第33話

 確かに、ジャンボにかけるいとまは少なかったが、ジャンボの長き時間に閉じ込められた失明は素人が見ても治せる見込みなどないことは明らかだった。もし千鶴が望んだのがジャンボの右眼に光を戻すことだったのならば、獣医に代わって無理だと言うこともできた。しかし、雄吉はその役目を自分が負うことを回避した。千鶴の心の声を聴けるジャンボは彼女のにくでもある。度重なる彼女のジャンボに求める扶翼ふよくに彼は考えを改めた。ジャンボをないがしろにすれば千鶴の救いを求める声にふたをすることになり、せっかく隙間の見えた彼女の扉がまた閉ざされてしまうかもしれないのだ。無駄だと分かっていても宣告は何としても外円にいる者にさせなければならない。それも千鶴の眼の前で。

 千鶴の過去を覆ってきた不幸の負債の開明から五日後、雄吉は自分への敵愾心てきがいしんあふれ一向に要塞テリトリーから出ないジャンボを千鶴の助力を求めそれでも吠え続けるジャンボを彼女が抱きかかえるようにしてどうにかこうにか車に押し込むことができた。その足で埼玉の動物病院まで車を飛ばした。郊外であったのは頭数が医院数に比して過剰になってしまった都内では予約が取れなかったからだが、しかし千鶴の時にあれほど執心した下調べは果たしてどれほどであっただろうか。

 咆哮千万ほうこうせんばんのジャンボにほとほと手を焼きながらも見立てを終えた獣医はにべもなく言った。

「この子の眼は見えるようにはなりません」と。しかし、「やろうと思えば傷を目立たなくすることはある程度は可能です。この子が望んでいるかどうかは別として」とやんわりその処置を拒絶した。愛らしい仔犬でもあるまいし、室内で可愛がるタイプのペットでもない。そんな無益なことしますかと醜眼しゅうがんの犬とその尨毛を抱え込む無口な飼い主に、幾度か投げかけたが不発の遣り取りを思い返して獣医は冷ややかな眼差しを寄越よこした。ジャンボのただれて塞がった右の眼を、獣医は向こう岸にあるもののように眺めてから最後に念押しした。

「どうしますか?」

 連れ出した時からずっとおびえていたジャンボのごつく骨張った胴を今一度千鶴はひしと抱きしめた。雄吉はジャンボだけを映している彼女の瞳を覗き込もうとした。そうしたかったからそうしたのか、瞳から回答を読み取ろうとしてそうしたのか、自分でもよくわからない。しかし彼女の伏し目からは何の意図も読み取ることができなかった。艶やかに潤んで周囲を拒絶していた。ただこうなることは雄吉には分かっていた。

 千鶴がジャンボの右眼を、そおうと慈しんでさすった。ジャンボが切なそうに鼻を鳴らす。いつも自分を威嚇する声ばかり耳にしていた雄吉はジャンボのこんな風に 甘える声を初めて聞いた。帰りたいのだ。ジャンボは千鶴と一緒に暗晦あんかいのあの陋屋ろうおくにただ居りたいのだ。

 千鶴がジャンボの首元の群毛に顔を埋めた。暫くそうしていて彼女が矢庭やにわに顔を上げた時、雄吉はその美麗な眼差しに我を忘れ眼を見張った。やっと彼女の生の意思を拾った。彼女は立ち上がった際に獣医と瞳を合わせず頭を心持ち下げただけで、ジャンボを先導して診察室を後にした。遅れて雄吉も彼女たちを追った。

 この来院者たちの鵺的ぬえてきなコミュニケーションに、言葉を持たないされど人より素直な感情を明示してくれる鳥獣の扱いには慣れているはずのこの獣医も困惑を隠せなかった。

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