第九話 稲葉さんの頼み

 翌日の葵はなんということはなかった。仕事に支障をきたさないのは、葵の仕事に対する責任感からくるものだった。

 そんな葵を残して家を出てた雪は、コンビニのおにぎりを買うことなく学校についた。正月明けから葵についてきてもらうことはなくなった。黙って了承してくれた葵には感謝しかない。

 中央玄関をくぐり、雪解け水が滴るローファーを脱ぐ。

 校則に厳しいその学校は、設立からゆうに百年を超えているらしい。何度も建て替えが行われているためにそう思えないが、錆び廃れた裏庭の銅像が物語っている。

 と言っても時代に逆らえるような権威や実績があるわけでもなく、近年は進学校を謳っている。冷気が立ち込める窓際の一番前の席につくと、おもむろに机からノートを取り出した。

『No.二十四 考察 八瀬葵 三』

 最近の葵となれば、もっぱらノートに執心であった。以前クラスメイトが書き込むノートを覗いたとき、そこにはヒトラーについての功績を考察したみみず文でびっしりと埋め尽くされ、気味悪がられた。

 口を引き結んで、余すところの少なくなったノートの残りを開く。周囲の気温も手伝って、雪の周りは間違いなく寒かった。誰も寄り付かない。文字を追いかけはじめると、クラスの喧騒が遠のいていき、すぐに予鈴が鳴った。


「あ、準備忘れてた」


 一校時は数学、顔を上げると、教壇には縁なし眼鏡をきらめかせた教師がそびえていた。




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 「ろ、六之条さん」


 教科書を閉じて、なんとなしに教師が出ていくのを見送っているときだった。

 視線を滑らせてみれば、栗色のショートボブが印象的な少女——稲葉布江が緊張した面持ちで返事を待っていた。身長が低く、いつもおどおどしていると、雪は頭の隅で栗毛少女の情報を引っ張り出していた。


「なに、稲葉さん」


 軽く目を見開いた布江に眉をひそめる。葵の様子に布江はブレザーのそでが余った部分を振って必死に弁明した。天然のもえ袖に目を引き寄せられた。

 

「ご、ごめん。その、今日はおにぎり食べてないから、体調不良なのかな」


 そういえばいつも声をかけてくるのは、この子だけだったな。

 不思議に思いつつも冷たく見据える。葵にとってクラスメイトは関心の対象外でしかない。顔も名前もあまり覚えていないのだ。これを機に布江のことでも焼き付けておこうとじっと見つめると、少女はパッと顔をそらした。


「……わたしは稲葉さんになにかしましたっけ」

「そ、そうじゃないんだけど……見つめられると反射的に」

「理解しました。以後気をつけます。それで質問ですが、わたしにも気を病む日くらいあるんです。まあ考え事をしてただけっていうのも、ありますけどね?」

 

 冗談っぽく見やれば、布江は肩の力を抜いて『そっか』と一言。

 クラス内がしんと静まり返っていた。

 訝しんで見渡すと、だれもかれもこちらを見つめている。なにをやってるんだこの人たちは。疑念をもつも、空気に口を閉じて開けない。答えてくれたのは目を伏せた布江だった。


「あの、言いにくいんですけど、多分六之条さんが笑ったからじゃないかと……」

「……ふざけた人たちですね」


 大げさすぎる、不快に顔をしかめると切り替わったように時が動き出した。

 雪もノートを出してペンを手にするが、布江に立ち去る気配がないので仕方なく付き合うことにした。


「稲葉さんはなぜわたしに話しかけるのです。あなたに利するところがあるとは思えないのですが」

「そ、それは……」


 考え込むように黙る布江に、やはりすぐ返答できてしまう葵のほうがおかしいのだと実感する。自分の言いたいことを理路整然かつ、会話の中で構築できるのはそれだけ処理能力に優れている証拠だ。きっと雪より頭の回転がはやい。

 一から十を、十から百を導き出すのが八瀬葵という人間だ。でなければ声一つで、相手の感情の隅から隅まで推測する真似はできない。接しているとむしろ、そうしなければ生きてこれなかったのではないかとも感じるが……。

 そこで息をついた。布江は気づかないようだが、雪は自身の寄った思考を反省する。

 もう一度布江に向き直って聞き方を変えてみる。


「ごめんなさい。わたしに求めているもの、それを知りたいの」

「求めているもの……あの目の悪そうな人のこと、かな」

「八瀬さんですか?」


 途端に目を丸くしてしまう。葵のことが話題にあがるのは珍しいことではない。学生たるもの、刺激に飢えた獣と言い換えられるくらいだ。目立つ葵ならゴシップ記事の俳優くらいの話題にはなる。

