第肆章『怪異と形代と『絵』/後編』
一人の男が人のいない校舎を歩いている。廊下をゆっくりとした足取りで歩く彼を一瞬だけ垣間見る教師はいたが、次の瞬間にはその姿を捉えられず、首をかしげた。彼を『視える』人間など少数だろう。
校舎の中には無数の異形の痕跡がある。それは下級のモノばかりで、人には害はないモノばかりだったが男には関係ない。
『今は害がないとはいえ、奴らは斬る必要がある』。
しかし、それら全てを斬る必要があるのは良いがそれよりもまず、男にはやることがあった。静かな殺気を含んだ目を向けて牽制して先を急ぐ。この校舎の中で一番濃く漂う妖気。その跡を辿っていくと、一つの部屋の前に続いていた。戸を開け、男は中を確認する。そこは現代の人が言うならば保健室だったが、浮世から外れた彼にはその部屋が何のためにあるのかは分からないし、どうでも良い。ふと、その足は一つの鏡の前で立ち止まった。
ここだ─────────
男は鏡の前に手をかざす。そこには暗い部屋の中にいる自分の姿があり、暗い異形の影が映る。鏡には魔物の正体を映すと古くから言われている。『鏡の向こうにいるモノ』を鏡を通して見えているのだろうと判断し、男はわずかに触れていた鏡に向かって呟くと、先ほどまで壁のようになっていた鏡の面が波打って男の指先に沈み込んだ。男は腰に差していた刀を握り、鏡の中に入っていった。
一方、その頃。鏡の中で行方の分からない生徒の行方を捜していた緋莉と記鬼は、校舎の探索をしていた。各教室を覗き、人のいた痕跡を探していく。どの教室も埃を被っており、机はほどんどが乱雑に散らばっていた。時折、人のいたような空気のある教室もあったが、記鬼の反応を見るにおそらく自分達が来る前に来てしまった人で、もうどこにもいないのだろう。
「いないね~~……佐々岡さん。」
考え事をしているとポツリと記鬼が呟いた。間に合わなかった人達のことや、この異界のことを考えていて完全に上の空だった緋莉は慌てて我に返った。自分の頬を軽く叩き、意識を戻す。
「ごめんね。私は佐々岡さんと会ったことがないから……どんな人なのかも分かんない。記鬼の視たのが頼り……」
「あるじはもっと人と関わった方がいいよ~?」
記鬼の言葉に緋莉は不思議そうに首をかしげる。別にクラスの中でこれと言って仲の良い人はいないが、何かあれば声をかけてくれる人もいる。少なくとも、『嫌われている人』ではないと思う。嫌われている人の視線はそれ相応、『痛い』のだ。その視線を感じていないので、不思議がる緋莉を記鬼は苦笑を浮かべながら見上げた。
「ぼくはよく知らないけど、それは『関わっている』とは言わないんじゃないかなぁ~…………あ、」
ふと、記鬼は一つの教室を見て声を上げる。その瞳は他人の記憶を視ている証拠であるオレンジ色に輝いていた。どうやら目当ての女子生徒を見つけたようだ。
記鬼の視界の中には建物自体の記憶が漂っている。中心に行くほど記憶は古く、その年月は長い。しかし、比較的に新しい所に一人の女子高生がぼんやりと立っている映像があったのだ。その記憶を視ていた記鬼に緋莉は思わず「どう?」と首をかしげる。
「怪我をしているとか……怪異と遭っているとか……ない?」
「う~~ん……今のところ……」
緋莉の言葉を曖昧な返事で返しながら記鬼はその記憶を注視する。少女は何かを呟きながらふらりとおぼつかない足取りで教室を出て行った。その記憶の跡を追いかける。記憶の中で歩く少女のその足取りには危機感がない。
その違和感をわずかに感じながら記鬼は緋莉と共に暗い廊下を歩いていくと、しばらくしてから廊下の先で一人の少女が立っていることに気が付いた。先ほどから記憶で視ていた少女だと記鬼はすぐに気が付き「あ、」と声を上げる。暗闇に慣れてきた緋莉も彼女に気が付いたようだ。
「もしかして。佐々岡さん?」
声をかけられて少女、佐々岡は振り返った。その顔は確かに緋莉がここに来る前に見た女子学生だった。見た所、幸運なことに怪我も何もしていないようで緋莉は安堵の表情を浮かべる。
「良かった!いなくなってたから……怪我がなくてよか─────────」
緋莉が慌てて駆け寄ろうとしたその時。
ずるり、と何かが溢れるように佐々岡の周りから靄が噴出したのだ。
「え、」
「あるじっ!!!!」
記鬼は素早く緋莉の前に出ると金棒を振るった。金棒が当たった靄は霧散される。記鬼は金棒を持ち変え、佐々岡に振り上げるも噴き出した靄が壁となり攻撃を防がれてしまった。
緋莉は一瞬、何が起きたのか分からなかった。少女の周りに漂う靄は鏡から噴き出したモノだろう。この校舎で一番濃く漂っている妖気だと、緋莉はしばらくしてからようやく気が付く。しかし、そんなことよりも。
その怪奇がどうして彼女から?
「セ……せんせ……」
佐々岡が小さく何かを呟いた。その瞳からは生気が感じられず、まるで人形のようだった。
「先生………どうしテ…………無視しナいで……ねぇ……」
(まさか……憑りつかれてる?!)
暗い廊下に反響する二重の声に緋莉は目を丸くする。それに気が付いた瞬間、佐々岡の姿がテレビの伝播障害のようにブレた。もう一人の『何か』が彼女に憑いているのは間違いないようだ。
しかし、いくらこの場が怪異の方に主導権があるとはいえ、『憑りつかれる』ことはその怪異と本人がリンク、共鳴することだ。共鳴出来る部分がなければ簡単に憑りつかれることはないはず……
(何か怪異と共感出来るところか……??)
