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退院まであと1週間を切った頃、もはや私は隣に眠る老人のことなど気にも留めなくなっていた。老人の呻きが聞こえなくなった時点で向こうからこちらに何かをアピールすることも無かった為、もはや私の入院生活にその存在感は無かったからである。だからその日まで私はあの老人のことを覚えていなかった。いつも通り目を覚まして、いつも通り時間を確認して、そしていつも通り看護師がカーテンを開けるのを待った。いつも通りの時間に看護師が部屋に入ってきて、そしてカーテンが開かれた時、私は自分が異質な状況に陥っているかもしれないことを思い出した。あの老人が、体を起こしていた。ピンと上体を起こして、まっすぐ前の壁を向いていたのだ。にもかかわらず口と目は相変わらず閉じたままで、蝋人形のように固まってびくともしない。一体いつ、この石像のように硬直した老人が体を起こしたのだろうか。昨晩は普段と変わらず横たわっていたはずだ。一番可能性があるのは呻きや奇声を発している夜の間である。カーテンの向こうでこの老人の身に一体何が起こったのだろうか。私が呆気に取られているともう一人の、見覚えのある看護師がいつも通りに歩いてきて、慣れた手つきでその体を寝かせたのだ。その様子が目に入った時、私は初めて自分がいかに無警戒に日々を過ごしていたのかを自覚した。間違いなく、彼らは何か隠している。隠さなければならないほど不都合な事実を彼らは抱えているに違いない。それは直観の域を出ない漠然とした推測に過ぎなかったが、私に好奇心と少しの正義感を齎すのには十分だった。ともかく、私はカーテンの向こうで起きている何かを知ることを目下の課題とした。
そもそも、この老人が明日も同じように起き上がるとは限らなかった。ただ、残り一週間を惰性に過ごすよりはよっぽど有意義であり、何も知ろうとせずにベッドの上でこの老人の正体に怯え続けるよりはマシだと思った。やはり日中、この老人は一度も動かなかった。看護師はさも何事も無かったかのように振舞っており、病院という小さな世界は異常など何一つ起きておらず寝惚けた私が見間違いをしてしまっただけなのだと私に錯覚させようとする。だが、彼らの小細工程度では私の心にこびり付いた懐疑の念を拭うことは不可能だった。私は夜が来るのを待った。電気が消えて周囲が灰青色に染まってもなお、私は目を開け続けていた。そして気づかれぬよう意図的に作り上げたカーテンの隙間から、私は月明かりではっきりと照らされた横たわる老人の輪郭を観察し続けていた。大体2時間ほど経過しても影が揺れることは無く、私は確実に自分の瞼が重くなっていることを自覚していたが、それでも私は眠ろうという気にはなれなかった。なぜならそこに、私が知らなければならない重要な真実があるのだと信じてやまなかったからだ。だから突然老人の影がゆっくりと、確実に起き上がり、それから自らの手でその白いカーテンを開けた時も、私はそこまで驚きはしなかった。ある種これは、運命なのだと思っていた。いつもより大きく輝いて見える月の下で、老人が私のベッドについている方のカーテンの隙間からこちらを覗くように、顔をこちらに向けていた時も、私に一切の恐怖心は無く、そこには純粋な探究者としての勇気だけが存在していた。そしてそれがからくり人形のようにぎこちなく目と口を大きく開いた時、ようやく私は自らの心の奥で燃え上がるそれが蛮勇と呼ばれるものであることを理解した。そして初めて、私は老人と目が合った。
ああ、だからつまり、駄目だったのだ。所謂人が知るべきでない事実というものが、そこに存在していたのだ。あれは人の姿をしているかもしれない、或いは元は人だったのかもしれない。だが、もはやあれは人と呼ぶに値しない。空洞だ。そこに人は既にいなかった。ただあったのは、骸だった。そしてそこから這い出たあれがなんだったのか、私は知らなかったし、恐らくこれからも知ることは無いだろう。眼孔から溢れる名状しがたい混沌の色をしたヘドロが、まさに人間の言葉で言い表すことすら気が引けるほど不格好に、不規則に、まるで何か獲物を求める巨大なアメーバのように純白のベッドを触り始めたのだ。月に照らされ、それは不気味にてらてらと輝く。よく見ると表面はボコボコしており、半透明な吸盤のようなものも見られた。だが、あれは間違いなくタコやイカではなく、少なくとも人間がその身体構造の理由を理解することは出来ないだろう。やがてあれはぬるりと老人の骸から滑り落ち、ヒラムシのようにベッドの上から床へと這いずる。間違いなく、確実にそれは私に向かって動いていた。そして私を次の寄生先、或いは棲家にするつもりだった。それを刺激しないように、私はゆっくりとベッドの左側へ下がり、それから睨み続けていた。そしてそれが私のベッドのすぐそばまで近づくと、大きく跳ね上がって私にとびかかってきたのだ。私は布団でそれを防ぎ、そのままくるんで捕獲することが出来た。しかし、私は息をつく直前に気づいてしまった、それは蜂蜜や接着剤のように粘性を持った液体の体を持っているように見えた。だが、それはあくまで人間の眼にはそう見えたという話なのだ。それは布を貫通して私の右手首に触れていた。手首の血管に、チューブのように刺さって流れ込んでいたのだ。私がそれに気づいたのは目視して、認識してからだった。痛みや異物感は無く、不快感も触感も無く、ただ流れているのが見えただけだった。遅れて湧き上がる危機感から、私は大きく腕を振ってそれを引きはがす。それは前方の壁に叩きつけられたが、半透明の液体が私の血管に吸い込まれていくのも確認した。少しずつ、着実に私はその混濁した色に蝕まれていた。それは叩きつけられたダメージをものともせず壁を這い天井を伝って私の頭上へ移動し始めた。私は被食者としての本能に駆られ、逃げ出すほかなかった。
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