第29話 咲子さんの小さな一歩
イベント当日が近づくにつれ、私たちは準備に追われながらも、どこかワクワクする気持ちを抱いていた。咲子さんも少しずつ心を落ち着けているようで、「皆と一緒なら大丈夫」と繰り返して自分に言い聞かせている様子だった。
そして迎えたイベント当日。朝早くから準備を進める会場は活気に満ちていて、私たちのブースも華やかな春のテーマで飾り付けを終えた。美香さんの刺繍作品、咲子さんの小物、そして私のイラストが並べられ、三人で作り上げた空間が完成した時、少し誇らしい気持ちが湧いた。
咲子さんは最初、ブースの隅で控えめに立っていた。彼女の表情には緊張がありありと見えたが、それでも「できる範囲で頑張る」と話していた言葉どおり、逃げることなくそこに立っていた。
イベントが始まると、ブースを訪れる人たちが次々に私たちの作品を手に取っていった。美香さんは明るい声で「よかったら見ていってください!」と話しかけ、私はお客さんにイラストの説明をするなど、それぞれができる役割をこなしていた。
咲子さんはというと、最初は黙って立っているだけだったが、美香さんが「このポーチ、咲子さんが作ったんですよ」と紹介すると、彼女は少しだけ勇気を出して「……よかったら見てください」と小さな声で話しかけた。
その言葉を聞いたお客さんが「とても可愛いですね」と微笑むと、咲子さんは驚いたように目を見開き、それから小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。その様子を見て、私は胸がじんと熱くなった。
その後も、咲子さんは少しずつ声を出す機会を増やし、最終的にはお客さんに自分の作品を説明するまでになった。もちろん、言葉は簡単で短いものだったが、それでも彼女が自分の殻を破る瞬間を目の当たりにした私たちは、心の底から嬉しく感じた。
イベントの最後、私たちは三人でブースを片付けながら、達成感に包まれていた。
「今日は本当に頑張ったね」と美香さんが声をかけると、咲子さんは少し照れたように「……皆が一緒にいてくれたから」と答えた。
私は「咲子さん、本当にすごかったよ。お客さんに話しかけたり、自分の作品を説明する姿を見て、感動した」と伝えた。
咲子さんは静かに微笑み、「……自分でも驚いた。こんなことができるなんて思ってなかったけど、少しずつ挑戦するのって悪くないかもって思えた」と話してくれた。
帰り道、三人で並んで歩きながら、美香さんが「次は何を作る?」と楽しそうに尋ねた。それに咲子さんは「もっといろいろ作れるようになりたい」と答え、私たちは笑い合った。
咲子さんにとって、この日がどれほど大きな一歩だったか。彼女が自分の不安を乗り越え、新しい挑戦を受け入れた姿は、私たちにとっても大きな励ましとなった。
冬が終わり、春が近づいている。咲子さんの中で芽生えた変化は、まさに春の訪れそのものだった。私たちはまた一緒に新しい道を歩み始めている。
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