「深く考えない方が良いよ~あるじ。」
記鬼の言葉に緋莉は我に返った。笑みを浮かべながら記鬼は瞳を細めると、金棒を構え直した。
「─────────『胸糞悪いから』」
一瞬。その一瞬だけで怪異の記憶を覗いた記鬼はそう短く答える。何を視たかは緋莉には分からなかったが「ねぇ」と呟き、緋莉の元へ一歩踏み出す少女に我に返る。黒い靄が噴き、少女の周りを囲むと殺意が混ざった瞳で緋莉を睨みつける。
「せんせいに、わたしの──────『彼』に、ちかづかないで……っ!!」
「変な勘違いしないでよ。あるじはそんなんじゃないって!!」
「記鬼!その人はっ!!」
緋莉の言葉に「分かってるよ~」と記鬼は答えて走り出す。相手はいくら怪異に憑りつかれているといえ、生身の人間だ。金棒では無事では済まないだろう。緋莉がそれを避けたがっていることを分かっている記鬼は瞳に妖力を集めて、オレンジ色に輝かせた。『記憶削除』の能力を使って少女が『憑りつかれている記憶』を消し、怪異と少女を引き剥がそうとした。しかし。
ざわっ、と廊下を走る記鬼の左右の闇から靄が覆い被さって来たのだ。
「ありゃ?」
『これはマズい』と記鬼は笑みを浮かべる。これがクロであれば、暗闇から聞こえる音で素早く反応が出来ただろうが聴覚が特化したクロとは違い、記鬼は耳は普通の人間と変わらない。だから、『影を通して』襲い掛かってくる靄に気が付かなかったのだ。「記鬼!!」と緋莉が思わず手を伸ばしたその時。突如、その後ろから突風が吹き込んだ。風に耐える為、緋莉は思わず伸ばしていた手を退いて、目を細める。その次の瞬間。
炎の一閃が廊下を駆けていた。
いつの間にか記鬼の傍らに立った一人の『鬼』は手にしていた刀を持ち変え、円を描くように振る。刀に纏った炎は覆い被さろうとしていた黒い靄を焼き掃った。その炎は怪異にしか効かないようで、佐々岡の裏側にいた少女は痛がるように悲鳴を上げた。攻撃の手が一瞬だけ緩む。
その一瞬を突き、鬼は素早く少女の懐に入った。炎に顔を覆っていた緋莉は彼が何をしようとしているのかに気が付き、ギョッと目を丸くする。
「ちょ、まっ─────────!!」
しかし、緋莉が止めるよりも先に少女が悲鳴を上げて靄を湧き出す。鬼がその靄ごと斬り伏せようとするよりも前に記鬼が床を金棒で叩きつけた。加減することなく叩きつけられた打撃によって地面に亀裂が入る。その亀裂は緋莉の足元まで走り、緋莉は「え、」とアホみたいな声を上げた。
そして亀裂の入った床が崩れ、とっさのことに反応が出来なかった緋莉は悲鳴を上げながら記鬼達と共に階下に落ちていった。
────────────赤子の声がする。
泥のように何かがまとわりついていく。その感覚は思い出したくない記憶を呼び起こして、息が詰まる。
気がついたら暗闇の中に自分はいた。べたり、と何かが肌につき思わず顔を拭う。肌についたものを確認してみると、その手が、身体が、全身に赤い液体がべったりとついていて、思わず目を丸くした。
「どうして、」と声が聞こえて、振り返った。佐々岡ではない。見知らぬ少女が自分の身体を抱えて座り込んでいる。
少女の言葉が脳内に響き渡る。
自分を愛してくれる人はいなかった。
でも、あの人だけは私を愛してくれた。欲しかった言葉をくれた。
自分のことが大事だと、愛していると、
将来まで約束してくれた。
のに、なんで、
なんで他の子と仲良く話しているの、
どうして私を見てくれなくなったの、
ねぇ、せんせい、どうして?
ずるり、と少女の座るところから肉の塊が浮かび上がる。どす黒い靄が誰の血なのかも分からない血と悲鳴をまき散らしながら、彼らを殺した少女は顔を覆っていた手を離す。
少女を中心に靄が噴き出すと自分に襲い掛かる。反射的に顔を覆った。濁流に呑み込まれないようにその流れに耐えていると、誰かが自分の腕を掴んだ。
瞳のない少女と目が合った。
どこにいるの?
どこにいったの?
ねぇ、逃げないで、
避けないで、
だって、私は、せんせい、あなたの─────────
「あるじ」と声が聞こえ、緋莉は息を吸い込むように目を覚ました。呼吸が荒く、心臓の音と合わさって脳内に騒がしく鳴り響いていた。ようやく呼吸が落ち着いてきてから記鬼が相変わらずな顔で自分を見下ろしており、そして自分はいつの間にかどこかの教室に倒れていることに気が付いた。慌てて緋莉は身体を起こすと、頭に鈍い痛みが走った。思わず緋莉は自分の額を押さえる。
「大丈夫?うなされてたよ。」
心配そうに顔を覗く記鬼に我に返って、緋莉は自分の頭から手を離すと「だいじょうぶ」と小さくうなずいた。
その教室は他の部屋よりも広く、机の形も二人で一つの机を使うように作られた横長の机でその脇には蛇口が付けられている。周囲の棚に並べられたビーカーやフラスコなどの実験器具を見る限り、理科室だと分かった。
(そうだ。確かさっき、怪異に襲われて………記鬼が床を壊して、それで~……)
緋莉が気を失う前のことを思い出そうとしていたその時。
「気がついたか。」
久しぶりに聞く声に目を丸くして顔を上げた。この声を聞くのは一週間ぶりだ。
教室の出入り口を睨みつけていた男は、一度視線だけを緋莉に向けてから顔を向けた。長い濡烏の髪と臙脂色の瞳。いつも顔を隠すようにつけている狐面は頭の横につけている。耳につけた金細工の耳飾りと腰に差した太刀が何よりも目を惹く彼は──────
「しゅ、朱音!」
そう緋莉は目を丸くして男の名前を呼んだ。この名前を呼ぶ者はおそらく緋莉達、龍神家以外いないだろう。普段の彼はこの界隈の人々から『怪異狩り』と呼ばれ、畏怖されている。
悪鬼の蔓延っていた平安時代から生きていた同族を狩る異端の妖。
「ど、どうしてここに!?ていうか、まずどうやってこの中に……」
「『鏡』を通って来た。その様子だと特に何か異常があったというわけではなさそうだな……引っ張られないよう気をつけろ。」
淡白に朱音は緋莉の問いにそう答える。そっけない言葉遣いは決して、彼の中で悪意があるというわけではない。
突然の再会に緋莉が目を丸くしていると。
「せ……せんせい……どこ……に、どうしテ……」
