やどかり

手帳溶解

1

 私が入院を嫌っているのは、だいぶ昔に経験した忌々しい出来事が由来である。考えてみれば病院というものを毛嫌いするようになったのもあれがきっかけだったか。当時この話をした時は誰も信じてくれず、私を世話していた看護師らでさえも一笑に付した。だが、私はあの時彼らの目が一瞬泳いだのを見逃さなかった。あれは間違いなく、知っている目だった。そして私は失望したのだ、勿論この話をお前が信じる必要は無い。陰謀論だ世迷言だと一蹴しても構わない。だがこの話を聞いてほんの少しでも身震いしたのなら、どうか私の要求を飲んで欲しいのだ。


 今から30年ほど前、私はちょっとした事故で足の骨を折った。なんともない、日常生活は変わらず送れるようなものだと私は感じたが、医者が言うには少し問題のある折れ方をしていたらしい。無論、今となっては本当にそうだったのか分からないが、当時の私は当たり前のように医者を信じ、そして入院が決まった。今にして思えばやけにスムーズに手続きが済んだような気がするが、これが果たして仕組まれたものだったのか、それも医者の話と同様にもはや分からないことなのだ。私の泊まることになった部屋番号は覚えていないが、比較的高い階だったはずだ。毎回苦労して松葉杖で階段を上がっていたことは覚えている。病院らしい真っ白なタイル張りの廊下と壁を照らす等間隔に置かれた蛍光灯はいやに眩しく、階段で登り切ったところに毎回それが視界へ飛び込んでくるものだから憂鬱だったことも同じく。それくらい階段を使う回数が多かったのには勿論理由がある。あの病院の一階には売店があるのだ。豊富な種類の弁当や飲料水が並んでいる上雑誌も数多く揃っていたものだから、入院中娯楽や飲食で飽きがくることはなく、それ故に退屈はしなかった。病室のベッドも決して寝心地や配置が悪かったわけじゃない、看護師も皆丁寧な仕事をしていたのはよく知っている。私がここまであの病院を嫌っているのは、あの隣人の所為でもあるのだ。


 私が入院した時点で、既にあの痩せこけた老人は右隣のベッドにいた。奇妙なほど静かで、微動だにしないその日焼けした皺だらけの男は、目と口をピッタリと閉じて眠っており、私には最初死体のように思えた。たまに看護師が体を拭いたり点滴を取り換えに来るので、それが生きていることは分かったが、そうして世話されている時でさえうんともすんとも言わなかったので非常に不気味だった。売店で買い物を済ませて戻ってきても、しばらく昼寝をしていても、老人はずっと同じ体勢、同じ表情でベッドに横たわっていた。それ程まで重症の患者なのかとも考えたが、そういった植物状態の人間には多くの医療機器が繋がっている印象がある。だが、その老人に繋がっていたのはせいぜい点滴くらいであり、重体患者には見えなかった。それに日が落ちて消灯時間になれば、あの老人が生きていることを嫌でも知ることになる。決まってそれは消灯から30分ほど経った頃に始まった。疲れと眠気で意識が落ちかけているところに、私の安眠を妨げるかのように聞こえてくるのだ。カーテンの向こう側から歯ぎしりや呻き、たまに弾けるような奇声、それらはどれも老けた男性の声であり、間違いなくあの老人のものであった。まるで悪夢でも見ているかのような、悍ましい想像を掻き立てる嫌悪すべきノイズは、聞く者全員に悪夢を齎すような気がした。幸い、私の入院生活は意外と疲れるものだったので、夢を見る余裕すらなく沈むように眠ることが出来たが、それでも眠りにつく直前まではその音を毎晩不快に思っていた。ともかくそれは私に憂鬱な感情を齎したが、同時に隣に横たわっているものが老人の遺体ではないという確信を与えてくれた。ただ、そうした証拠がなければ死体と見分けがつかないほど、その老人に生気を一切感じられないというのもまた事実であった。


 医者が言うには問題のある折れ方ではあったが、過度な運動さえしなければ悪化することは無いらしく、私の入院期間は大体1か月と言われていた。ようは1か月のもの間、隣に眠る老人の顔を毎日拝むということであり、それはつまり1か月のも間、毎晩老人の呻きを聞くということであった。私は何度かその事実や伴う苦痛を看護師や医者に伝えたものの「他に場所が無い」と繰り返すばかりで、私の切実な願いは全く無意味なものになるところだったが、ある一人の親切な看護師から耳栓を貰う事に成功したので私の懇願は無駄ではなかったと思う。とにかく、それを手に入れてからは快適に過ごすことが出来た。そもそも骨折自体に大した痛みは伴わなかったので、私にとって入院生活は少し移動が不便なだけの長い休暇に過ぎなかった。積んでいた本や雑誌を読み、ラジオを聞き、久しぶりに会う見舞いに来た友人と積もりに積もったとりとめのない雑談を交わし、そうして大体2週間ほどは暇をつぶすことが出来たし、何より売店の存在が大きかった。案外その時は、あの生活を居心地よく感じていたのだ。

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