第七話 泥濘の雪

 放課後、学生の群のなかを肩身の狭い思いをしていた葵のもとに不機嫌を放つ雪が歩き寄ってきた。

 校門から背を離して覚えのある足音のリズムに体を向ける。


「……八瀬さん、よくわたしってわかりましたね」

「足音の歩調にはくせがありますから。一度聞けば忘れません」


 相変わらず前掛けにスーツという違和感を拭えない組み合わせが目立っている。

 渋顔の雪に得意げな葵が応えた。

 どこか疲労を思わせる葵の顔立ちは精悍な青年のそれで、濁り切った瞳のあわれを春風で吹き飛ばすような明るさが彼にはあった。


「とりあえず帰りましょう」

「買い食いは無しですよ、六之条さん」

「くっ徹底的ですね!」


 苦し紛れのさじに雪の鞄を手から奪い取ることで返答の代わりにした。

 雪は手持ち無沙汰になった手を見下ろし、何事もなかったかのように歩き出す。葵はそれに続いた。


「……寒くないですか?」

「ハウスキーパーを気遣う雇い主は知らないなあ。嬉しいもんだ」

「『友』として言ってるんです」


 分かってるくせに、そんな間を感じ取って楽しそうに肩を震わせる葵が朝とは違った様子で、訝しむ雪は彼の耳が妙に忙しないことに気がついた。

 二日三日の同居生活でも判別できたのは、よく観察に努めていたからだろう。

 そうか、そうなんだ。

 横目に目を細めてマフラーに鼻先をうずめる。さすがにだらしない顔を葵の前でしたくない。たとえはっきり見えていなくとも。

 斜陽に灼けたビルの前を通り過ぎ、葵が枯れた街路樹にぶつかりそうになったところを雪が腕ごと引き寄せる。


「ありがとう、少し暗くなるだけでこんなだから、陽の高いうちに大体のことは終わらせてるんだけどね」


 そう恥入って投げやった目は街灯に照らされぬ暗がりを睨みつける。


「そのときはわたしが誘導しますよ」


 腕を離した雪は『だから肉まん買いに行きましょうよ』と、さも自然な結論を述べるように欲をだした。


「ならいらないね。六之条さんには減量生活を心がけてもらわないと。私より、君は社会人になってから自分の食費を稼ぐ心配をしないさい」

「む……分かりました」


 一瞬声を大にして『無理!』と叫びそうになるが、気遣わしげな声色に重く承諾するほかなかった。

 終始楽々と穏やかを行き来する葵は歩調を雪に合わせて、年末の浮かれムードの崖から落ちた足音たちに耳を澄ませていた。

 沈み擦れた革靴、しきりに重いため息、目が見えないだけに着目できることは多い。空気なんて大多数の気分を反映したものより、あまりにも現実は雑然としている。

 ————突きつけてきた。

 清もじょくも、隔てなく葵は感じ取ってしまう。

 

「……ほんと、つくづく嫌になる」


 すがめた目の葵を見上げた雪は、頭の芯を冷やしきる。聞き損ねたその言葉がどこまでも惜しくて、見えないのをいいことに下唇に歯を立てた。



————————————————————


 噛めば水があふれ、舌鼓を打てば紫蘇のドレッシングが鼻先をすいていく。味がない。オイルの滑らかとさらりとした水の感触でそれを分ける。

 椀と箸を置き、なかは空になっていた。


「美味しいですよ!八瀬さん」

「そうかい、ありがとう」

 

