第3話

 幸運なことに、雄吉は自分が信奉するこのプロジェクトのリーダーを本部から任された。この場所を選んだのは無人店舗化にはその店を使う土地の住人の協力が不可欠で、あまり大人数だと試走し始めたシステムでは対応できなかったからである。無人店舗を利用する客は予め個人を識別する情報や決済に必要な情報を預けておかなければならない。それ故、人数も手頃で住民情報が管理しやすい東京都に属するこの地がテスト規模としては丁度よかったのである。

 店舗の候補地は既に決まっていた。千鶴の家から道を隔てた南側、広大な工場跡地の角っこにそれは作られようとしていた。雄吉は近く住民への挨拶を兼ね一軒一軒訪ね回り、パイロットショップ設立の目的と協力を説き、依頼する予定にしていた。既にN区長と区議会、それに各町会長の承認は苦難の交渉の末、取り付けていた。あとは了解が得られた住人から生体認証に必要な情報、即ち顔の画像、瞳の虹彩、手のひらの掌紋をカメラで撮影させてもらい、加えてキャッシュカード情報も頂戴するつもりだった。

 そこにむ千鶴にもその順番は早晩回ってくるはずであったが、此度こたびの彼女の元への来訪はそれが主ではなく、切れかかったニコチンの補充が主たる目的だったのである。


 にわかに一抹の不安が雄吉の頭を掠めた。ひょっとしてこの女、盲者もうじゃなのでは。だから家の中でも開かぬ目蓋を覆い隠すサングラスを嵌めていて、それだからこそ自動販売機を仰々ぎょうぎょうしく並べ対面販売を拒んでいる。そうに違いない。さっき出した旧三級品のタバコを雄吉は恐る恐る引っ込めた。女の表情を伺うがどこを眺めているのかさっぱりわからない。追加情報を得ようと彼女の身なりをスキミングする。ぼさぼさの髪、ほつれた袖口、毛羽立ったセーター、色褪せ傷んだスカート、踵の擦り切れた靴下。貧しさを超えて無頓着であるのは全盲であるが故だと帰納させた。

 もう一つ追加情報があった。犬がいた。部屋から見渡せる左側玄関口にぼろぼろの毛布が捨てられてあるのかと思ったらそれは薄茶色の尨毛むくげの大きな犬だった。そいつは微動だにせず寝ていた。千鶴同様生気を消していたので雄吉は気づかなかった。生きている犬に違いなかった。何故なら雄吉が玄関口に注意を向けた途端、そいつは起き上がり雄吉を睨んだからだ。雄吉は後退りしていた。しかし犬は雄吉の怯懦きょうだを見透かすと再びその場に伏せて重い瞼を閉じた。正確には片目だけ閉じた。というのも犬の右眼は潰れて崩れた瞼で塞がれていたからだ。

 雄吉が示したタバコの像はどうやら千鶴のサングラスを通り越し彼女の視神経を経て脳の視覚野に届いているらしかった。なぜなら千鶴はのっそりと立ち上がって背後の商品棚を物色し始めたからだ。その緩慢な動作はまだ彼女をマネキンか、さもなくば人工知能が埋まった精巧なロボットとの疑いを解けなかったが、彼の欲しているタバコが目の前に届けられた時、 別の使命が頓挫しなくて済みそうだと安堵を覚えつつも、雄吉は自分が作ろうとしている無人店舗とこれのどこが違うのか一瞬でも分からなくなった。それほどに千鶴には有機的なものが欠けていたし体温を感じられなかった。

 ここに至ってもなお彼女は客に礼の言辞もなければ、あまつさえ代金も告げなかった。

(いらっしゃいませも或いはなかったのでは?)

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