第2話

その機会がついに訪れた。天正3年(1575年)10月。信長と本願寺の和睦が成立した。信長は翌年築城にかかる安土の地に戻った際、仮設の城の廓で伴の者と密やかな宴を開いた。付近から芸達者な者を集め、能や歌舞を演じさせ、雅楽に聞き入り、そこには給仕として遊女も呼ばれた。衣茅はその宴に紛れ込んだ。ただし遊女としてではなく歌舞伎踊子として。

 宴も酣(たけなわ)。酔心した信長は満足しきった様子で席を立ち、奥座敷へ引っ込んだ。伴の者が気遣い遊女を連れて主の寝室へ往く。が、主は二念の末それを拒んだ。天下布武をなさんとする覇王に、どこの馬の骨ともわからぬ者を閨に入れることへ警戒があった。また酔いが思いの外、蓄積した疲労を増長させていたことも女人を受け入れなかった理由だ。

 さて、その警戒された寝室に香りの良い無花果(いちじく)を運んできたのが衣茅であった。無花果は飲酒のあと食すと翌日に酔いが残らないとされていた。それよりもそんな城の奥座敷にまで忍び込めたのはくノ一忍者の技なればこそであった。それを先導していたのは軒下で暗殺を指示していた小太郎であったが。

 衣茅は黙って無花果を信長の枕元に置いた。信長が目を開く。

「無花果か」

「はい、お過ごしになられたご様子でしたので、召し上がられるとよきとのことでござります」

「さっきの踊り子であるな」

 信長は覚えていた。衣茅は意図的に信長の視角に入るよう踊り信長の好む橙色の着物を纏っていた。

「予に何用じゃ」

 衣茅は答えなかった。その代わりにクロアゲハから分泌された体液と自分の尿を混ぜた溶液を袖の中に隠しており、信長に気づかれぬようこれを床に撒いた。伊賀流くノ一忍術のひとつ。男性の色情を掻き立てる媚薬、いまで言うところのフェロモンである。そして衣茅は自分の軀(からだ)を供物に戦国の覇王を仕留めるつもりだった。

(全裸になれ! さ、早く)

 小太郎の蟋蟀の声が急かすように衣茅の鼓膜に届く。衣茅は襦袢を脱ぎ信長の前に裸体のまま平伏した。

「・・・」

 信長の鋭い視線が衣茅の撫で肩を刺す。

「何のつもりだ?」

 衣茅がわずかに顔を上げる。

「上様の、御随意のままに」

 信長がゆっくりと上体を起こす。

「殊勝な。果実より先に酔い覚ましか」

 衣茅の体に、覇王の手が伸びる。その引き締まった体と身のこなしも妖艶極めていた。

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