佐々岡の声と合わさるように少女の声が廊下から聞こえて来た。トンネルの中で声を出した時のように反響し、空間に響き渡る。緋莉は目を丸くしてドアの方に顔を向けた。幸い、この教室の出入り口は一つしかなかった。朱音はさりげなく緋莉の前に出ると刀の鯉口に指を当てた。いつでも切れる態勢になっている。しかし、少女は緋莉達のいる教室に入ることはなく前を通り過ぎ、そして遠ざかって行った。
「……一応、この場所には『姿隠し』の結界を張っている。妖気や霊力の回復に専念出来るはずだ。」
一瞬だけ警戒を解き、朱音は緋莉にそう呟いた。その意味がどういうことなのか、それに気が付いた緋莉はハッと目を丸くして彼の顔を見た。
(やっぱり……『知っている』んだ……)
朱音は昔、今でいえば緋莉の先祖であった陰陽師に仕えていたという。その術者は『陰陽術は使えないが』緋莉のような『絵』を呼び出す能力は使えていたのだという。だから、必然的に彼はこの能力の特性を知っているのだ。
それは、この能力を持つ者の弱点というのだろうか。『気を付けるべきこと』も彼は知っているということ。
「あ………私は『まだ』大丈夫だよ。それよりも、あの人のことだけど……」
「あの『怪異』は俺が斬る。お前はここにいろ。」
短く、朱音はそう言って額の横につけていた面を被り直した。朱音のその言葉に「ま、待って!」と緋莉は慌てて彼の羽織りの袖を掴んだ。面を着けているせいもあって分かりづらいが、不思議そうに朱音は振り返った。
嫌な予感があったのだ。漠然としているがしかし、先ほどまでの緋莉の行動や言動と比べると彼の言動や行動には緋莉と確実に違う『何か』があった。
「あの怪異は人に憑りついてるのよ……!?」
「そうだな。『それがどうかしたのか』。」
彼の声色も、その表情も何も変わらない。緋莉は青ざめた。的確に違う『それ』に気が付いたのだ。
彼には、『怪異を斬る』という認識が消えていない。それは例え、人に憑りついている怪異だとしても同じ思考なのだ。
彼は『怪異に憑りつかれた人であっても『怪異である』というなら斬ることも躊躇わない』。
その事実がどういうことになるのか、それを察せない緋莉ではない。しかし、青ざめている緋莉を余所に、朱音は静かに話し出した。
「『怪異』であるというなら俺はそれを斬る。『それが俺のするべきことだ』。何より、奴らは人の負の感情に漬け込む……それに負け、奴らの甘言に乗ったのは本人の自業自得だ。一度堕ちた者はそこから戻って来ても『また同じことをする』……俺はそういう奴らを何度も見て来た……そうなる前に止めなければ……手遅れになる前に……」
その声色は変化がなく、どこまでも静かで淡々としていた。面の下から見えた瞳はどこか遠くを睨みつけており、『今』を見ていないように感じる。袖口を掴んでいた手が緩み、朱音はゆっくりと歩き出す。その背が遠ざかっていくのを感じながら、緋莉は考えていた。もう、朱音の思考に戸惑ってはいなかった。
きっと、朱音は今までもこうして怪異と対峙してきたのだろう。時に人を助けて、時に人であってもその首に太刀を入れて来たのだろう。
今のままでは何となくダメだと分かっている。しかし、それよりも先に緋莉は『どうするかの方法』を考えていた。
今のこの状況をどうするか。
どう、彼を説得し、『彼女』を救うか。
しばらく考え、本当にぐるぐると考えてから緋莉は表情を引き締めると顔を上げた。そして、再び朱音の背中に手を伸ばした。しかし今度、掴むのは彼の袖ではない。
「待って!!!!」
朱音の襟巻の端を緋莉は思いっきり引っ張った。強い力で引っ張られると思わなかったらしく、朱音の身体がわずかに後ろに傾くと同時に彼の面の中からくぐもった声が聞こえる。
「今度はな──────」
「それでもっ!!あの怪異『は』手遅れだったとしても……!!そうだったとしても!!」
朱音が言いかけるよりも先に緋莉は遮った。いつも以上に大きな声が出ていたが、言葉を探していた緋莉はそれに気が付かなかった。
「私は『まだ、あの怪異に憑りつかれたあの子には傷つけられてない!!』」
朱音は目を丸くした。
「な……」
「怪異も全員が全員悪いわけじゃない!なんかあったからそうなっちゃっただけで……とにかく、何が何でもこっちの都合で決めないで!!『悪いから斬る』じゃダメ!!憎いから斬る、悪人だから倒す──────それじゃ、怪異も私達も何も解決しない!!どっちも嫌な感情を残すだけ!!あなたは……っ」
息が詰まり、緋莉は一度そこで言葉を止めた。初めて出会った日。守ろうと、身体がボロボロであっても自分達を守ろうとしてくれた彼の姿を思い出して、顔をしかめた。
「これ以上、怪異も。人も。悪い方に行かないように刀を振るっているんでしょ?!」
緋莉のその言葉に朱音は何も言うことが出来なかった。ただ、目を丸くして彼女を見ていた。人に意見を言うことが久しぶりだったのか、はたまた初めてだったのか。目の前にいた少女は汗に滲んだ手を強く握りしめ、身体を強張らせていた。その相手の反応に怯えるような姿はかつての友人とは全く違っていた。
そう、『違うのだ』。
『別に。どうとも思わないよ。』
かつて、友であった国継から言われた言葉を思い出す。
『怪異に堕ちたのは向こうの自業自得だ……誰も『心を強く持て』ということは出来ない。でも、それも受け入れることは出来たはずだ。それが彼らは出来なかった……あぁなったら手遅れだよ……もう助けることは出来ない。』
そう言って、友は諦めていた。助けた所でまた人間は同じことをすることを知っていた。だが今、自分の目の前で啖呵を切った少女は、自分を襲った人間が怪異に堕ちていてもなお、『怪異も人も助けようとしている』。
人らしい傲慢さと言えば良いだろう。しかし、朱音にとってそんなことはどうでも良かった。今更気が付いたことがあったからだ。今まで気が付かず、しかし気にもしていなかったもの。
そう。朱音は気が付かなかった。
いくら目の前にいる少女が、友と同じ面影を残し、同じ術を使えようとも。
「……しゅ、朱音??」
目の前にいる人間は『友とは全くの別の人間』だということに、今まで気が付かなかった。
一方。その事実に気が付いて驚いている朱音の前で、何も言わず、ただ自分を見て固まってしまっている彼に緋莉は不安になってしまっていた。やはり気に障ってしまっただろうか、と慌てて声をかけようと彼の顔を覗き込んだその時。