 靴下を履いた足をばたつかせる雪は猛然と箸を振るった。目尻を下げる葵は頬杖をついてほっと息をつく。

 少食の葵はいいとして、悩みが尽きないのは胃が小宇宙になっている雪である。

 ようやく補習から解放されたらしいうら若き少女はよろしい仲の子もいないそうで、二人寂しく年末、サラダの山を崩しにかかっていた。


「見切り品だから買い込んだは良いけど、やっぱり足りないか」

「いいじゃないですか、これで量はなんとかなりますよ!」

「どうやったか知らないけど、説得のときは私も話しないといけなかったんだよ?」


 夕食前、二時間に渡った説教を忘れていないか釘をさす。しかし雪は聞いておらず、瑞々しい野菜に夢中だ。

 葵は肩を落として雪の言葉を信じるしかなかった。いわく、彼女は一日にして父母ともに快諾をもらったそうだ。

 上着を椅子にかけた葵はシャツの第一ボタンを外して首元をゆるめ、体から力を抜いた。業務終了だ。壁にかけられた時計は十二時をぴったり指している。


「それ食べたらはやく寝るんだよ」

「八瀬しゃんこそです」

「はんでしゃべりなさい」

「ふぁーい」


 まったく——雪が気づいて巻いてくれた指の絆創膏を撫でて呆れる。境界線が曖昧な緑の山がみるみる低くなっていく。

 言葉もない。葵は一息ついて立ち上がる。


「じゃ、私はちょっと出てくるけど、朝まで私以外の人が来ても開けないように」

「分かってますよ!いくら初詣だからってわたしはそんな幼稚な真似すると思ってるんですか⁉︎」


 はっきりと不満で返す雪に、上着をはおってリビングから出ようとする葵は苦笑した。


「寝ぼけた六之条さんがだれとも聞き間違えないとも思えない。いい?朝六時だよ?」

「もう、はやく行ってください!ひとりで食べてますから」


 その声に押し出されるように葵は玄関を閉めるのだった。

 マンションを出た葵は迷いなく住宅街を行く。どこも明かりがついて、たまに厚着の子供を連れた親子らとすれ違う。

 仄か曇からはらり雪が降りしきり、葵は公園のベンチに膝を合わせて腰を下ろす。目を閉じて少し顔を上げた。


「あなたが六之条雪を付きまとう人物と見受けるが、合ってるかい?」

「……なんで分かった」

 

 警戒し切った男の声に沈黙する。

 ざあ、ざあ、ざあ……。かすかに引きずる足音が葵の眼前で止まった。


「それは、常人にどうして目が見えている。そう言ってるような者だよ。君の足音はずっと聞こえていた。私は足音から不審者を特定したに過ぎない。……今夜は、子供が夜中に出歩いていてもおかしくないでしょ、だからもしかしたらなって」

 

 男は息を呑み、葵は微笑を浮かべる。閉じているのに全てを見透かされているような気がして、男は問いただす思いを揺らがせた。

 葵は、間を置いて穏やかに語り出す。男がどんな人物かある程度わかっているのか余裕がある。


「学校で、街で、マンション前で、同じ靴音と同じ歩き方をする人物は、私と六之条さんとその他学生しかいない。もちろん時間帯次第では教職員なんてことも考えられるけど、六之条さんが知らない時点でどちらもありえない。なら残るは、と考えれば自然と君に行き着いた」


 人の名前より声や足音で判別した方がはるかに楽なのだ。

 男は、いや、男子学生は大声で葵を糾弾した。気を荒立たせ、慎重さを捨てて葵の胸ぐらを掴み上げる。


「うっぜえ。俺はな、雪さんに恩があんだよ。あの子を見守らなきゃならねえんだよ!」


 耳をつんざき、さらに脳を揺らすような眩暈を覚えるも葵は気丈に顔を上げた。


「恩は免罪符になりえないよ、少年。たといそれが本心であれ虚心であれ、君は六之条さんの承諾を得ていないじゃないか。それがすべてだ」


 暖簾に腕押しといった様子でとうとうと語る葵に、男子学生は返す言葉がなかった。

 じゃあ、と苦し紛れに葵を責め立てる。


「お前はなんなんだよ、ぽっと出のお前は犯罪者じゃねのか。未成年条例違反」

「それが同居を指すなら、私は六之条夫妻の許諾の上でハウスキーパーとして住み込みで勤めているだけだ」

「ぐっ」

「そも、君は突然死や社会や人の在り方について聞かれてあの子から離れず、その問いに答えられるかい」


 顔を歪める男子学生は葵を下ろし、顔をそらす。

 沈黙こそ葵の問いに対する答えだった。


「あの子は君たちが普段目を逸らし、聞かないような苦しい問いに身を投じている。考えることをやめずに、私という先立の言葉を受けて自分の『正しさ』を追求してるんだ。過去いた思考の先駆者に倣い、その論や思想を見据え続けているあの子の隣に立つ。語らおうとせず、自らを知ろうとせず、自分に都合のいい考えや情報ばかりを受け入れる君たちが果たして、あの子の友でいられるか。二週間ほどしか接してない私でも、それは“聞くに明らか”だった」


