第八話 知るべき痛み
雪も深まる曇天の昼下がり、道路に面した店は窓ガラスに最低賃金のバイト募集を貼っている。その紙は店内の照明で透けていた。金属製の商品が所狭しと陳列された店の隅で、難しい顔をした葵は両手にフライパンを持っていた。片方を上げてはうなり、もう片方も同じように決めがたい。一度、商品棚に戻して口元をおおった。
見分しにくく値の張るフライパンを求めているのには理由があった。
「……六之条さんはほんとにもう」
肩を落として嘆息した。話は前週の土曜まで遡る。
昼過ぎ、急に雪が葵に休みを言い渡し、手持ちぶさたとなった彼は趣味の散歩に出かけた。しんしんと降りしきる雪を場末のベンチで見上げてひとしきり、葵が帰ると、雪は三パック目の牛肉を開けようとしていた。突然のことに固まった手から、パックごと熱々のフライパンに滑り落ちた。
葵は判断が速かった。コンロの稼働音と、プラが溶けて放たれる異臭で瞬時に彼女の口元を抑えてキッチンから引きずり出し、すぐに排気口のボタンを押して事なきを得たのだった。
被疑者、六之条雪の供述によると『小腹が減ってつい』で、葵の雷が落ちた。
次の月曜日の間食を禁止し、崩れ落ちる雪を背に後始末にかかって問題に直面した。
フライパンの表面が泡立つように固まっていたのだ。幸い、鍋や縦長のフライパンで代用できるものの、大喰らいの雪に『大量の美味い飯』を提供するためには欠かせないものだった。
そんなことがあり現在、葵は大きめのを自腹で買い、店を出た。
その夜、新品のフライパンを両手で持って雪は目を輝かせる。
「これが我が家の新入り。大ぶりで丸い、沢山のおいしいものがこれで……!」
「いろいろ突っ込みたいけど、私はスルーするよ」
仲間意識でもあるのかと思えば、全然そんなことはなかった。なんだ、新入りと言いつつも『これ』呼ばわりは。
前掛けを外して上着を脱ぐ。
夕食はすでに食べており、三合炊いておいた炊飯器は一時間もなく空になっている。白のない炊飯器を見下ろす葵の背中には哀愁が漂っていた。
かなしいなにかから這い上がり、リビングにもどってテレビを見やる。
スマホ世代の雪であるが、テレビにも一定の関心はあり、ニュース報道ばかり気にしている。葵にしても声でニュースを聞けるのだ、願ったりかなったりである。
『えー近年、家庭内暴力、いわゆるDVには親の精神的成熟が伴っておらず、結果としてゼロ歳児の死亡事故、事件が多くなっているように感じます……』
そうして始まる怒涛の専門家トークを聞き流し、葵はそっと息をついた。
彼の専門家は結論を述べてから根拠を詰めていくタイプらしい。
「これも当たり前か」
偏見にまみれた精神病の実態、汚職が多発する政府、陰湿さを増していくイジメ……『衝突する勇気』を失った人々。
空っぽになった胸中に浮かんでくるのは、気ままに揺れる金木犀の花だった。それだけがはっきりと脳裏に焼き付いて……
「––––八瀬さん」
「っは、なに?」
すうっと、テーブルの上に指腹を走らせながら焦点を合わせると、朱に濡れた瞳が心配そうに見上げてきていた。
呼び掛けに答えない葵を憂い、雪は思案を巡らせる。
なにか心根に根ざすものでも垣間聞いたのかもしれない。しかし、それを問うほど白い少女は愚かではない。確かに答えてくれるだろう、が、である。葵にして雪にして、立ち入るべき境界というものを引いている。衝突を恐れないからこそ、いずれくるであろうその機会を大事にしたい。
葵が友であり、先達であるなら、雪は彼に新しい見方を御礼として返したい。
いつも実感の深みをもった含蓄を教えてくれる。その裏にどんな葛藤があっても、流れる傷すら思わせないで口にするのだ、彼は。
じっと見つめ、雪は口を開いた。
「……今日はもう寝ましょうか」
雪でも柔らかい声音であると悟っている。葵は聞くまでもない。
乾いた唇で『分かった……』と絞り出すように答えた葵は、やはり思いつめたように雪の自室にこもっていった。見るに絶えず、手に持つフライパンに意識をやる。
葵を苦しめるものの正体をまだはっきりと口にできず、あの曇っていく顔をいつまでも隣で見届けなければならない。陰鬱で施しようのない病が、どれほどやりきれないとしても、雪という人間は目をそらせない。
フードをかぶって目元を隠す。口元が震えて歯を食いしばった。
学校の人間、心から語らうこともできない奴らが惜しい。そんな奴らを憐れむこともせず、ひたすら理解と調和を求める葵が虚しい。自分の傷すら気づかず、悲しい顔で、多くを語る彼を抱きしめられない自分が、どこまでも悔しかった。
「……っくう……ぐす」
銀の髪が揺れる。嗚咽を殺す。
考え続ける六之条雪が、自身に許したのは、そこまでだった。
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その人が笑うたび、遠慮なく葵も笑うことができた。
よく男子に告白されるというその人は、やはり変で、告白の言葉をはんすうしてため息をつくのだ。いつもの図書室、本棚に背を預けて外に耳を傾ける葵は聞いてしまった。
反響からカウンターで対立している。葵から死角にあった。
「お試しでもいいから、ね?付き合ってみない?」
「お断りします。それと、金輪際ここで私に声をかけないでください。理由は……お分かりですね?」
「は、はい……」
随分すんなりした告白劇だった。感心する点は、その人のトーンの使い分けだろう。底冷えする声で念押しするのだから舌を巻いた。少なくとも、葵にはそんな真似できない。楽しげに声をかけてくる人など限られて、間違っても追い返すような口は開けないからだ。
足早に去る足音と、考えるようにゆっくり近づいてくる足音に分かれ、その人が葵の前の椅子に腰かけたのが、ぼんやりと見て取れた。
「はあ……」
「不愛想なのに、なんでよく集られるのかな」
それはからかいであり、少しのねたみを織り交ぜた言葉だった。
「そんなこと言わないでよ、私は君との時間を楽しみにしてるのに」
その人は、小耳に挟んで聞くに凛々しい人らしい。紅白の巫女服が似合うだろう美人だと。
口をとがらせるその人は、なるほどたしかに男勝りと言えぬ柔和さがあった。
くすりと笑みが漏れた。
「……どうしてあの子たちはあなたの問いに『重い』なんて返すんだろうね。将来に不安はないのかな」
「考えるだけ辛いのよ。君には分からないだろうけど、見える世界は見えすぎて目をそらさずにはいられない」
葵はむっとするが、その人は訂正するどころか、潤う桜唇を笑みの形にした。
その人はいつも人に囲まれているのに、張り付けたような笑みしか見せない。葵はそれを知らず、その人は自覚している。
「……今日はなんの本を読んでくれるの」
「そうねえ……たまには哲学じゃなくて、小説なんてどう?」
読み聞かせ、葵が読書したくてずっと図書室にいたとき、その人が声をかけてくれたのがはじまりだった。
いたずらっぽいその人の声にいつもは感じない一面を知ったようで、葵は居心地が悪かった。
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深夜帯、コーヒー飲んで、眠れない
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