室のドアが開いた。
そこに立っていたのは、私がよく知るクラスメイトの男の子だった。
「
「
私は慌てて事情を説明しなければと思ったが、あまりに急なことにびっくりしてしまって、うまく喋ることができない。
日宮くんも、信じられない量の涙を流す私を見て、驚いたような困ったような顔をしている。
私は、そんな日宮くんの顔を見て思った。
私一人では、何にもできないかもしれない。
また失敗して、今のように情けなく泣いてしまうかもしれない。
でも。
それでも。
この人と、一緒だったら──
私は意を決し、人生で最大の提案をした。
***
ホームルーム中の教室は、気だるげな雰囲気に満ちていた。
聞こえてくるのは、担任が連絡事項を淡々と読み上げる声と、やけにうるさい空調の音だけ。生徒はみんな何も言わず、この退屈な時間が早く終わることを切実に待っている。
担任の声がやたら耳に反響してくるのは、12月の乾燥した空気のせいだろうか。
潤いを失っている教室で、俺もまた話を聞き流してぼうっと空を眺める者の一人だった。
「──じゃ、これでホームルーム終わり。日直は……佐藤、号令よろしく」
「起立。気を付け。礼。」
ようやく担任が話を切り上げて、日直がホームルームの終わりを告げた。
途端、教室の雰囲気は一気に変わり、賑やかな喧騒が空間を満たし始めた。
陸に上げられていた魚たちが、大量の水をかけられて一気に息を吹き返したかのようだった。
「日宮、また明日~」
「ういっす、大村。また明日」
「じゃあな
「ふざけんなコラ松井、明日は貸さないからな!」
「ウチも帰るわ、バイバイ陽人~」
「おう、美鈴もまた明日な」
俺は、次々とやってくるクラスメイト達の挨拶をテンポよく捌いていく。バスケ部、野球部、帰宅部。俺に話しかけてくる連中は、派手な着こなしや髪型をしたやつらが多い。
いわゆる、陽キャと呼ばれる人間たちだ。
そしてその輪の中心にいる俺もまた、陽キャというやつなんだろう。
どうやら世間では、陽キャというものはコミュ力に優れた者だけがなれる特権階級のような扱いをされているらしい。が、俺は自分が「こちら側」の人間であることに特に何も感じていなかった。
なぜなら、簡単なことだからである。
人間関係なんて、うまくいく方法さえ知っていれば誰だって容易に乗りこなしていけるものだ。俺は、ただその方法をそのまま実践しているだけ。
結局は、適切な距離感で、その場で必要とされている言葉を選ぶ。それだけだ。
一通りのクラスメイトを捌き切り、自分も帰り支度を終えようとしていると、後ろから聞き馴染みのある声がかかってきた。
「おい、陽人。帰るぞ」
振り返ると、すれ違うだけで目が眩んでしまうような美男子が立っていた。
サラサラの黒髪、長い睫毛、高い鼻筋、大きい平行二重の目を宿した完全無欠の顔面が、俺を見つめている。
毎日、必ず最後に話しかけてくるこのイケメンが、幼馴染の
「おう。相変わらずイケメンだな」
「は? 殺すぞ」
俺が軽口をたたくと、流星はその美しい顔で俺を親の仇くらい睨みつけてきた。
そう、流星は昔から性格がきついのである。その美貌から、数多くの人間がお近づきになろうと流星のもとにやってきては、ほとんど全員が心を折られて帰っていく。生まれながらの一匹狼気質で、友達も極端に少ない。
今も、この高校では幼馴染の俺くらいしか友達がいないのではないだろうか。
もっと小さい頃は今よりもだいぶマシだった気もするが……まあ、少なくとも俺のことは友達だと認識してくれているみたいなので、この関係が今でも続いている。
「悪い悪い、帰ろう」
そうして、俺が荷物をまとめて席を立とうとした時だった。
「ふっっっざけんな!!!!!」
突然、激しい怒気を纏った声が、教室中に響き割った。
空気が一瞬で凍りつく。その場にいた誰もが声をした方に顔を向けた。
声を上げていたのは、
明らかに、あのグループで何かの諍いが起きたようだった。
凛がものすごい殺気を放っていて、周りに迂闊に近づけるような雰囲気ではない。教室に残っていたわずかなクラスメイト達は、できるだけ音をたてないようにそそくさと退散していった。
「り、凛めちゃくちゃキレてるな……行こうぜ、流星」
面倒な争いは、避けるに限る。
誰かと本気でぶつかったって、良いことなんて何もない。
人間関係なんて、所詮はただの茶番なんだ──
ふと、騒動の渦中で棒立ちしていた一人の女子と目が合った。
