第38話

 千鶴の失声症を知らない男は、女にも騒がれることを恐れ、冷たいつるぎを女の震える下顎に当てて、そこから獣の血を吸った刃先を緩々ゆるゆると引き上げ潤む瞳の前に翳しこう言った。

「騒げばこうなる」

 目の前でかたえを惨殺された千鶴は崩れるように膝折れ動かぬ尨毛に手を掛けた。そのなげきに震える壊れそうな細い手を、男は血に染めた感覚の無い左手で容赦なく襲いむくろから引き剥がした。千鶴は泥濘ぬかるんだ小径こみちに力なく転がった。

 ここにあって千鶴はこの男の狙いが自分であって赤貧の自分から奪えるものは金でもタバコでもなく、してや残パンなどでもなく、あの頃と同じように命のぎりぎりのところでつましく貼り付いている肉叢ししむらでしかないことを知る。それにしては何故ジャンボがほふられなければならなかったのか。抵抗に至るまでこの解けもしない疑念と千鶴は戦わなくてはならなかった。そんな彼女の紊乱びんらんなど一顧だにせず男はこの女をかんすることだけに囚われていた。千鶴には考えも及ばなかっただろうが、何処いずこ、生死も知れぬ彼女の実父が、かつて強姦殺人で牢に入ったことと、この因果はどこか繋がっていたのだろうか。だとしても、虐殺されたのが自分の(唯一対話できる対象であるのに)スケイプゴウトでは因果を呪うしかない。

 男は小刀を生垣の向こうに投げ捨てうずくまる千鶴の奥襟を両手で掴み、力任せに引っ張った。噛まれた左手が痛んだ。千鶴は仰向けで引き摺られ声にならない慟哭どうこくを白む有明の空に吐いた。男は千鶴を葉陰に連れ込んで彼女の頬を立て続けに殴打した。

 この狼藉を葉叢はむらのあちら側から見ていた者があった。苑田雄吉そのだゆうきちである。千鶴の華奢かしゃの底を削る経路を先持って知っていた雄吉は、公園での彼女の習わしを違う息遣いで舐めていた。暴漢の凶行は雄吉のけち臭い婉曲な接近など畏れと共に吹き飛ばした。雄吉の欲するは暴漢の圧倒的な征服によって傍観を余儀なくした。うとましかった犬を、ああも簡単に(雄吉の眼にはそう映った)始末した男の残虐性を、雄吉は敬意を持って畏怖した。

 千鶴を救う。愛した女を救う。彼女たちを救う。 ・・・中身のない虚言きょげんが命を得て雄吉の体から抜け出そうとしていた。雄吉に千鶴を守る荒肝あらぎもはひとかけらもなかった。荒肝だけでない。彼はその時如何なる対話からも隔離されていた。大いなる=孤独=(虚偽)は彼と主体を同化していた。彼は千鶴を愛してなどいなかったのである。彼はれだけを愛していたのである。

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