 そこで前のめりになっていたことに気づき、火照る体を落ち着かせて唇を湿らせる。

 男子学生は目の前の『異質』に顔を引き攣らせるが、体が動かなかった。


「君のそれは、保護欲でも心配に続く憂いでも、ましてや恩返しの義理人情でもない。私が言えるのはそこまでだよ……」


 断言し、一気に細く小さくなったように黙り込んだ葵は、それ以降一言も発すことはなかった。

 頑なに男子学生を正す発言をしない。他人としての領分を最大限守った結果であった。

 









 日も開けぬ釈明、赤くしもやけた顔でのぞきこんだ雪はいたずらに勤しんでいた。

 それは寝ている葵の下の名前を呼んで起こすというもので、彼なら幼子を見守る老人のような眼差しをするであろうささやかなもので、彼に聞かれるかもしれないスリルを楽しむものだった。

 パーカーを着込み、耳当てのポンポンを下げた雪はややうつむいている葵の横にしゃがんでいた。

 透明感のある声をひそめて耳元に口を寄せる。

 

「葵さん、葵さん……むう、これでも起きないか」

「……起きてるけど」

「なあ!」


 大きくのけぞり倒れそうになった雪の手を反射的に掴み、強過ぎず絶妙な具合で姿勢を戻す。

 その動きはぎこちないもので、お世辞にもスマートとは言い難かった。

 半目でうったえる葵にぽりぽりとほおをかく雪はさっと身を翻す。


「起きたようなら帰りますよ!」

「ちょっと待って、私は物申したい」

「聞きませんー」


 遠目に知らぬ存ぜぬを貫く少女と話してると、腹に居座る迷いが散っていく。

 会話にならないと、周りを見渡す葵は男子学生の姿がないことをさとり、早足に出口へむかう雪を追いかけるのだった。





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 テスト終わりの図書室は人がぐっと減り、閑古鳥が鳴いている。

 百科事典を積み、テーブルを贅沢に使ってページをめくる葵の対面には、一人の男子生徒の姿があった。

 視線を落とす雪に対話の意思はなく、男子生徒の話は虚しく響き渡る。一人語りであった。


「それで、来週あたりでもいいからカラオケにいかないって誘いに来たんだけど……」


 長話を鬱陶しがるようにため息がもれ、胡乱な目を男子生徒へ向ける。

 銀の前髪から見え透く朱の瞳が、それでも男女を魅了するほどに美しいのは変わらず、男子学生は場を忘れて見惚れてしまう。


「東先輩。レモンのコロン、手首につけてますよね」

「へ?ああうん」

「八瀨さんは寒いと大体鼻詰まりを起こして気づかないんですけど、わたしは防寒をしっかりしてるんです」


 なんの話だと困惑する東に、音を出して事典を閉じた雪は告げた。


「年末年始の夜。あなた、

「え?」


 雪は嫌そうに、本当に不愉快を込めた口調で述べる。


「わたし、これでもあの複雑すぎる社会不適合者さんを理解しようと頑張ってるんです。見えないならそれ以外で、それが八瀬さん……八瀬さんはあなたに妥協して、さぞ慈悲深く諭してくれたのでしょうけど、あの人を殺していくような貴方たちをわたしが見過ごすはずないでしょう」


 肩と声を震わせる雪は我慢してぶりかえす怒りを抑えつける。

 東は顔をこわばらせてイスごと下がるが、憤激の形相に声も出なかった。

 しわができるほどスカートを握りしめ、キッと髪を揺らして睨みつける。しかし、それ以上に雪の声は静に徹していた。葵の前で必要以上に大きな声を出して、彼に負担をかけないように。


「確信しました————」


 以降、雪のストーカー関連の話が彼女の口から出されることはなかった。



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 ずびー、ティッシュ足りねえ

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