第二夜 付喪神
こんな夢を見た。
客間の出窓の脇ある小さな卓に大ぶりの白磁の花器がある。いつぞ大旦那が骨董商から買ったものである。大旦那はこれが大層気に入っていて、これにばかり花を活けさせる。今は、薄桃色の上に紫がほのかにかかった薔薇が豊かに活けてある。自分は、水を替えるのに腕を伸ばして花器を抱えた。そうした刹那に開いたままであった窓から風が吹いた。花が煽られて舞った。あっと叫ぶ間も無く、花器が自分の腕からもげるが如く転げて落ちた。大きな音がした。
自分は瞬きを忘れ見ていた。ゆっくりと板張りの床に白磁の肌がぶつかってひび割れ、その隙間から水飛沫が花火のように舞い、花が床の上で弾んで白磁の破片と絡みあった。ちょうどその時、柱時計が熊のようにのそりと正午を打った。花器でなくなった白磁が花と戯れて粉に砕け、舞い上がり絡みあい、人の形になった。自分はただ、風ひとつ行き過ぎる間に連なる光景を、瞬きを忘れ口を開けて見ていた。
人型は女であった。真珠色の長い髪と白い肌が眩しかった。白磁の花器は、真珠色の睫毛を瞬かせて微笑んだ。そうして「御機嫌よう」と挨拶した。
花器はさらに律儀に
「いつもお水を替えて下さいまして、有難う御座いました」
と礼を云った。自分はますます、どうしたら良いか分からなくなった。兎にも角にも、自分はあの白磁の花器を割ったのである。そこでとりあえず謝ることにした。
「申し訳ありません。風に煽られて、手が滑ってしまいました」
「いいえ、今日風が吹くのは、わたくしが釜から出された日に決まっていたのですよ。かたちあるものに生まれれば総て終わりが在ります。このお屋敷の旦那様にお別れを申し上げなければなりませんね」
花器はそう云った。それで花器を連れて、屋敷の奥へ案内した。
書斎で目の覚めるような佳人を見た大旦那は、思い切り渋面をした。
「お客様なら先ず客間へお通しするもんだ」
「いいえお客様ではありません。旦那様のお気に入りだった白磁の花入れを、うっかり割ってしまいました。そうしたら花入れがこちらのご婦人になり、今日がお別れの日だから旦那様にご挨拶を申し上げたいと仰っています」
と自分が答えたら、
「小間使いのくせに、そんな言い訳をする奴があるか。花入れを割った言い訳に、ずいぶんと手の込んだ作り話をする子供だ」
とひどく怒られた。本当の事を説明したのに、信じられぬと一言のもとに片付けられた。子供とは理不尽な思いをするものであると思った。そうしたら花器が代わりに挨拶してくれた。
「この十年、いつも綺麗なお花を生けて下さり磨いて頂きまして、とても感謝しております」
「しかしあんたが白磁の花入れだとは俄かに信じ難い」
「それでは何を申し上げれば信じて頂けましょう。大旦那様はわたくしを、青い鶴の古伊万里のお皿と引き換えに買い受けて下さいましたね。それから三日、毎日この書斎で眺めて、最初のお客様がありました日に床の間に飾って下さいました」
これを聞いて大旦那もぽかんと口を開けた。自分が白磁を割った時と同じ顔である。白磁の花器は、とろりと艶のある豊かな黒のドレスを両手で少し持ち上げて、丁寧に礼をした。
「けれども今日でお暇しなければなりません」
大旦那が慌てて、
「そう急くこともなかろう」
と引き止めたが、白磁は薔薇色の唇で微笑んで
「けれどももう行かなくてはなりません。ほら、風のある日ですから、欠片が空に昇るのにはうってつけでございましょう。空の上へ上へひたすら昇ると、地面にまた落ちるのですよ。そうして次は、どんな姿でお目に掛かれましょう。楽しみにしておりますね」
と云った。途端、書斎の窓が開いて風が吹いた。婦人の姿形が、柔らかに滑らかに無数の白い欠けらへと粉微塵に砕けた。
自分と大旦那は、白磁の粒ひとつひとつが光に瞬きながら窓の外へと風に攫われてゆくのを、そろって口を開けたまま、ただ見送った。
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