羽のスケッチ①

「ねえ、背中向けて座っててくれないかな。」

画材を見つけて初めての週末に妖精に頼んだ。

会社帰りにコンビニで買ってきた小さいクッキーがいくつか入った小袋とミルクピッチャーに入れた牛乳を渡すと、喜んでモデルを引き受けてくれた。

背中を向けて座っておやつを食べているだけの仕事だ。


どうせ出世できるはずもない仕事だからと、残業時間を減らし、仕事のいくつかを断って、帰宅が早くなった。

収入はもちろん少々減ったけれど、どうせ残業代全部が出ていたわけでもない。

生活の資金繰りはちょっと悪化しても、妖精は早めの帰宅を楽しみにしてくれたし、顔色が良くなったと言って喜んでくれたから、それだけで元が取れたような気がした。

おかげで少しだけ部屋は片付いて、少なくとも変なものを踏んだり、生ごみがたまったりはしなくなった。

大事だったはずのものをいくつか発掘することができて、それらのひとつが画材だったというわけだ。

いわゆる下手の横好き、習ったこともない。

それでも嫌なことを忘れていられるくらいには集中のできる趣味だった。


「なんだか、カリカリって音がするけど?」

妖精がこちらに興味を持ったのか声を上げる。

「モデルをしてくれるんでしょ、もうちょっとおとなしくしていて。」

下書き用の鉛筆の先をカッターナイフで整えながら、振り返ろうとするのを止める。まだ描き始めてはいないけれど、頭の中では考えている。自分にない器官を絵にしたいのに、苦手な顔のパーツまで画面に入ってしまったら、うまく描けない気がするのだ。

「そういう約束だったね、わかった、もう少しじっとしている。だけど、あとで何をしていたか教えてくれないかい?」

「恥ずかしいからだめ。」

「そんな、気になって夜しか眠れないじゃないか!」

わざとらしい声を上げる。

「うわ、私が仕事に行ってる間、めっちゃ昼寝してるってことね。」

「ばれたか。」

愉快そうに薄い肩を揺らす。

こんな瞬間に、くだらない会話が幸せだということを思い出させてくれる。

たまにはひとりになりたいと、面倒に思うことがないではないけれど、どうせ通勤中はひとりきりだし、会社でもひとりのようなものだ。

家にいる間くらい、手のかかる同居人の世話を焼くのは構わない。むしろ生きていくうえで大事なことのように思った。

「ペットを飼う人の気持ちがわかるなあ。」

「えっ、僕ってペットだったのかい?」

傷ついたんですけど、と聞こえた気がして、慌ててフォローに入る。ペットは家族だし、いや、そもそもペットだと思っているわけではない。

「寂しいと、他の生き物と生活したいと思うものだってことだよ。

ほら、ペットじゃなくてサボテンとか植物を育てる人もいるし。」

「待って、それだと僕は、サボテンと一緒なのかい?

もしかして、トイレが必要ないって意味でサボテン寄りだと思ったのかい?」

そんなことでサボテンをあげたわけではないけれど、よほど引っかかるらしい。君にとってはサボテンかあ、と繰り返し呟いている。

しかし、妖精はどんなに食べても排泄はしないので、それはとても不思議生物らしい点だし、とても助かる。

彼は初日から同居人という表現を推していたけれど、費用も家事もすべてこちらもちなんだから、ペットでないならヒモになってしまうのではないだろうか。


まとまらない思考を脇において、改めて尋ねる。

「羽って、どんな感じなの?」

「どんな、って、どういう意味だい?」

見た目はこの通りだけれども、と少し身じろぎした。

「私にはないから、羽があるっていうのは、どういう感じかなって。」

「そりゃあ、腕があるのがどんな感じとか、足があるのはどんな感じとか、そんなことを聞かれるのと同じだろう。ずっとあるものがあることはどんな感じかって、聞かれてもわからないなあ。」

そう言われればそうだ。あるから動かせるし、動かないという感覚がわからないのは、両方体験して初めて知ることだろう。きっとそうなった時だって、どうして動かないのか理解できないに違いない。

「じゃあさ、先の方まで感覚はあるの?」

「触ってみてごらんよ。」

触ったら壊してしまいそうで怖いけれど、トンボの羽だって触っただけでは破れない。トンボよりは大きくて幅も広いのだから、相応に丈夫にできてはいるはずだ。

先に触れても、痛いとは言わなかった。

「当たってるのは、わかるけれどもね。でも、そのくらいだね。

ちょっと引っ張ってみてくれるかい?」

「え、これを?」

「そう簡単に引っこ抜けたりはしないよ。もちろん、ちょっとだけだ。」

そっと、彼の体が浮いたりしないか見ながら引っ張ってみる。

「痛くない?」

心配するけれど、なんてことないような返答が返ってくる。

「このくらいなら問題ないけれども、たぶん、羽そのものには痛覚はないね。先がたわんでも先は痛くなくて、体の方が痛い。

ふむ、そんな具合にできているんだねえ。」

彼はまるで他人事のように言った。

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