第六話 業務開始 後
窓からは夕日が差し込み、シックなリビングの一角を橙に染めていた。
「葵さん、どうして法は人を守れないのでしょうか」
ノートにに向かっていた雪は両手を組んで深刻にそうこぼした。
紺色のエプロンを前にかけ、気味よく野菜を切る葵は間断なく答える。
「逆だよ。人が法を守り、それがいずれ法の傘となって人に安寧をもたらすんだ」
「なる、ほど……」
法が人を守る。その事実を疑ってなかった雪にはない意見に、彼女は目を伏せて痛感する。振り返ってみると、フライパンの取っ手を握ってじっと見下ろしている葵がいた。
普通、先の質問のように一言で答えられるものではないのだが、葵にはそれこそ単純な問いなのかもしれない。雪の質問を重いととらえるか、葵はなんとなさそうに答えてくれる。
葵は料理の片手間に考察する。雪の周りに、あるいは雪自身に対する犯罪行為をしているものがおり、彼女はそれを証明できないでいるのだろうと。声色こそ差し迫っている問題ではなく、猶予があるととらえているのは間違いない。でなければもっと前に変化があるはずだから。
「——はい、雑煮とほっかごはん」
「……八瀬さん、その前掛けいります?」
「ふふん、制服というのは職責や所属を着ている人に意識させるものなのだよ」
バンっと胸を叩く葵に、その胸が骨ばっていることを知っている雪は複雑な心境だった。
「つまりそれが八瀬さんの制服というわけですね」
どちらともなく、くすりと笑みがこぼれた。
「最近、だれかにつけられてる気がするんです。前は朝だけだったんですけど、帰りにも同じような感じがしてきて」
気のせいと片付けるには頻繁すぎて困ってるという。葵は後ろ手に組んで唸った。
俗に言うストーカーであるのは間違いない。たとい探偵や捜査機関の人間であってもそれは変わらない、そんな社会的地位の信用は葵には存在しないのだ。
テレビからは殺人事件の報道が流れてくる。気まぐれに雪が『多いですよね、殺人事件……』と同意を求めてくるので葵は冷たく返した。
「それだけじゃない」
「えっと 、それはどういう」
意味が分からないといった様子の雪をほほえましく思いながら肩をすくめる。
しかし、語るには雪が受け止められるかはかり切れないためにお茶を濁してしまった。
「事件は決して遠い物事じゃないってだけだよ」
「……気のせいだとは言わないんですか」
不安そうな雪に対し、葵は心静かに前掛けをとる。
ストーカー犯罪、警察の協力を取り付けるのが難しいのではないかと葵は思う。本来、警察は犯罪が起こってからが仕事だといわんばかりに太々しく
証拠だ、なにごとにしても証拠が必要になる。
葵はいまだ確信を持てないでいる白い少女にかける言葉を思いつかなかった。
「……六之条さん次第だよ、私は都合上どうしても君と距離を置かざるを得ない。この目もあって、調べるのは向いてない」
「一緒に学校に行ってくれたりはしませんか?」
「ハウスキーパーの領分でなければ、外で君と仲良くするのは難しい……まあ、そこを折って送り迎えくらいするよ!」
葵が声を上げると、沈んでいた雪はぱっと顔をあげた。
銀より白く、正しく雪の髪が葵の前で舞った。雪がつま先立ちに真剣な表情で迫っていたのだ。
「本当ですねその言葉 、嘘も冗談も聞きませんよ。言質は取りましたからね!」
「そんなに不安だったんだ、六之条さん……知り合いに紹介とかはやめてね」
沈黙があり、葵は苦笑する。その手には大盛りの牛焼き肉の皿が握られていた。
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葵が雪の大喰らいを確信したのは、食材調達と近隣住民に葵の顔を覚えてもらう名目で近くのスーパーに行ったときだった。
「一食分で三千円弱ですね」
なにを言っているのだろうかこの子は……そう呆然とした。
実際のところ納得のいく量ではあったのだ。割引商品を中心に栄養が偏らない程度のささやかな気遣いで、一食あたり三千円。
どれだけ飢えようとも思考を正常に保ってきた葵は考えた。成長期に加えて雪は施行を途切れさせるような時間がないのではないか、そういうエネルギーを洒落にならない段階で使っているのではないか。
ハウスキーパーで決めた月給は現金手渡しで十七万、葵なら気を失っているであろう。いろんな意味で。
「六之条さん、食べ歩きは……」
「そんなこと言われても、足りないものは足りないんです。八瀬さんが来たときはまだ隠しておこうと考えていましたけど、もうここまでくると耐えられません」
「そう……はあ、両親方々に感謝しなさい」
「わかってますよ!そんなこと」
一月あたりの食費は昼食を五百円程度に抑えても推定十八万、加えての間食ともなると……葵は考えるのが怖くなってきた。
スーツに前掛けというとんちんかんな服装で朝の通学路を並んで歩いているものの、視線はいずれも雪のほうに吸い寄せられていく。
程よく筋肉のついた健康的な白足は気分よく、あるとわかるが正確な大きさを測れない胸が弾み、日本では見ることのないようなショートの端正な顔立ちは奇しくも十二個目のおにぎりをほおばって葵からそらされている。雑誌、テレビなどでも見ないほどの美人であるのは間違いない。
視線うんぬんは鈍感な葵にしても、朝からおにぎりを食べながら登校するような女学生が、目立たないわけがないことを承知している。
件のストーカー、偶然にも同じくらいのシルエットの視線を感じ取っただけではないのか。灰が積もったような瞳で非難していると、革靴がアスファルトをたたく音が徐々に増えてきてこそこそ話が耳に入ってくる。
「え、六之条さんと一緒にいる人だれ⁉」
「スーツに前掛け……お手伝いさん?」
「てか目、白くない?」
「あーほんとだ」
十分に葵も悪目立ちしている。
ため息をつき、十五個目のおにぎりを取り出そうとした雪の腕から袋をぶんどった。
「ちょ、八瀬さん!」
「ダメです、これは私が責任を持って夕食のおかずに差し替えてあげますので、どうぞお勉強のほうに集中なさいませ」
「こんな時ばかり敬語じゃなくてもいいじゃないですか!さあ、私にはそれが必要なんです!」
袋に向かってシュッと手を出すも、葵が軽やかに足を引いて距離をとることによってそれは成されなかった。雪は満たされない食欲に目をぎらつかせ、意地でもおにぎりを掴まんと奮闘するが、ことごとくがはたき落とされる。
まだ本調子ではない葵の息はしだいに乱れていくものの、背を伸ばした態勢が崩れることはなく、学校に行きついてしまった。
「さ、いってらっしゃいませ」
「放課後……覚えておいてください」
「はあ……私は六之条さんの心身の健康を祈っております」
勝負は決し、葵が直角に頭を下げる。理想的な従者の姿に、雪は小さく口をゆがめて校門をくぐっていった。
あの様子なら大丈夫そうだ。ほっと安心して踵を返し、葵は業務に意識を切り替えた。
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「だれだ、あれ……」
焦りや不快がにじむなか、その人は土塀に背をつけて天を仰いだ。
なぜあの子の隣に男がいた。どうしてあの子は感情豊かに男へ話していた。
触れるのも嫌になるそれが腹の底でわだかまり、いら立ちが募る。その人は険しく眉間を寄せて大きく息を吐いた。
落ち着かなければ、気づかれれば捕まるのは自身なのだから。慎重に、それでいて確実に……六之条雪をその手に入れるために……!
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ぐう、ぐう……っは、思いついた!深夜三時、電気をつけて急ぎペンをとる
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