肩甲骨あたりまで伸びた長い黒髪。まさに美少女といった感じの大きくて丸い目。
その和風な名前と上品な性格も相まって、男子たちから「一年のマドンナ」と言われていることを思い出した。
月乃は、俺と目が合ったことに気付いているようだが、その丸い目を逸らすことはなかった。
何かを伺っているような、不安な表情でこちらを見つめていた。
──助けて、と言われているような気がした。
俺はとっさに目を逸らした。気のせいだ。気のせいに決まってる。
一瞬、忘れられない記憶がフラッシュバックしそうになる。
「陽人、どうした?」
「──いや、なんでもない。帰ろう」
俺は流星と二人で、教室を後にした。
「いやあ~、それにしても凛マジ怖かったな」
「ああ、上地は恐ろしいな」
「流星って上地とは仲良いのか?」
「いや別に。前実習で一緒になった時に話しただけ」
俺たちは取り留めもない話をしながらだらりと歩き、気づけば駅にたどり着いていた。
そのまま改札を潜り抜けようとした時、俺はあることに気付いた。
スマホがない。慌てて教室を出てきたあまり、机の中に置いてきてしまったのか。
「あ、やべ」
「どうした?」
「ごめん流星、俺教室にスマホ忘れてきたわ。取って帰ってこなきゃ」
「……は??」
冷たい目線が顔に突き刺さる。
「す、すまん……もしあれだったら、先帰ってていいぞ」
「──はあ、お前はほんとに……別にいいよ、ここで待ってる」
「マジで? ありがと!」
流星は心底呆れた顔でため息をつき、駅のベンチに座ってスマホをいじり出した。
当たりはきついが、昔から本当に根が優しい男である。
流星にひとしきり謝ってから、俺は学校のある方へ通学路を急いで戻っていった。
結局学校に到着した時には、時刻は16時半を少し回るほどだった。12月の太陽は既に遠くに落ちかけていて、真っ赤な夕陽が校舎全体をライトアップしていた。
校舎の中に入ると、先ほどまで聞こえていた運動部の掛け声は遠景に退き、少し寂しくも心地よい静寂が身を包んだ。
黄昏時、というやつだろうか。
この時間、おそらく教室には誰もいないだろうな。俺はそんなことを思ってちょっとだけ浮足立ちながら、教室のドアを開けた。
そして、見覚えのある女子が教室の中にいることに、その女子の様子が普通ではないことに、すぐ気が付いた。
誰もいない放課後の教室で、佐竹月乃が泣いていた。
いや、泣きじゃくっていた。
真ん中の席に座って、手で顔を精一杯拭いながら、ひどく嗚咽をもらしている。
涙が溢れてきて止まらないようで、机に敷いてあるハンカチが随分と濡れていた。
手の甲から零れ落ちていった雫が、夕暮れの淡い光に溶け込み、きらきらと輝きを反射していた。
綺麗、だと思った。
その綺麗な涙で、この教室が満たされてしまえばいいのに。そう思った。
呆然としていると、月乃が俺に気付いたようで、大きな目を見開いた。
「日宮、くん……?」
「月乃……?」
月乃はあまりにも驚いているのか、口を魚のようにぱくぱくさせている。
「だ、大丈夫か……?」
ざっと十秒ほどは口をぱくぱくさせていたと思えば、月乃は突如として何やら考え込むような態勢に入った。
「日宮くんにお願いするというのは……」
「月乃……?」
「日宮くんなら、なんとかできる気が……」
「つ、月乃……?」
「いやでも、本当に大丈夫なのかな……」
「月乃……?どうした……?」
ずっと難しそうな顔をして、もにょもにょと独り言を呟いている。
というか、月乃ってこんなやつだったっけ……?
もうちょっとその、こんな親しみやすそうな感じというか、悪く言えばこんなアホそうな感じじゃなくて、ちゃんと「一年のマドンナ」感のあるやつだったような……
「よしっ……!」
俺がクラスメイトの意外な一面に驚いていると、ついに月乃が独り言を終えたようで、俺に顔を向けた。
窓から差し込むオレンジ色の光線が、その小さな背中を強く照らしていた。
明らかに、何かを決心したような表情だった。
「あのね、日宮くん……実はお願いがあるんだけど……」
「あ、ああ……何……?」
月乃は、口を固く引き結んだ後、言った。
「私の友達を──仲直りさせてくれませんか!!」
砂漠の水槽に水が落ちる 雨野水月 @kurage_pancake
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