バァンッ、という衝撃音が教室に響き渡った。ハッと、二人は我に返って音のした方向に顔を向けると理科室の出入り口が激しく揺れていた。ドアの窓ガラスからは人体模型や他にもここにいたと思われる怪異の群れが顔を覗いている。緋莉達の存在に気が付き、理科室の結界を破ろうとしているのだ。朱音は素早く緋莉の前に出ると、刀の鯉口を切った。
(おそらくさっきので………姿隠しの結界は大きな物音で切れる……)
「ご、ごめん……私が大きな声を出しちゃったからだよね……??」
自身の失態に焦る緋莉に「いや」と答えてから、朱音はふと後ろに立つ緋莉に目を向けた。
「……緋莉。」
「え?な、何?」
「先ほど。『怪異も全員が全員悪いモノばかりでない』と言ったな……お前は見たことがあるのか?そういう奴らを……」
静かな朱音の問いに緋莉は目を丸くした。
「─────────ううん。今のところ、見たことはないよ……」
少し考えて、そして今までのことを思い出しながら首を横に振る。緋莉が出会ってきた怪異も朱音が出会って、そして斬って来た怪異と大差はないだろう。出会う度にその血肉を求めて襲い掛かって来た。彼女が今もなおこうして生きていられたのは、クロを中心として『絵』達が守ってくれていたからだ。
しかし、それでも。と緋莉は目の前にいる朱音を見た。「でも、」と呟き、顔を上げる。
「でも、あなたみたいなヒトもいるって信じたい。」
信じる、ではなく『信じたい』
怪異で根っからの『正しいモノ』はいないのかもしれない。しかし、それでも緋莉は信じたかった。怪異が何も全て、根っからの悪だと思っていなかった。朱音のような妖がいて、少なくとも『怪異になった原因』はそれぞれ理由がある。何かを怒り、何かを恨んだ。そして、それと同じように悲しんだ。
あの少女のように────────────
朱音は緋莉のその言葉に異を唱えることはなかった。「そうか、」と短く呟いただけだった。それと同時に理科室の結界が破られ、出入り口のドアが吹き飛ばされる。飛んできたドアを朱音は刀で両断すると後ろに緋莉を隠しながら教室の奥に下がった。
怪異達が教室に流れ込み、緋莉達を取り囲んだ。この校舎の中にこれほどの多くの怪異がいたのか、と緋莉は冷や汗を流す。普通に考えれば、朱音と記鬼をもってしても全て相手出来るか分からない。ましてや、あの靄の怪異の不意打ちの攻撃もあるだろう。しかし、数の不利があっても記鬼は笑みを見せて、素早く金棒を構えて戦闘態勢になった。
それが両者の合図だった。
怪異達が記鬼の攻撃態勢に反応し、一斉に襲い掛かる。
「記鬼!!」
「分かってるよ~!任せて、あるじ!!」
緋莉の声に記鬼は金棒を持ち変え、近くにいた敵を弾き飛ばした。弾いた怪異は連なるように他の怪異も巻き込んで壁に激突する。しかし、記鬼の攻撃は重量のある金棒を振り回し、遠心力を使って相手を吹き飛ばすだけの単純戦法。動きも制限されるし、何より機動力が少ないため圧倒的に複数相手には向かない。
(やっぱり、ここは……っ)
緋莉が手を上げ、再び『絵』を呼び出そうとしたその時。緋莉の傍にいた朱音が素早く、彼女を担ぎ上げた。
「はぇ!?!」
「喋るな、舌を噛むぞ。」
彼は近くの戸棚のガラスを割り、中からフラスコを取ると襲い掛かってきた怪異達を蹴り飛ばした。倒れる怪異を踏み台にして彼らの頭上を跳躍。怪異の群れを飛び越え、理科室の扉に降り立った。その身体能力に緋莉は目を丸くしたが、慌てて我に返ると「記鬼!」と声を上げる。怪異の中にいた記鬼は小さくうなずくと、煙のように姿を消した。一度、本体の『絵』に戻ったのだ。背後から掴みかかった怪異の手は空を掻く。彼らが再び朱音に目を向けるよりも先に、緋莉達は理科室から飛び出した。クロの速さには劣るが、視界が緋莉の目の前を風のように通り過ぎて行った。自身の持つ妖気で走るスピードを上げているのだろう。
追っ手をなんとか撒いてからも、朱音は止まることはなく「緋莉」と自分が担いでいる少女に声をかけた。
「ここで、一番広い所はどこか分かるか。」
「一番広い所?な、なんで?」
「刀を振るうのに広い所の方がやりやすいと言うのもあるが……先ほど、本来の姿になった時に妖力の大半を使った。今は少し回復はしているが、長時間の『鬼化』は難しい……」
妖力が元に戻っていても、彼の本来の姿である鬼の状態を長時間維持するのが難しかった。一度鬼の姿になると次に使うには、妖気の回復をしなくてはならなくなる。
(おそらく俺の中でまだ、何かが足りないからだとは思うが……)
今の状態では靄の怪異をいつものように斬って倒すのは難しいだろう。だから、開けた場所に出て、怪異をおびき寄せ残った妖力を使って一撃で仕留めるつもりなのだ。それに気が付いた緋莉は、この校舎の構図を考えた。
薄暗くて廊下の奥などは見えにくいが、よく見渡して見るとここは外の世界。つまり、緋莉の通う高校の間取りと似ている。同じ景色を映し出す『鏡』の内側の世界だからだろうが、少なくとも道に迷うということはないだろう。緋莉はすぐさま校舎の中で朱音の言う、『一番広い場所』を考えた。
最初に思い出したのは校庭である。おそらくこの場所で一番広いのはそこだろう。
(でも、怪異の縄張りはこの『校舎の中』……外の様子を見る限り、出られる可能性は低そう……それだったらすぐに私達も出れるはずだし……)
緋莉は外であろう窓の外の景色に顔を向ける。そこには担がれた自分の姿がはっきりと反射していた。それ以上には何も映っておらず、なんの光も入っていない黒で塗りつぶされたような、ただただ不気味な虚空があっただけだった。
(室内だけで一番広い場所。屋上も校庭と同様、『外』と分類されるなら出られないはずと仮定して…………そうなると………)
全校集会とかでも使える生徒全員が入れる空間は一つしかない。
「この場所で行けそうで、一番広い場所だけど……たぶん、『体育館』だと思う!!」
校舎とは離れた場所に建てられてはいるが、体育館は生徒達が直接来れるよう、校舎を繋ぐように渡り廊下が作られている。そこから入るならば『校舎の中』と認識されると緋莉は予想した。
「この場所からは遠そうか。」
「う……そ、そうだね……」
朱音のその問いに緋莉は思わず顔をしかめる。今更ながら、体育館の場所と現在地を思い出したのだ。緋莉達のいるのは、東棟。体育館があるのはこの反対側の西棟側だ。行くには今来た道を元に戻る必要があるが、そうなると先ほどまで撒いて来た怪異達に遭遇してしまう。
