泣いていても好きだった

「あれ? 先生だけすか」


 部室に入ると、まだセンパイは来ていないようだった。

 いつも誰よりも早く部室にいるのに。先生が早く来ていることの方が珍しい。金魚たちを眺めながら後ろに腕を組んで立っていた先生が、俺に向き直ると眉を下げて口を開いた。


「水瀬さんと喧嘩でもしましたか?」

「いや、別にそういうんじゃないすけど」

「僕のせいですかね」


 先生はそう言うと水槽から俺に向き直った。


「付き合ってるんでしょう、水瀬さんと」

「まあ、はあ」


 何が言いたいのだろう。まさかセンパイの気持ちを知っているのか。センパイは先生と交際を続けながら俺と付き合っていたのか。返す言葉に悩んでいると、先生は水瀬さんにはお使いを頼んでありますと言った。


「あ、だから来てないんすね」

「ええ、もうね、そろそろ潮時だと思って」

「何がすか」

「僕はもう十分に堪能しました。長い時間、こうしていられた」

「なに、やっぱ付き合ってたわけ?」


 いまいち要領を得ない話し方に苛立ちを隠さずに聞くと、先生はゆっくりと首を振った。


「ありえません」

「じゃあなんの話をしてんすか」

「わかりやすい言葉を選ぶとね、人魚なんですよ」

「は……?」


 突拍子もないことを言った先生はそのまま言葉を続ける。


「ミルちゃんは元々僕の飼い主です。それを黙ってくれていただけで、恋愛感情なんてあるわけがないんです」

「意味わかんないんですけど」

「だから、僕が人魚であることを隠そうとしてくれていたんでしょう。キミが僕の秘密を知ったと思って、内容を口に出してしまうことを恐れたんだと思います」

「いや、そんなん知らないし」

「そうでしょうね。僕らが交際していると思っていたくらいですから」

「なんなんすか、悪趣味だな」


 噛み合わない会話にそう言うと、先生はさらに不可解な言葉を続けた。


「支えにならいくらでもなれるけれど、重荷になるのは少し疲れました」


 俺が言葉を返す前にガラリと扉が開いて、センパイが入ってくる。

 雑に扉を閉めたセンパイが酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせている。大きな音をたててしまった扉は反動で少しだけ開いた。


「何してんのよ……」


 センパイの高くて愛らしい声が俺と先生の間に向かって這ってくる。


「だって僕はキミたちの先生ですからね」


 そういった先生が、大事な生徒の二人には仲良くしてもらわないとと続けた。


「いや、それにしたって人魚って。なんの冗談すか」


 あんま面白くないすよ、ねえ。

 そう続けてセンパイに同意を求めると、彼女はこの世の終わりのような顔をして震えていた。尋常じゃない様子に、胸が高鳴る。初めて見る動揺した姿にときめきを覚えながら、センパイと呼ぶと、彼女は俺を無視して先生をじっと見つめた。


「ねえ、ちょっとやだ。まさか言っちゃったの? 口に出したらダメって、あんたが言ったんじゃん」


 理解が追い付かない俺を置いて、センパイが悲痛な声をだす。


「え、あの、人魚って、なんか、泡になるやつっすかね、ははは」

「そんなのお伽話の中の話でしょ!」


 やっとのことで冗談をひねり出して話に食いついたつもりが、すぐに突き放された。センパイが俺を押しのけて、先生の両頬を掴んだ。


「熱いよ、ミルちゃん」

「やだ、やだ……ねえ、やだってば」


 ドラマのような熱量で会話する二人を見ていると、なにか自分が重大な間違いを犯したかのような気分になってくる。


「ねえ、あの」


 説明を求めようと近付くと、バシャと水がこぼれるような音がした。

 先生の肌が泡立ち、煮えたような朱色に変化していく。整っていた顔が徐々に崩れて、だんだんと目が離れ始めた。かけていたメガネが皮膚に飲み込まれて白色の模様に変化する。溶け落ちていくような変化がグロテスクに見えて腰を抜かしていると、センパイが大声で俺の名前を呼んだ。


「新しい水槽、用意して!」


 聞いたことのないほどの音量で叫んだセンパイはもうほとんど溶けかけた先生の手を掴んで、大粒の涙を流す。


「いいんだよ、ミルちゃん」

「いいわけないでしょ!」


 先生の声は水の中のようにくぐもっていて、センパイが怒鳴り返すとゴボゴボと奇妙な音を立てた。


「新しい水槽、ないですよ」


 やっとの思いでそう絞り出すと、センパイが教室内を見渡す。


「掃除……しとくんだった……」


 先生の手を離さずに悔しそうにそう言ったセンパイの代わりに慌てて水槽を探す。プリントの山や中身の半分入ったペットボトルをかき分けると、小さな金魚鉢が出てきた。少し欠けていて、ほこりをかぶったいつの物かわからない備品だ。


「金魚鉢ならありました」


 俺の声をかき消すようにビチャリと大きな水音がして、先生の形が完全に崩れてしまう。着ていた服だけが足元に残って、センパイの手の中で何かがビチビチと音を立てている。


「用意して! 早く!」


 今すぐ意識を手放してしまいたいほどの状況で、ほとんど無意識に金魚鉢を用意できたのは曲がりなりにも水生生物同好会としてやってきたおかげだ。初めて同好会員らしい活動が出来た気がする。

 俺の用意が済んだのを見ると、すぐにセンパイが水の中に手を入れた。そっと開かれた両手の間にいたのはメガネのような白い模様を持った金魚だった。金魚はしばらくぼうっと浮かんだ後、弾かれたように体をくねらせて金魚鉢の中で泳ぎ出した。

 それを見届けたセンパイは制服が濡れるのも構わずに床にしゃがみこむ。


「戻っちゃった……」


 金魚はセンパイを気にすることなく悠々と泳いでいた。


「……ぜんぶ、洋介くんのせいだよ」


 静かに泣きじゃくっていたセンパイが顔をあげて俺を見る。赤く腫らした目元が不細工で、この世の何より醜く見えた。


「許さないから、一生共犯でいて」

「共犯ってなんの」

「先生を殺したでしょ」

「それは……」


 言い返そうとした俺の声を遮るようにガラリと扉があけられる。


「ちょっと、汚すぎるんじゃないのこの部室。はやく掃除しちゃいましょ」


 ズカズカと入ってきたおばちゃん先生がそう言って窓を開ける。


「あの、なんすか?」

「部室の掃除をするって伝えてあったでしょ? ああ、もう、やだわ。こんな同好会の担当をしないとなんて」

「いや、顧問なら金森先生が」

「誰よ、それ」


 見知らぬ先生の言葉を聞いて、今度こそセンパイが声をあげて泣きだす。








 甲高い声が耳障りだと思った。


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センパイの金魚 入江弥彦 @ir__yahiko_

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