 初めて少女らしい、年相応の顔つきになって布江は口元をゆるめた。


「うん。この前ぼうっとしてて、道路に飛びだそうとしたところを助けてくれたんだけど、お礼を言えてなくて」

「そう、だったんですか」


 意外というか、雪には想像できない行動だ。

 いつの間にか布江は顔をあげ、朱を揺らす雪に語る。昼のながい休み時間、話す余裕はたっぷりあった。

 くみ取った布江はもっと具体的に、まるで昔の知り合いにあったかのような弾み声で言う。


「後で少し質問されて、貧血気味だからめまいに気をつけるようにとか、ひび割れに気づいて買い足したハンドクリームをひとつ分けてもらったり、お世話になった。けどその……八瀬さんはすぐにどこかにいっちゃったから」


 できれば会わせてほしい。

 迎えに来る葵に直接声をかければいいのに、律義な子だ。感心した雪が拒む理由はなかった。同時に、それが葵を元気づける一助になるかもしれない。そんな期待を胸中に灯らせる。

 雪は落ち着いた微笑みを浮かべ、緊張を解く。

 この子なら問題はない。相手の言葉を受け止めるだけの意思を感じる。  

 初めて、しかと稲葉布江と相対した雪の所感はいいものだった。


「分かりました。話してみます」


 その言葉にほっと胸をなでおろす布江をみとめ、前髪を耳裏にかけてペンを置く。


「それで、どんな会話をしたのですか?教えてもらえると助かります」


 急にそわそわしだした雪に身を引いた布江は、戸惑いつつも答えてくれる。


「え?ううん、口止めされてるから無理」

「そんな⁉」


 眉を下げて申し訳なさそうに肩をすくめる布江のまえで、どうすれば聞き出せるか頭を抱える雪の気分は、こころなしか軽くなっていた。

 授業を終え、帰途につこうと校門を通り過ぎて体の向きを変える。袋を両手に下げた青年がいた。あんな顔を見たばかり、一抹の不安をおぼえつつも、それが声にでないよう、細心の注意を払って声をかけた。


「八瀬さん!今日も買い物帰りですか」

「六之条さんが毎日冷蔵庫を空っぽにしてくれるおかげですよ」

「くっ」


 痛烈な皮肉に顔がひきつるも、真っ赤にしもやけた顔を見ると、それも甘んじて当然だと納得してしまう。手も、ずっしりした袋に赤くなっている。どれくらい待ったのかも分からないばかりに、足は棒になっているかもしれない。

 これは急いだほうがいい。諸原因の雪は早速持ちかけた。


「まあいいです。それより葵さんに会いたいって子がいるんですけど」

「柵向こうで足踏みしてる子でしょう?さっき話してた」


 言葉を失った雪は唖然として、こちらをしきりに見やる小さな同級生と見つめあった。気を持ちなおして手招きすると、早足にやってきた。


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 実は気づいていた。毎日のように同じ人が、葵を気にして歩みに迷いをみせる。その足音の感じには覚えがあった。葵には声のかけ方もわからず、気にかかる程度のものだったが、どうやら雪の知り合いらしい。

 しゃがんで目線を合わせる。袋二つまとめて肩にかけ、白い息をはいた。


「お、お久しぶりでしゅ!」

「こちらこそ、前は……去年の今ごろだったかな。どうです?ちゃんと三食たべててますか?」

「……はい」


 胸を抑える布江に駆け寄ろうとした雪は、その様子がおかしいことに気づいた。

 眉根にしわを寄せてこみ上げるものに我慢しているようだった。見やった葵はすべてを察し、柔和に微笑んでいる。

 なら、と成り行きを見守った。


「落ち着きましたか……?」

「はい。あ、ありがとうございます」

「……私は八瀬葵。八の瀬に渡り、多くの実りをもたらす葵と書きます。お名前をうかがっても……?」


 ゆっくりと、幼子へ言い聞かせるように口調を整える。

 明かりの下で、言いあぐねる布江に合わせ、偶然口がそろった。


「「稲葉布江」」

「えっ⁉」

「私は聞いた音を忘れないんですよ。あなたが言ってくれたことを、私はすべて覚えてます」


 嬉しそうに目を細める葵に、想念が目じりをへとたまっていく。


「また会いましたね。布江さん。少し大きくなりましたか」

「……葵さんこそ、お変りないようで安心しました」

 

 あふれるものを噛みしめ、布江は精一杯の安堵を込めた。



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目頭奥でズキン、後頭部の頭蓋裏でズキン……ううむ、語調が気に入らない

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