第20話

 しょぼいおっさん。そりゃそうだ、そうに違いない。なのに、ヤングマリーは僕をけっしてそうは扱わない。僕は彼女と会っている時、自分がいい歳をしたおっさんであることを完全に忘れている。彼女がそうさせてくれる。ヤングマリーは僕をしょぼいおっさんとは絶対に言わない。鏡さえ見なければ僕もあの頃の若者でいられた。

 ヤングマリーに会いたくなった。ヤングマリーに会いに行った。誰もいないオフィスに僕は会いに行った。


 繰り返しになるが休日出勤は珍しいことじゃない。仕事だと言えば本妻は何も疑わず僕を野放しにしていてくれた。だから本当に仕事であればそんなことも思わないんだろうけど、この日僕は仕事があることにして出社をする。本妻の凍りつきそうな目は変わらなかった。靴を履く時、いつもなら左足からいくのに、背後の視線におびえ常ならぬ右足から突っ込んでしまった。この違和感を背後の人物と共有していたならば、もはや休日出勤の嘘はバレたも同然だ。けれどもここで振り返るわけにはいかない。僕は前を向いてげるように扉を開けた。

 いつもの如く(いってらっしゃい)はなく突き放した無言の圧力みたいなものが感じ取れた。僕は(いってきます)をごにょごにょ口籠くちごもった。

 家の外でヤングマリーに会うのは初めてだったので、本妻の桎梏しっこくから逃れられる境界線を越えた時(それは社屋に潜るまで訪れなかったんだが)、僕の高揚は最高潮に達した。例えは正しくないかもしれないが、風俗嬢をホテルの一室で待っている時のあのドキドキ感に近い。

 オフィスの電気をつけて、自分のデスクに腰を下ろした。仕事する気などないのに習慣行動は怖い。ついパソコンを起動させログインしてメールをチェックしてしまった。パワハラの苦情メールが入っていた。

「馬鹿馬鹿しい」

 独りごちてシャットダウンする。その余計な行動を後悔した。

 静まりかえったオフィス。あたりに誰もいないことを今一度確認する。鍵を握る手が震えている。シェルターでない場所での逢瀬おうせへの不安がまだ僕を追っている。それでも彼女に会える喜びに勝るものはない。僕は引き出しから紙袋を取り出した。ズボンのなかがもう窮屈になっていた。

 何日隔たろうが、どこで会おうが、ヤングマリーはヤングマリーだった。雑然とした事務所にそこだけまばゆい光が立っているみたいだった。先ほどの鬱陶うっとおしいメールのことなどすっかり忘れさせてくれる。

「おはよう耕太郎」

 泣きそうになった。すぐに彼女を抱きしめたかった。

「おはよう」

 会えば必ず夜が明けている。

「仲直りしようね」

 昨晩喧嘩したことになっているのか。いつのことだっけ? 僕の曖昧な記憶は何の喧嘩だったかまったく覚えていない。けれどそんなことは大したことじゃない。少なくとも彼女の目は穏やかで凍りつきそうでない。

「ごめん僕が悪かった」

 そう言っておけばいい。こんな万能な・・・交渉術が僕にはある。

 彼女の頭に乗っているもみじにそっと手を伸ばすと、んだ瞬間にそれは消えてなくなった。彼女だけはこのまま永遠に消えないでくれと祈った。

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