ずぼらなところも好き
高校に上がってすぐ、水生生物同好会に入った。
部活ではなく同好会にしたのはそのほうがゆるそうだと思ったからだし、水生生物同好会にしたのは唯一の同好会員であるセンパイがとても好みだったからだ。目立つタイプの顔立ちではないが、パーツが整っていてセミロングの髪が綺麗だと思った。センパイはアイドルのような可愛さではなく、彫刻のような美しさを持った人だ。
彼女は俺の入会希望に複雑そうな顔をして、水瀬だと名字だけ名乗った。
下の名前を教えてもらうころには同好会に入ってから二ヵ月経っていた。教えてもらったというより、顧問の先生のうっかりで知ったという方が正しいかもしれない。
「ミルクって、変な名前だと思ったでしょ」
恨めしそうにそういったセンパイは、金森先生のバカと続けた。
確かに珍しい名前かもしれないが、肌の白いセンパイにはピッタリの名前かもしれない。
「まさか水瀬さんが名乗っていないとは思わないじゃないですか……」
怒りの矛先が向いたことを察知した先生が気まずそうにそう言った。
「いや、でも、いいじゃないですか、ミルクセンパイ」
「水瀬って呼んで」
「せっかく可愛い名前なのに」
「あんたそれ、就活でも同じ事言えるわけ?」
すっかりへそを曲げてしまった水瀬センパイはそれ以降黙って日誌を書き始めた。ミルクと名付けたセンパイのご両親は一体どんな人なのだろう。もしかしたらものすごく牛乳が好きだったのかもしれない。
「日誌、俺が書きますよ」
「今日はいいよ、明日は洋介くんが書いて」
水生生物同好会には活動らしい活動がない。
部室と呼ばれているのは校舎の端に位置する小さな部屋で、その中で飼っている金魚の世話をして日誌を書くだけ。水生生物同好会と言いながら、ここにいるのは様々な種類の大量の金魚だった。部活と違って部費が出るわけではないから日誌の提出義務もないし、顧問だという金森先生も学校から公式にあてがわれたわけではなく、金魚の管理人という感じだ。どうやら、先生は金魚に異様に詳しいらしい。金魚のエサ代や飼育に必要なものは先生の財布から捻出されている。
もともと資料室として使われていたというこの部屋は普通の教室の半分くらいの大きさしかないのに、壁沿いに大量に並べられた水槽のせいで圧迫感が増している。足元にはいつ使ったのかもわからない紙やちょっとしたゴミが散乱しているが、センパイも先生も部屋の汚れは気にならないようだ。水槽が汚れることは嫌うのに。一度指摘してみたことがあるが、センパイ基準だと床が見えている部屋はすべて綺麗に入るそうだ。
どんな家で暮らしてきたんだ、とは言わなかった。
部室の狭さと汚さといったら、初めてこの部屋に足を踏み入れた時は入会を迷ったほどだ。今では、センパイとの距離が物理的に縮まるところだけは気に入っている。
水生生物同好会とは名ばかりで、その実態は大きめの金魚鉢だ。
日誌を書き終えたセンパイは私物をスクールバッグにしまって帰り支度を始める。大きく口を開けたスクールバッグのなかに、ぐしゃぐしゃになったプリントやむき出しの化粧品が散らばっているのが見えた。
「センパイ、バッグのなか整理しないんすか?」
「なんで? 必要なくない?」
本当に不思議そうな顔をして首を傾げられたから助けを求めて先生に視線を投げたけれど、先生も同じような表情をしていた。二人とも、恐らく汚れや大量の物への耐性が高いのだ。特別潔癖というわけではない俺でも気になる程度の部室をそのままにしているくらいだから。食べ物のゴミだけは俺が捨てているのだけど。
なんとなく、そういうずぼらなところも魅力だと思った。
最初は俺のことを警戒していたセンパイも、今では一緒に昇降口まで帰るくらいには心を許してくれている。すれ違う友人と軽く挨拶を交わしているとセンパイが、友達いるんだねと意外そうに呟いた。
「いないように見えました?」
「特に考えたことなかったかも」
そういうセンパイは、と言いかけてやめた。上の学年の人とすれ違っても、誰一人センパイには声をかけていなかったから。
「今日こそ一緒に帰りましょうよ」
「え、やだよ、なんで?」
「逆になんでそんな嫌がるんすか」
家の方向は同じなはずだ。詳しい場所は知らないけど、俺と隣の中学に通っていたと言っていたからそこまで離れているとは思えない。
出身中学を聞かれて答えたとき、センパイはものすごく嫌そうな顔をして、なんでこんな遠いところまでと言っていた。単純にこの学校の女子の制服が可愛かったからなんだけど、そういうことは多分言わないほうがいいだろうと思ってお茶を濁した。
「じゃあね」
「待ってますよ」
昇降口についてそれぞれの靴箱に向かう。先に靴を履いてセンパイがくるのを校門で待っていたのだが一向に出てこない。
何人かの生徒が通り過ぎていくが、その中にセンパイが紛れているわけでもない。ものすごいスキルで撒かれたのかもしれないし、俺が諦めて帰るのを待っているのかもしれない。
「めんどくせえ人だな……」
