3

 私は病院の廊下を裸足で走り続けていた。後ろからは泥状の捕食者が跳ね回っており、床、壁、天井を叩きながら螺旋を描くように私を追っていた。病院内に灯りは一切なく、人一人おらず、窓も異様に少なく感じた。夜の病院がここまで様変わりしたものだとは思えなかった。月光の届かない暗闇は何故か反射した油のように虹色に輝き、周囲からは水風船を潰すような音が聞こえる。。床は右へ左へグラグラと傾き、私は天井に頭をぶつけ、引き戸式の冷蔵庫を通り、燃え盛る水道を飛び越え、花壇を泳ぎ、書庫を掘り、トンネルを叩き、映画館を登り、線路を歩いて、やがて私は辛うじて床にB1と書かれているのが見える病院の地下に降りていた。病室のあったキレイなタイル張りの階層と違い、剥き出しのコンクリート壁は傷だらけで、赤黒い汚れが目立った。相変わらず暗闇はギラギラと輝き、周囲に広がる音は止まないが、先程までのカオスに満ちた迷宮よりも正しく簡素な構造をしているように感じる。歩いた時の感触も固くひんやりとしていて違和感は無かった。あれはまだ私を追っているようで、みちゃみちゃと液体の跳ねる音がずっと後ろからこだましている。私は、一度呼吸を落ち着かせてから奥へ続く地下道を歩き始めた。その道は、足元に設置された小さな電灯のおかげでぼんやりと明るかった。遠くから響く液体の音は未だこちらに近づくことはなく、暫く歩き続けていると、曲がり角の先から強い光が溢れていることに気づく。長い時間暗闇に慣れていた為、その明るさに思わず目を細める。あの不定形の化け物の音が段々と近づいていることが確かに感じられ、あまり時間が無いことを自覚させられた。私は意を決してその曲がり角を進み、そして煌々と電気がついている手術室の扉のようなものを発見した。病院の地下室に手術室があるという事実が果たして本当なのか、あるいは私にもたらされた厳格によるものなのか分からなかったし、もし仮に実在したとして、そこに手術室があるのは病院として正しいのかどうか知る由もなかった。だが、私は迫る水の音に焦燥感を掻き立てられてその扉に手をかけた。そして、私は長い間勘違いしていたことにようやく気づくこととなった。


 遠くから近づくヘドロの音は、確かに存在した。それは紛れもない事実であり、私があれを取り込んでしまう前から継続して実在した聴覚情報だ。ただ違ったのは、それを分析した浅はかな私の思考のみだった。それが近付いていたのではない、。愚かにも私は自らの意思で、自らの足で、逃げ続けていたはずのそれに自ら近づいてしまったのだ。扉の先には、私が今まで見て恐怖して逃げ出したそれの何倍もの体積を持つ、恐らくあの泥と全く同じ存在が積みあがっていた。その塊はてらてらと表面を輝かせ、脈動する度に湿った音を手術室中に響かせた。不気味なほど清潔で、この状況に不相応な手術室は常時瓦解と再構築を繰り返しながら、「病院」という概念に適合した様々な様相を作り上げて最適化を繰り返す。油のように輝いて見える暗闇の一切が存在しない混沌によって形成された規則的空間がずれて、溶けて、色褪せて、気づけば私の背後にあったはずの扉は消失し、そこにはただの壁しかなかった。そして、よく見ればわかることだが、その壁は決して固体ではなかった。固体であろうとし、固体のように錯覚させるそれは、表面がクリーム状になっており、或いは油のように流れ落ちていた。その表面に微かに見える半透明の液体は人の美的感覚を刺激する様々なベクトルの色が中途半端に混ざり合っている。。私は手術室に閉じ込められ、目の前にはあの巨大なヘドロがある。恐らく意思を持ち、狡猾に私を追いつめる捕食者の集合体があるのだ。そして私は、それから一歩離れようとして壁に触れて、そしてゆっくりと接着した私の体は飲み込まれていった。その時、私は壁に触れた瞬間に覚えた違和感を強く意識した。ジェルか、油か、あるいは泥か、そういった流動的なものであることは既に察していたが、実感して初めて私は理解することが出来た。。あの陰湿な波打つ化け物は冷蔵庫や映画館といったあからさまな幻覚を私に見せた後に、現実感のあるものを見せることで、私になじみ深い物質的世界に帰ってこられたのだと錯覚させたのだ。その巨大な化け物も、揺らめく手術室も、実際には存在しないのだと、私は気づくことが出来たのだ。それから次に、私は本当の現実に手を伸ばした。触ったという実感のある、私と同じように分子によって構築された世界を探して、それから思い出した。ここまでの長い道のりの中で、唯一実感を持つ情報。跳ね回る水の音、だ。私は、聞こえないように塞ぎ続け、気づかないように自らを誤魔化し続けるのを止めて、逆によく耳を澄ました。もはや消えかけていたが、僅かに遠くの廊下から反響していたそれを捉え、認識と分析を担う私の認識の机まで引き摺り出す。それからよく吟味して、噛み砕くように考える。液体の跳ねる音、不規則に壁や天井にぶつかる音、それから床に吸い付く吸盤の音…。

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