第一夜 桜の森の満開の

 こんな夢を見た。

 膝の高さほどの石垣に腰掛けている。蝉が聞こえだす初夏である。自分の隣には老婆が座っている。目の前には、太い幹が空を受け止めようと枝を広げている。自分は老婆と二人で樹を見ている。空は高い。

 どうしてもお会いしたい方が居たのよ、と老婆が云う。けれど産まれるときを間違えてしまったの、仕方がないから他の方のお家へ嫁ぎました、そう云って前を向いたまま、さも可笑しそうに笑った。笑うと横顔の眦に、鴫の足跡の形に皺が浮かんだ。自分は目の前の樹を指差して、あれは花の咲く樹ですかと訊いた。桜よと老婆が答えた。

 先ほどから風が一度も吹かない。頭上には雲が無い。時が止まっているようである。自分は桜を眺め続けているうちに、あれは既に百年も前に死んでいるのではないかと思った。

 桜の樹の下には死体が埋まっているという。柳の樹の下には幽霊が出るという。しかし目の前にある幹は太く、自分が寄りかかったくらいではびくともしないように見える。風が無いから、脈を密に走らせた千万の葉はそよとも動かぬ。まるで死体である。柳は桜よりも幾倍もしなやかな生き物であるように思えた。そう老婆に話すと、面白い事を云うのね、とふたたびさも可笑しそうに笑った。油蝉の声が遠ざかった。夏が終わろうとしている。空は一面の鱗雲に覆われている。桜は不気味なほど静かである。

 百年も前に死んじゃあおりませんよ、と老婆が云った。八十年前も、七十年前も、ここいら近所の人たちがお酒とお重を持ってお花見に来ました、もちろん百年前も百二十年前も、と云って口元に弓なりの笑みを浮かべた。老婆は微笑んだまま、桜を眺めている。鶫の足跡のかたちに、眦に皺が浮かんでいる。いいかげんな事を口から出るにまかせているんじゃなかろうかと考えながら足元に目を落とすと、爪先の横に一枚、桜の葉が吹き寄せられているのに気がついた。風が吹いた覚えは無い。桜の葉の端が黄色く褪せている。

 自分は、見知らぬ人々があの枝の下で宴に興じる姿を想像してみることにした。目の前の、紅く色づいた千万の葉を、桃色の花にすげ替えて、男達があぐらをかいて杯を交わす姿を思い浮かべてみた。だがやはり、桜が死んでいるのではないかという考えは拭えぬ。本当ですか、と自分は老婆に訊いた。老婆は、本当よ、と答えた。その頬と唇に、あたたかな紅色が差し込んでいた。やはり桜は生きているのかもしれない、と思った。

 はらりはらりと桜の枝から葉が落ちている。次に自分が産まれた時に、もし染物屋であったなら、紅い錦に細く白く、網の目に脈を染め抜いてみようと考えた。すると目も合わせていないのに、老婆が、あなたはまだ次に産まれた時の事なんぞ考えるお歳じゃないでしょう、と云った。わたしが先に考える順番よ、でも次は、この前に居たところへ帰って待っていようと思うの、と云って老婆は隣の自分の膝の上に腕を伸ばし、手を取った。

 頭上の鱗雲が潰れて、重たい綿色に覆われていた。やがて天の綿がこぼれて細かく砕け、降ってきた。冬が逆さにした擂り鉢を地に被せ、ほの暗くなった。老婆の掌はふっくらと温かかった。薄い桃色の爪が見えた。自分は隣に居たのが誰であったか確かめようとして顔を上げた。隣には誰も居なかった。

 何かが弾けて自分は立ち上がった。平らだった足元が急に歪み、空と重なった。ぐるりと振り返ったが、地面も同じように前と背後が入れ替わったようであった。どちらが足元か分からなくなった。回転する万象のなかに桜が遠ざかって近づき、雪が枝を包み白く化粧したその桜の枝を透かして、遠くに葬列が見えた。あの薄板の棺の中に葬られたのはあの老婆だ、と確信した。

 気付くと自分は桜の前に立っていた。

 雪だと思った白は、桜の枝という枝から溢れた、千万の花弁であった。あのうす桃色の爪のかたちをした花弁が集まり、霞をかけていた。花かがりが夜を眩しい昼の如く照らした。

 そして自分の目の前の枝の上で、若い娘がこちらを見つめていた。眦と唇が、温かな朱に染まっていた。淡い赤の着物の先に白く抜けた襟足から落ちる黒い髪が、わずかな風に揺らされてさらさらと流れた。娘は桜桃の唇にひとつ、花を咥えていた。自分はその花に唇を近づけた。遠く過ぎ去った昔の宴の香りがした。

 産まれるときを間違えたのは自分であったと、この時ようやく気が付いた。

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