朱音なら問題はないだろうが……と分かってはいるが、緋莉はどうにかして怪異に遭遇せずに体育館に向かう方法を考えていた時。「緋莉」と朱音は呟く。その声色は彼女を責めるものではなかった。
「その場所をそのまま考えていろ。」
「え?」
どういうことか、と緋莉が聞くよりも先に朱音は空いていた右手を持ちあげ、人差し指と中指を立たせた。術者とかが良く見せる『刀印』の形だと緋莉はしばらくしてから気が付くと、同時に朱音は急停止して床を滑るように立ち止まった。そして、突如。刀印の形を作っていた腕を廊下の奥に向かって振り上げた。
「─────────『解』」
朱音のその言葉に応えるように、振り上げられた刀印が『空間を裂いた』。
裂かれた空間の先には別の場所に繋がっていた。裂け目に飛び込んでから彼は緋莉を肩から下ろす。状況を理解出来ず、緋莉は目を丸くして周囲を見回してみると、白いライトに青白く照らされていた場所は体育館へ通じる渡り廊下だった。朱音が唯一使える陰陽術の一つで、自身の持つ霊力で怪異の空間を切り裂き、別の場所につなげたのだ。
この転移術式は、現代の祓い屋で使う者はいない。
「え……え!?すごい!!」
閉じられ、元の廊下に戻っていくのを見ながら緋莉は目を丸くする。しかし、驚くのもつかの間。突如、地響きが鳴ると校舎が軋んだ音を立て始めたのだ。廊下も大きく揺れ、緋莉がそれに耐えていると廊下の奥から何かが押し出されるような音が近づいて来た。
この感じを緋莉はここに来る前にも体験している。
迫り来る音の『妖気』に気が付き、朱音は素早く緋莉の前に出ると太刀を抜刀し、反りを音のする方向へ向け、地面に突き刺した。
何が来るのかを緋莉が認識するよりも先に、廊下の奥から靄の津波が押し寄せた。
「なっ!?!?」
朱音が前に向けていた刃が靄を左右に弾く。取り込まれることを防いでいるが、その勢いが強く朱音は目を細めた。踏み止まっている足が波の勢いに圧され、少しずつ下がって行く。
靄はこの場に留まった怪異達の憎悪だ。この空間から外に出ることがなく、永い間負の感情を溜めに溜め、それが一個体のように小さくまとまっているのだろう。基盤となって操っている司令塔の役割をしているのが、先ほど斬り損ねた少女に憑りついていた怪異だ。
(しかし、これほど憎悪を溜めるとは……)
「朱音!!」
「下がっていろっ」と朱音は緋莉の背後に鋭い声をかける。一瞬だけ、刀が波に押し出され、思わず舌打ちをした。この靄を全て祓うほどの妖力は今の朱音には無い。元凶の怪異は靄の向こう側にいるが、姿の認識は出来ない。
(これだけ大量の怪異を操っているのなら、近くに本体がいるはずだがっ………!)
波に耐えきれず、刀が抜ける。朱音は波に飲まれるよりも前に素早く緋莉を抱えると、靄に押し出されるように体育館のギャラリーから下へ飛び降りた。難なく着地をしてから朱音は自身の中に残っていたわずかな妖力で炎を作ると、緋莉と自分の四方に吹いた。
ギャラリーから溢れた靄は天井全体に広がり、一度そこで動きを止める。しかし、次の瞬間に靄は轟音と共に体育館全体に降り注いだ。空から落ちてくる黒に緋莉は悲鳴を上げ、顔を覆った。
地響きが治まり、緋莉が恐る恐る目を開けると、靄が緋莉達を避けるように体育館を埋め尽くしていた。周囲を見回すがどこも暗闇に覆われてしまい自分達の今、どこにいるのかすら分からなくなりそうになる。
再び手のひらから小さな炎を作り出してから、朱音は静かに呟いた。その息はわずかに荒かった。
「結界を張った……しばらくは持つだろうが……」
「───『来い、記鬼』!」
緋莉は両手を叩き、記鬼を呼び出す。召喚された記鬼は靄に向かってすぐさま金棒を振り下ろした。しかし、記鬼が叩き落したその場所は、靄の表面が少し裂けただけですぐさま修復されてしまう。
「消せるかなって思ったけど、たぶん無理そ~~!」
「一つの個体のように見えて無数の下級怪異が集まってる……おそらくどこかに本体の怪異がいるはずだ。どうにかして、この怪異を祓えればいいんだが……」
今の自分の妖気では無理だろう。妖気が回復するまで怪異側が待ってくれるとは思えない。現に先ほど作り上げたばかりの結界の炎が徐々に自分達の方へ圧されて行ってしまっている。記鬼の削除の能力で怪異と憑りつかれた少女を引き剥がせればいいが、無数にいる怪異で懐にすら入り込めない。
どうするか、と朱音が考えていると緋莉がポツリと呟いた。
「…………まだ、方法はある。」
振り返ってみると、彼女のその表情に迷いはなかった。「なに?」と朱音が聞き返そうとした時、唯一彼女の意図に気が付いた記鬼が目を丸くして振り返った。
「え、でもあるじ。それをしたら──────」
「うん。でも、全員無事に出るにはこの方法しかない………………二人とも、下がってて!私が二人の道を開く!!」
そう言うと緋莉は立ち上がった。瞳を閉じ、深く息を吸って吐き出す。内側に流れる霊力の波を感じ取ると、脳内に一つの姿を思い浮かべる。
最初に浮かべたのは満月。満天の星空。
月に照らされ、白銀に輝くその姿を思い浮かべる。
そう、緋莉は覚えている。
逆光であるにも関わらず、その瞳は全てを見通すように美しかった『それ』を覚えている。
彼が自分の前ではっきりと言った誓いを覚えている。
そして、この日。これが『龍神緋莉』の始まりの日だったことを覚えている。
朱音は後ろに立つ緋莉の霊気の流れを感じ取っていた。彼女からにじみ出る霊気は空間を揺れ動かしていた。それは先ほど記鬼を呼び出した時よりも大きく、そして川を流れる水のように激しく流れている。それは友とは大きく異なっていた。
(この『気』は……本当に彼女のなのか……?)
彼女の『気』に危機感を察知したのか、怪異達が結界を破ろうと甲高い声を上げて押し迫って来た。結界の炎が靄に呑み込まれる。我に返った朱音が素早く刀を構えたその瞬間。
目を閉じていた緋莉が両手を力強く叩き、『絵』を呼んだ。
「『我、今ここに。汝の名を呼ぶ─────────来いっ!『タツ』!!!!』」
その名と共に風が吹き荒れ、強い光が体育館を照らした。その光の眩しさに朱音は思わず腕で顔を覆う。怪異達はその光に弾き出され、散り散りに霧散した。怪異の奇声にも近い甲高い悲鳴が耳をつんざいた。
(この光は……まさか、破邪の……!?)
