第十話 一切皆苦


『少し話してくる。六之条さんは先に食べてて』


 ちくりと胸をさすものから目を背け、雪は軽く頷いて閉じる玄関口を見送る。

 帰路につき、再会を喜ばしそうに語りあう二人から距離をとって余裕だったのは、最初だけだった。断片で聞いた話からしきりに『葵さん』や『布江さん』と無視できない声が連続し、聞くに聞けないでひとり気疲れしてしまった。

 少し話すは言外についてくるな。女性の『大丈夫』くらいに文字通り受け取ってはならない。反芻して、手早く調理されたものが並ぶ食卓についた。相変わらず美味しく、雪が飽きないように微妙に味付けを変えている。行き渡る気遣いに頭が上がらない。……愛情さえ感じ入る出来に、腹の底がむかむかしてきた。

 味わい、窺い知れない無表情ですべて飲み込んだ。フローリングはことさらに冷め、切なげな鼻歌も反響してこない。それでも、望むべくは……


「はあ。それはわたしの領分じゃないでしょ」


 雪が望んで『友』を求めた。ただでさえ身勝手で葵を留めおいている。それに、死にゆくことを受け入れていた葵を繋ぎ止めているのは雪なのだ。雪がいなくなればきっと葵も消える。不満を片付けてかぶりを振った。でももしかしたら……そう思わずにはいられない。

 

「わたしは正しい。そう、葵さんを生かす要因を増やすのはいいことだし、これを機に別の一面を目にできるかもしれない。わたしは正しいんだ……!」

 

 言い聞かせ、後ろ立つ後悔を押しつぶさんとするも、脱力して椅子に背を預ける。

 現状に満足することはできるが、それは葵の延命にしかなっていない。もっと多くの人と葵は会話すべきであると常々思ってきた。それが、揺らいできた。

 両肘をついてうなだれた雪は、深くため息をついた。もうすぐアレがくる。であればこの乱れようも納得がいく。尚早に結論を出し、考えるのをやめた。



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 葵はカウンセラーではないにしても、生粋の『悩み苦しむ人』の味方だ。

 手入れの行き届いたスーツを纏い、背を伸ばして後ろ手に組む姿は、一端の社会人それである。人稀な並木道のベンチ横にそんな葵を見つめる布江は、沈黙を楽しんでいた。口下手な布江はむしろ、その距離感を良しとしている。

 葵が立ち、布江が座る。隣に座って欲しくない。もちろん嫌悪ではなく、八瀬葵という人間と同列であるように思ってしまう自分を戒めるためだ。


「母親の方はどうなの、布江さん」

「わ、わたし的には『さん』なんて呼ばれるのは好きじゃないんですが」

「年上のたわむれに付き合うと思って、そこは鷹揚に構えるくらいがいいんだよ?」


 肩をすくめる葵の横顔は青白く、微笑をたたえ、渋る布江の背を押す。前髪を下ろして目元を翳らせる布江は、乾いた口を開いた。


「……最近はホスト通いです。一応、バイトはやっているみたいですけど、食費を除いてわたしが他を補填してます。スマホだって買えませんからね、いいところを見つけて採用されるのは大変でした」

「……大変だったね」

「はい、学校側もかなり渋ってきましたけど、許可もとれましたし、無断就労なんてリスクを負わずに済みました」


 難しいものです。葵は険しい顔でその言葉に深くうなずいた。

 稲葉布江という少女は険しい人生を送ってきた。幼いころからよくしつけと称して食抜きされ、およそ人間らしい扱いを受けてこなかった。布江が成長しなくなったのは、そういった事情が大きいのだろう。先年、カウンセリングの真似をして聞き出した状況は、高校生となってことさらに悪化したようだ。見えなくても、疲労の濃い布江の心労はひしひしと伝わってくる。

 一方で妙に耳が引っかかる気がして注意を高めた。


「そういえば、布江さんには人水くんという少年の味方がいたと聞いていたんだけど」

「あの人は……もう会ってません」


 途端に歯切れが悪くなって葵は確信した。


「何があったの?口にしにくいならいいんだけど」

「い、いえ、ただ距離感を見誤ったといいますか。勘違いさせちゃって」

「う、んんまあ……その、頑張ったね。ほんとに」

 

 言葉にならない情感を込めて『人水少年……』と内心でつぶやいた。

 二人の間には全く同一の光景が浮かんだ。

 はあ、と布江はため息をつき、顔を伏せ、目を閉じた。


「葵さんはどうして六之条さんと……」

「十二月の瀬のことだったよ————」





 語り終えると、そうですか、と辛酸を飲み生きてきた布江は貫録をもってこたえた。その顔は少女にしては疲労が濃く、女にしては鋭すぎた。

 万感を聴き解き、葵はそっと背を向ける。


「責めは、甘んじよう」

「別になにも思いませんよ。わたし、クリスマスまで葵さんが死んでるんじゃないかって思ってましたから」

「意外だったかな」

「いい意味で、です。そっか、六之条さんがそんなことを……」


 感慨にふけるようにつぶやく布江に、そっと問いかける。


「布江さんこそ、私に嫌悪感とかないの?」


 未成年宅に転がり込んだぬらりひょんに、正当な見方であれば非難の嵐だろう。

 