帰る生徒に逆らって昇降口に戻り、ニ年の靴箱に向かった。上の学年の場所に行くというのは、なんとも言えない緊張がある。他の誰にも会わなければいいと思いながら足音を殺して進むと、センパイの笑い声が聞こえてきた。
しっとりとした湿度を孕んだ少し低い男の声と、それにこたえて楽しそうにするセンパイの声。これは俺の悪いところだと思うんだが、普段からセンパイの声ばかりを集中して聞いている。そのせいで、姿を確認するまで相手の男が金森先生だと気が付かなかった。
家までどう帰ったか覚えていない、なんていうのは漫画の中だけの話だと思ったけれどその日はまさにそんな感じだった。気がついたら自分の部屋にいて、更にそれから少ししてシャワーを浴びていた。水の音を聞くと、部室での姿が脳裏をよぎる。
そんな様子、微塵もなかったじゃないか。いや、本当になかったのか。俺がセンパイだけを見ていたからじゃないのか。センパイとそれに付随する世界を見れば、もっと早く気がつけたんじゃないか。
「全部、勘違いかもしれないしな」
口まで湯船につけて空気を吐き出すと、ゴボゴボと酸素の逃げると音が鳴った。
結局、勘違いだなんてことはなくて、現実はずいぶん俺に冷たかった。センパイが金森先生に好意を抱いているのは明らかで、俺は今まで何を見てきたのかと自問を繰り返す。問題は、先生側の感情だ。
金森先生はものすごく肌が白い。太陽の下に出ることが嫌いだと言っていたけれど、それでも限度があるだろうと思うほどには白い。多くの女子生徒が羨む美白で、表情の変化はあっても顔色はほとんど変わらない。
大きな丸メガネをしているからわかりにくいが、パーツの配置が作り物みたいだ。メガネを外して無造作な髪を整えれば、センパイと並んでも遜色ないかもしれない。先生の周りは、なぜかいつもしっとりしている。
「なんですか、そんなに見て」
俺の視線から逃れるように体の向きを変えた先生が、相変わらず湿度の高い声ではにかみながらそう言った。
「や、なんでも」
「そう? 金魚の事なら何でも聞いてくださいね」
「金魚限定すか?」
「人間のことも最近は少しわかりはじめましたよ」
じゃあ、センパイのことは。
いくら先生を眺めていても、センパイのことが好きなのか、両想いなのか、付き合っているのか、その答えは出ない。
物腰が柔らかで線が細い先生は、誰にでも平等に見えた。
そうではないと知ったのは、俺がセンパイの気持ちに気付いてから数週間後。夏休みに入ろうかという時だった。
その日は確か天気予報が外れて、ものすごく強い雨が降ったんだと思う。夏に差し掛かって深い青をしていた空は瞬く間に雲に埋もれ、一息つく間もなく大粒の雨が降り出した。休みだからという理由で少し遠くまで散歩に出かけて、初めて行くコンビニでアイスを買った帰り道の事だ。
慌てて軒下に入った俺の目にうつったのは、ずぶ濡れになったものすごく好みの女だった。張り付いた黒髪を鬱陶しそうにかきあげている。綺麗な人がいると思ってよく目を凝らせばそれはセンパイで、少し後を傘もささずに歩いているのは先生だった。センパイは遠目に見ても濡れるのを嫌がっていたけれど、先生は喜んで濡れているように見えた。真っ白だった肌は少し上気していて、ほんのりオレンジがかっているようにも見える。朱色とでもいうのだろうか。変わった色をしているなと思ったけれど、そんなことを落ち着いて考える余裕はない。
急ぎ足のセンパイと、いつもよりゆったりとした歩調の先生。雨に濡れるのにも構わず二人のあとをつけると、今にも崩れそうなボロアパートにたどり着いた二人は一階の一番奥の部屋に向かった。雨音でかき消されそうになっているが、少し近付けばセンパイの声はやたらと俺の耳に届く。
「あんた、ほんとに水が好きね」
「ミルちゃんが嫌いすぎるんでしょ」
「だいたいの人間が雨に濡れるのを嫌うはずよ」
「そうか、気を付けよう」
親し気なやり取りに衝撃を受けていると、センパイがカギを開けて二人で中に入っていた。
ドアに近付いて耳を付けてみても聞こえるのは雨音だけだ。今の状態をセンパイに見られたら始まってもいない恋が終わるし、通行人に通報されたら学生生活が終わる。
幸運なことに一階の角部屋だから、どうにかして窓から様子をうかがうことが出来るかもしれない。アパートの側面に回って、俺はすぐに後悔した。
「うわ……」
カーテンのつけられていない窓は中の様子がよく見える状態になっていて、積み上げられたゴミ袋がなければ二人の様子がよくわかったに違いない。ゴミ袋の中身は主にインスタント食品のようで、カップ焼きそばの容器や、割りばしなどが大量に捨てられているようだった。よく見るとゴミ袋に入っているのは下のほうだけで、口のあいた袋からゴミが飛び出している。その中に金魚のエサのゴミを見つけて、こんなところでも魚を飼っているのかと感心した。
大きな黒い虫がゴミと窓の間でもがいていて、つるつるとした窓に足を滑らせて落ちていった。
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