靄が弾かれ、空間は白く染まる。朱音はその中央に学生服を着た少女の姿を捉えた。首を獲ろうとした少女だ。生身の人間なので効果があったのは怪異のみで、女子生徒には害がなかったようだ。破邪の光が弱まると同時に「ききっ!」と緋莉は間髪入れずに声をかける。それよりも前に走り出していた記鬼は素早く金棒を構えて距離を詰めた。しかし、少女の懐に入ることはなく振り上げたのは、少女から二、三メートル以上も離れた位置だ。
いつも通りの笑みを浮かべて、記鬼は瞳をオレンジ色に輝かせた。
「─────『新しい記憶は近づく必要が無いんだよ』」
記鬼の振り上げた金棒は少女の記憶を切り落とす。切り落とされた記憶は宙に霧散していったが、それを視認出来る者は記鬼しかいない。
ズルリ、と少女が身に纏っていた靄が剥がれ落ちた。光に弱っているのか、靄は小さく弱々しく床を漂っていた。やがて靄は小さくまとまる。靄の中にはもう一人の少女がいた。おそらく彼女が本体だろう。
瞳のない目で泣いている少女に朱音はゆっくりと近づいた。
「……会いた、いよ……せんせい……どうして……」
「会いたいのか。そいつに……」
朱音の問いに少女は顔を上げた。朱音は刀を持っていた手を上げる。
しかし、それを振り下ろすことはなく、彼は袖から先ほど理科室で拝借したフラスコを取り出した。
妖気で小さな炎を作り出すと、朱音はフラスコの中に炎を入れた。周囲を淡く照らすその灯りを見て、座り込んでいた緋莉は目を丸くする。朱音は手にしていたフラスコがどういうことに使うのかは知らない。
ただ、単に『提灯に似た作りだ』と思っただけだ。
それを少女に差し出しながら朱音は静かに声をかけた。
「なら、お前がいるのはここではない……いつまでも影を追ってここにいる必要はなかったんだ。お前が、本当に会いたかった奴はもういないのだから……」
朱音は記憶に焼き付いた友の姿を思い出して、目を細める。もう、彼は死んだのだと改めて認識された気がして、どうしても哀愁に浸ってしまう。少女の怪異はその炎の入ったフラスコをゆっくりと受け取ると、ふと体育館の奥に目を向けてその方向に向かって歩き出した。彼女だけが見えている『道』が照らされているのだろう。言わば、炎を入れたフラスコは花で言ったところの鬼灯だ。
『鬼灯』とは、言わば亡者が持つ提灯であの世へ逝くための道を照らすもの。人の魂の中にある鬼火もその道しるべの役割を持っている。おそらく朱音は、彼女がもう迷うことなく、そしてしっかりと帰られるように自身の鬼火で『道標』をさらに強く照らしたのだ。
少女は何かを呟いたが、それを朱音は聞くことはなかった。
「終わった……の?」
「あぁ……怪我はなかったか──────」
刀を仕舞うと緋莉の方に向き直り、安否を確認しようとした朱音は目の前に広がったその光景に目をわずかに見開いた。
緋莉の傍には一頭の白い龍がいたのだ。
体育館を埋め尽くすほどの大きな龍が白銀の溜め髪をなびかせ、緋莉を守るように尾で彼女の周囲を囲んでいた。怪異達を一掃したのはこの白龍だろう。龍は彼女に一瞬だけ見て、怪我のないことを確認してから目を細めると姿を消した。
その『絵』から発せられる妖気の規模は、妖の中では上級に匹敵する。
「朱音……あの人は……?」
その問いに朱音は意識を元に戻すと、近くに倒れていた女子生徒を診た。気絶しているだけだと確認すると「大丈夫だ」と静かに答える。
「気を失っているだけだ。怪異の方もあの世に逝っただろう……」
「そ、そっか……」
弱々しく呟く緋莉に違和感を感じて朱音が目を向けると先ほどよりも彼女の顔色は悪く、呼吸が荒かった。ハッと、その症状に心当たりがあった朱音は我に返る。
「あか──────」
「それは……よ……かった。」
ぐらりと緋莉は突如、前に倒れる。「緋莉!!」と朱音が手を伸ばしたその時、緋莉の身体の横から手が伸び、倒れる彼女を受け止めた。癖のある黒い短髪に闇に溶け込むような黒の服装に身に纏っていた猫又の少年───クロだった。西棟にいたが異様な轟音に気が付き、緋莉達の安否を確認しに来たのだろう。
彼は眠っている緋莉を見てから小さく息を吐いた。
「……ったく、無茶しやがって。記鬼!テメェなァ……呼ばれたんだったらしっかり緋莉のこと見とけっていつも言ってんだろ!!」
「ゴメンゴメン~ていうか。クロがそれ言う?」
傍にやって来てあっけらかんと、悪びれることなく笑って記鬼は答える。そんな様子にクロは不機嫌そうに舌打ちをすると、倒れた緋莉を支えようと手を伸ばしたまま驚いた表情をしている朱音を見た。表情を特に変えることなく「大丈夫だよ」と緋莉に目を向けた。
「オレらを呼び出して『上限』……霊力切れを起こしているだけだ。オレ達はコイツの霊力から創られているからな。」
『絵』は呼び出すたびに緋莉の中にある霊力で形を作られている。彼女の霊力が彼らの肉体となり、そして妖力となる。しかし、それは妖と同じで無尽蔵というわけではなく、妖力切れを起こすのと同じように。術者も霊力切れを起こして倒れることがあった。これをクロ達は『上限』と呼んでいる。こうなると、強制的に緋莉は睡眠状態になってしまい二、三日目を覚まさなかった。
各『絵』によって、消費する霊力は様々だ。先ほど、緋莉が呼び出した『絵』は彼女の霊力を大半を使い、例えクロと記鬼を抜きにして呼び出しても霊力切れになりかけてしまう。
文字通り。あの『絵』は緋莉とって、そして龍神家にとっての『最終兵器』だった。
「あ、あぁ……そうだな……しかし、彼女があれほど霊力を持っていたとは……」
緋莉を見ながら、朱音は思わずそう答える。本心からの驚きだった。あれほどの『絵』を国継は呼び出すことは出来なかったからだ。当時の国継は、術者の少量の霊力で作られた『絵』しか呼び出すことが出来なかった。今、緋莉が呼び出せる『絵』で例えれば記鬼ぐらいしか呼び出せない。
あれほどの巨大な『絵』を見たのは、彼が死んだ日が最後だった。
「国継とは、違うのだな……奴はこれほどのものは呼べなかった。」
「そりゃそうだろ。妖と同じでそれぞれ個人差があるんだぞ?」
クロは、何を言っているんだ?と言うかのように顔をしかめた。「そうだな」と朱音は静かに答えて、目をわずかに細める。
