第32話

 翌日の朝、千鶴を訪ね、彼女に眼科の予約が取れた旨伝えると、彼女は硬い表情のまま(ジャンボは?)と尋ねた。その手振りを雄吉は彼女の不安と誤解し、右手を左胸から右胸に当てて(大丈夫)とやった。彼のその覚束おぼつかない手話にも不安はあったに違いないが、千鶴は雄吉の言うがまま車に乗り眼科に向かった。

 眼科医は千鶴の斜視を診察して言った。

「手術すれば治ります。局所麻酔は必要ですがそう難しい手術ではありません。蛭間ひるまさんの場合、外に付いている筋肉を少し後ろへずらして、内に付いている筋肉を少し前にずらせばおそらく正常な位置に戻りますよ」

 これを聞いて喜んだのは千鶴本人より雄吉の方だった。家族だとうそぶいて千鶴に同行した雄吉は、「先生治してやってください」と話せない彼女の代わりに頭を深々と下げた。

 同日中に彼女の手術日をさっさと決め、雄吉は当日彼女を迎えにいくと約束した。彼女を家に送り届けた時、再び(ジャンボは?)と尋ねられ、その意味をやっとした雄吉は、後日そっちも迎えに来る、と言って忘れていた動物病院を帰り道に探した。千鶴の眼科の時と熱量が余りに懸け離れていることを彼も自覚していた。

 だがそれがどうしたというのだ。


 千鶴の施術が終わった。予定通り斜視手術はうまくいき、彼女の右眼は生まれて初めて前を向いた。その瞳に対面した雄吉は先に成就じょうじゅした内側の理想に喜びを抑えきれなかった。平面だった彼女の美しき瞳・・・・・・・は生気を伴っていま彼の目の前にあった。

(これは俺のものだ)

 この時雄吉は、彼女をまるごと自分の理想に仕立てていく密やかな野望を心に熱くしていた。

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