「葵さんは馬鹿ですね」

「……布江さんこそ、私の前だったら遠慮がなくなるよね」

「それこそお互いさまです」


 まあ、と続けて声を高くした布江は控えめにはにかんだ。


「わたしに広い世界を教えてくれたのは葵さんですから、嫌いになれるはずもないのですよ」


 とっくに通り過ぎたはずのささやかな語らいが、昨日のことのようによみがえってくる。行くべき道のわからない迷子に、うつむいては世界が狭いと言ったが……ほんの一年で芯のある子に育つとは。

 子どもの成長は早い、しみじみとそう思った。

 感慨にふけっていると、脈絡のない衝撃が脳を襲う。犯人は聞くまでもなかった。


「……ずっと聞きたかったんですけど、葵さんと六之条さんはいわゆる『恋人』!なんですか!」

「うーん……は?」


 リカイデキナイ、ナニネボケタコトイッテンダコノコハ。

 処理しようとして処理できず、じゃあといわんばかりに想像してみるも……吐き気がしてきた。未成年犯罪、性犯罪、罪、逮捕、お巡りさん、心優しき警察官っは、私はなにを……。

 目をきらめかせた布江は構わず追求する。


「だって同棲ですよ。ど、う、せ、い!」

「やめやめ、私と六之条さんは『友』だよ」

「生活行動を共にするってことは、深い点において信頼されているということでもあるんですよ、葵さん。普段気を抜いてる姿を、女の子は見られたいと思いますか?」

「なし崩し的な流れだったの理解してる⁉」

 

 駄目だ、泥と現実に踏みならされて、まぶしすぎる青春の二文字に頭をやられてしまったんだ。日々の労働と学業の兼業を思えば、その苦労も偲ばれるというのに、こんな形で飛び火するなんて……!

 共感できてしまうあたり葵も相当だが、彼自身あわれに囚われてその事実に至らない。


「どうなんですか葵さん、同じ金木犀の香りなんてまとって……まさか」

「それ以上言ったら頭ぐりぐりするよ」

「ふん、やってみなあああ!」


 両手ですっぽりおおってしまえそうな頭を拳でサンドイッチする。

 慈悲深い微笑を浮かべた葵は、懺悔も恨み言もすべて聞き流して所業を貫徹した。無心につとめ、的確にいちばん痛いであろう箇所を探り当てる。

 涙目にうめく布江は、一つの地雷を見つけるのだった。


「……ねえ布江さん。イイ病院知ってるんだけど、頭の検査でもしに行かない?」

「別にわたしは薬なんてしてませんし、おかしくなってないですよ⁉」


 眼下でなにか世迷言をわめく少女をよそに、星明りのない寒天を見上げた。


「……そろそろ日が変わる。布江さん、時間だよ」


 夢から覚めて気落ちする声色に、笑って涙を浮かべていた少女は大人にもどる。先ほどまでの無邪気な空気を消して、寂しげに同意した。


「……ままならないですね」

「一切皆苦、でも布江さんには希望があるんでしょ」

「先のないとわかってるものです。所詮は延命、死にたくないだけの言い訳です」


 布江は自嘲した。

 苦しむばかりの人生で、布江はなにに光を見いだしたのか。ベンチ越しに背を合わせる葵には知る由もない。

 

「家まで送っていくよ」

「葵さんには母を見せたくないのですが」

「近くまでなら、いいでしょ。君みたいな小さな子どもをひとり、夜半歩かせるのは良くないし」


 葵が笑いかけると、布江は目を閉じてそれにこたえた。

 是も否もない。どちらも気の乗らない返事だったのだろう。コンプレックスを刺激しただろうか。いや、いずれ向き合うなら予行演習くらいにはなるだろう。

 人なしの道をとなりあってゆく。お互い無言だった。


「……また……」

 

 踏切を通り、かすれて聞き逃しそうな声を耳にする。葵は黙って少女を待った。


「こうして話を聞いてくれますか」

「君がしてくれたことを思えば、私が邪険にする理由はないよ。いつでもおいで、私が死ぬその日まで」


 暗闇を見据える。隣を歩く足音はためらい、苦悩していた。その音を聞き届けた葵はただ閉口した。


「……手、いいですか?」


 震える声に、小さな手の甲をそっと覆いかくす。

 稲葉布江の帰り道は、きっとそういうものだ。慰めるでも同情するでもなく、淡々とそう下したのだった。

 


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は、鼻水が止まらない……!

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