知らず知らずのうちにその面影を緋莉と重ねていた。だが、今。ようやく『代わりなどいない』のだと実感してしまった。
彼女は彼女で。本当に彼はこの世のどこにもいないのだと。
(今更だな…………)
一方、それ以降喋ることなく黙ってしまった朱音をクロはしばらく黙って見てから、ふと、抱えていた緋莉を彼の方に押し付けた。地面に倒れそうになった緋莉を慌てて朱音は腕に抱えると、目を丸くしてクロの方を見た。クロは頭をかくと記鬼に目を向ける。退屈そうに金棒の持ち手部分に顎を乗せていた記鬼は、ようやくかというように立ち上がった。
「悪ぃが……オレらはこの後、『後処理』があっから先に帰っててくれるか?」
「え、あ……だが……」
「頼んだぜ。その状態の緋莉は何があっても起きねぇからなんかあった時に守れるのはお前さんしかいねぇ……し。オレ達、実はまだ飯を食ってねぇんだわ。」
そう言うとクロは振り返る。そして、未だに目を丸くしたままの朱音に向かってニヤリと笑った。
「また、助けられちまったからな。今日は腕を振るってやる。」
「じゃあ、また後でね~~!!朱音のアニキ~~!!」
はしゃぎながら先を行く記鬼に呆れたような顔をしてから、クロは後をついて行った。朱音は彼らの姿が校内に消えるまで、しばらく固まっていたがやがて小さく息を吐き、緋莉を抱え直すと自分が先ほど出入りに使った鏡に向かって行った。先ほどまで禍々しかった空間は静かな空気が流れ、そこにあった情念も何もなくなっていた。異界の主が消えたから、この空間を支配するモノがいないのだろう。
ふと、視界の端に動くモノを見つけて朱音はそちらに目を向けてみると、下級の怪異達がおびえたように廊下の隅に走り去っていた。先ほどの白龍の破邪の光と記鬼に剥がされ、散り散りになった時に運よく生き残った怪異だろう。
怪異を残しておけば、次第に力をつけ、あの少女の怪異のように同じことを繰り返す。朱音は経験上それを知っている。本来ならば、力の弱っている今ここで斬る必要があった。あれくらいの怪異なら妖力が少ない朱音でも簡単に斬り伏せることが出来る。
しかし、朱音はそんな怪異達をしばらく見ただけで何もすることはなかった。踵を返して、龍神邸へと足を進める。きっと、ここに来る前の自分ならば異界の主であるあの少女の怪異を倒したら、他の低級の怪異も処理していただろう。しかし、なぜだか分からないが今はそういう思考にはなれなかった。ふと、朱音は自分の腕の中で眠る緋莉に目を向ける。
悪いから斬る、憎いから殺す。悪人だから倒す。それでは何も解決しない。怪異が皆が皆、悪ではない─────────
甘い考えなのだろう。この世には善と悪しかない。それしか知らない朱音にとっては、緋莉の言葉は彼女の持つ、常識を知らない軽い理想でしかない。しかし。
『貴方のような人もいるって信じたい』
そう、真っ直ぐな目で、迷いなく答えた彼女の姿を思い浮かべた。
「俺が……『善』だと。お前は言っていたが……俺は…………」
ポツリと、何かを言いかけ朱音は開いていた口を閉じる。言いたいことが見つからず、そして何を言おうとしているのかも分からなかった。しかし、頭にかかる晴れることない霞は違和感として、朱音の中に漂い続けていた。
夜道を歩く朱音を遠くから見つめる妖がいた。背中に生やした大きな黒い翼に鴉の顔をした妖だった。着ている服装は修験者にどこか似ていた。彼は手にした鏡で彼らが異界に入り、そして祓うまでの一連の流れを見ていたのだが、彼が一番気になっていたのは朱音の腕の中で眠る少女だった。もちろん、彼女が体育館で怪異を一掃したところも見ている。だからこそ、驚きが隠せなかった。
(なんだ、あの小娘は……祓い屋でも『あんな術』を使う奴は聞いたことがない……あの小娘と『怪異狩り』にいったい何の関係が……?)
緋莉は祓い屋ではない。だからこそ、少女は彼らにとって『どういう者かも分からない不安要素』だ。白龍を召喚し、大量にいた怪異を一掃した少女の姿を思い出し、鴉天狗は顔をしかめる。あの少女が間違いなく、自分達にとって首を切り裂く鋭い刃になることを鴉天狗は自然と直感した。
とにかく、一度黒芭にこのことを伝えなければ──────
そう、鴉天狗が鏡に込められていた術を解き、その場から離れようと翼を広げた。しかし、飛び立とうとした次の瞬間。軽い衝撃が走ったかと思うと羽が思うように動かなくなった。
「─────────あ?」
鈍い痛みに気が付き、鴉天狗が右の翼を見ると、羽には一本の包丁が刺さっていた。
なんだ、これはとそれを認識するよりも先に背後から。
「『覗き見』たァ趣味が良いねェ。鴉天狗さんよ。」
いつの間にか背後に立っていたクロが、静かに微笑んだままぽつりと呟いた。「な、」と鴉天狗が声を上げるよりも前に彼は鴉天狗の口元を抑えると、右手に持っていた包丁を素早く首筋に当てて横に引いた。流れるような躊躇いのない動作だった。
一瞬で絶命した鴉天狗は、血を吹き出しながらぐしゃりという音を立てて木の上から落下した。数滴、クロの頬にかかったがクロは軽く拭うだけで特に気にすることなく木の上から降りた。黒ジャージは先ほどよりも赤黒くなっており、手にしていた包丁で何体か切り殺したことを物語っている。『後処理』でついたものだ。ふと、クロが手にしていた包丁に目を向けると、刃こぼれを起こしていた。
(切っていた時に骨に当たったか……骨はかてぇからな……)
灰に崩れる鴉天狗には見向きもすることなく、クロはため息を吐いて包丁を『収納庫』の中に仕舞った。しかし、猫耳をわずかに動かしてから、クロは顔をしかめると小さく舌打ちをして暗闇に目を向けた。
「様子を伺っているのは分かってんだよ……隠れてないで出てこい。」
「─────────あら。」
暗闇から女の妖の声がすると、その姿を現す。癖のある長い黒髪に口元を隠すように覆った布をつけている女妖は、『大将』の近くにいた妖だとクロはすぐに思い出した。
女、黒芭は笑みを浮かべた。
「気配を消しているつもりだったのだけど、気が付いていたのね?」
「へぇ~、あれで消してるつもりだったのか。下手くそだな。」
クロは鼻で笑うと、『収納庫』を展開し、先ほど使っていたものとは別のナイフを取り出すと手の中でくるりと回しながら持ち変える。
おそらくこの目の前の女の気配からして、彼女があの異界へ接続させる術式を作ったのだろう。術式に込められていたものと彼女の妖気は似ていた。妖の中には人に化けて日常生活に溶け込むモノも少なくはない。何かがきっかけで怪異に憑りつかれた少女、佐々岡にこの術のことを教えて自分達。いや、正確には『怪異狩り』がどう動くのかを観察していたという所だろうと、クロは自然と予想した。
殺気を含んだ冷たい瞳を細めて「それで?」とクロは問うた。
「最期に見たいものは見れたのか?」
「今日は『怪異狩り』だけのつもりだったけど。面白いものも見れたわ。」
黒芭は視線を横に向け、笑みを見せながら彼女はクロの問いにそう答えた。目の前でクロが殺気を出していてもその表情に焦りは見えない。クロのことなど興味ないのかどこか達観的のようで、しかし楽しげだった。
「『怪異狩り』が最近になって変わったのは貴方達のおかげなのね?今の彼はまるで無垢な子供みたい。『何色にも染まれそう』……ねぇ、貴方達は彼とどんな関係があるのかしら。」
「……それをテメェらに言う必要はねぇな。」
「あら。教えてくれてもいいじゃない?私は貴方達のこと『彼』に伝えるつもりはないのよ?」
「あ?」
目の前にいる妖の言っている言葉の意味がすぐには分からず、クロは顔をしかめた。
黒芭はそんな彼のことを少し見てから「だって、」とクスリ、と笑った。
「『ボロボロの器を無理やり動かして何とか誤魔化してる』貴方を、彼に言っても、彼は興味ないもの。」
ほとんど無意識だった。
無意識にクロは小さく息を吸い込んでいた。その言葉の意味が何なのか。『クロだけが心当たりがあった』。
クロは見開いていた目を細めて黒芭を睨みつける。黒芭は朱音がいると思われる方向を見ながら、不思議そうに口元に手を当てると楽しげに話し続けた。
「『怪異狩り』でもそうなのだけれど、貴方達をそうまでさせるのはなぜなのかしら。貴方はどうしてそうなってまで、留まり続けているの?彼も、どうしてあぁなったのかしら?何か『きっかけ』が─────────」
「なんだっていいじゃん。きみは関係ないでしょ?」
黒芭の疑問にいつの間にか背後で金棒を構えていた記鬼が興味なさそうに答えた。思考に気を取られ、気配に気が付かなかった彼女が目を丸くして振り返るよりも先に。オレンジ色の瞳のまま、記鬼は腕を振り上げた。
そこに存在していた記憶を消され、黒芭の姿が塵のように消える。
クロもハッと我に返り、周囲を見回した。先ほどまで誰かと話していた気がする……が、思い出せなかった。しかし、記鬼が目の前にいると言うことは、彼が何かを消したのだろう。しかし、記鬼の表情はどこか浮かないものだった。手にしていた金棒を一回だけ軽く振ると、金棒を形作っていた妖気を解除した。小ぶりの鉄の塊は、糸がほどけるように宙に消えていく。
「やったのか。」
「ん~~……そう思ったんだけど、分身みた~い。ま、でも『消した』から向こうは自分の分身に偵察をお願いしたっていう記憶は覚えていないと思うよ。」
「校舎に残っていた生徒達の記憶も消したか。」
「あったりまえじゃん。」
パッと、満面の笑みを浮かべて記鬼はクロの言葉にそう答える。相変わらず変わることない、愛嬌のある笑顔に好感を持つものも多いだろう。しかし、クロには目の前の小鬼が浮かべる笑顔が薄気味悪くて仕方なかった。
言うことはないがクロは頭をかき、不機嫌そうに息を吐くと「それより」と記鬼が顔を覗き込んできた。
「感謝とかないの~?一応、ぼく助けたんだけど。」
「ハァ?誰が言うかよ……テメェは『仕事』をしただけだろうが。何より今更、オレから感謝されてもなんとも思わねぇくせして何言ってんだ。」
「え~~!?……まぁ、そうだけど。」
わざとらしく驚いた顔をしてから、記鬼は表情を特に変えることなくそう呟いた。記鬼は他者から感謝をされようが、どれほど罵られようが基本的には『どうでも良いのだ』。楽観的とも違う。自身の本質、『道具』として必要な時に動き、必要な時に散れればそれで良い。きっと、死ぬことにも何の恐れもないのだろう。今みたいな『後処理』が出来れば何の問題もない。
まるで機械だ。とクロが顔をしかめると記鬼が「でもさ~」と笑みを浮かべて、クロの顔を見た。つぶらな黒い瞳を細め、記鬼は微笑を浮かべる。
「『覚えていなくて良かったね』。言われたことを覚えていたらクロ、絶対うじうじ悩むもん。あるじと同じで、ね。」
クロは目を丸くして、記鬼を見た。仮面のような表面上にしかない笑顔のまま記鬼はクロを見ている。それだけでクロは先ほどまで自分が言われていたことを察してしまった。彼が悩むことは、それほど多くないからだ。
「………………緋莉には言ってねぇだろうな。『オレのこと』。」
「言ってないよ。『教えて』って言われてないからね。でも、薄々気が付いてるんじゃない?でなければ、あんな過保護にならないでしょ。」
クロは半分、睨みつけるように記鬼を見た。しかし、それに『怖い』という感情を持つこともない記鬼は呆れたように苦笑を浮かべた。
「あるじみたいにさ。クロも何とかうまく生きなよ~……『誰にも任せられないなら』さ。」
それ以上、何も言うことなく。鼻歌を歌いながら記鬼は校舎の方へ歩いて行った。のんびりとした足取りで先を行く記鬼をクロはしばらく、何も言うことなく睨みつけていた。
クロは自分の手のひらを見る。妖との戦闘で出来た小さな傷痕が残り続いている。このような傷痕がクロには体のあちらこちらに残っている。
本来、『絵』にとって『あり得ない状態だった』
「───────────────チッ」
これだから、アイツは気に食わない。
クロはそう心の中で吐き捨て、舌打ちをした。ふと、クロは『収納庫』から一つの帽子を取り出すと、頭に被る。一応被る前に念の為に周囲の物音に聞き耳を立ててみるが、周囲には静寂や猫やらの小さな動物の音が聞こえるだけで妖特有の音は聞こえなかった。
再び小さくため息を吐いて、クロは校舎の方へ戻って行った。
〈続〉
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