第弐章『龍神邸』
久々に懐かしい夢を見た気がして、男はゆっくりと目を開けた。微かに遠くでは雷の音と雨の音が聞こえるがそれにしては寒さはなく、むしろほのかに暖かった。
そこがいつも休息地にしている神社の中ではないと気がつくのは、しばらくしてからだった。
見慣れない天井だと気がつき、男は慌てて身体を起こす。それと同時に身体中に激痛が走り、思わず顔をしかめて背中を丸めた。寝ぼけていた意識が鮮明になっていく。よく見ると身体には包帯が巻かれており、自身は布団の上に寝かされていた。周囲を見回すと障子と畳しかない簡素な和室にいた。いつも近くに置いてあった刀もない。どちらにしても、自分にとって見知らぬ場所なのは確かだった。
(ここは…………それに刀は………)
男が顔をしかめたその時。
「やぁっと起きたか。」
第三者の声が聞こえ、男は思わず構えた。部屋の入り口に寄りかかるように一人の少年姿の妖が立っていたのだ。
その妖は全体的に黒だった。ボサボサの黒い蓬髪に黒のジャージ。首には何やら首輪のような装飾品を着けている。こちらも黒色だ。唯一、彼に違う色があったのは猫のような瞳の金色だけだろう。いや、猫のようなは語弊だろうか。耳には猫の耳、腰元には二本の猫の尻尾が生えていた。男が妖だとすぐに気がつけたのは、他にもいろいろあるがその異端さがあったからだ。
(だがこいつは…………いや、まずそもそも………)
確証もない。なぜそう思ったのかも分からない。しかし、目の前の少年には自分と同じ違和感がある。
こいつは─────────?
疑問の視線に気がついたのか、猫又は腕を組み、「ふ~ん」と対して驚くわけでもなく呟くと男を見下ろした。
「スゲェな。すぐに気がついたのか?」
「…………貴様はいったい…………」
警戒を強めて男がそう問うと、猫又は頭をかきながらため息を吐いた。
「仕方ねぇけどよ、助けた奴にその目は止めてもらいてぇな。テメェをここまで運ぶの結構大変だったんだぜ?むしろ、感謝して欲しいくらいだ。」
「運んだ……だと?」
男は猫又の言葉の意味が分からず少し顔をしかめる。しかし、次第にここに来る前のことをゆっくりと思い出せた。
そうだ。自分はさっきまで鬼と対峙して───敗れたのだ。
男の中で言葉に出来ない感情が浮き上がった。倒れる前に鬼が呟いた言葉が頭の中を行き来する。冷ややかに見下ろした瞳を思い出す。居ても立ってもいられず、男は布団から出ようとした。案の定、少しでも身体を動かすと激痛が走るがそんなことはどうでもいい。
「…………オイ。軽く治療したとはいえ動くんじゃねぇよ、死ぬぞ。それに今のテメェが行っても返り討ちに遭うだけだ。」
不機嫌そうに目を細め、猫又は低い声で男を制す。しかし、男は「うるさい……っ」と殺気を込めてそれを突っぱねる。
「これ以上、被害を出すわけには行かない……ここで元凶である奴を斬らなければ………っ、」
かつての友の死を思い出す。あんなことを二度も起こしてはならない。
悪鬼は斬らなければならない。
何よりも『あの眼』を許してはならない。
「……だからって捨て身の特攻か?」
「貴様には関係ない……俺の刀を返してもらおう。」
弱々しく立ち上がってそう言う男を、猫又はしばらく見つめてから大きなため息を吐き、頭をかいた。そして、彼が少し態勢を変えたその時。
素早く男の足を払って背後に回り、抑えるとその首筋に刃を当てたのだ。
「っ………!?」
男は目を丸くし、猫又の持つ折れた刀を見る。臙脂色の柄は間違いなくあの戦闘で折れた男の刀だった。いや、それよりも。
(速い………反応出来なかった…………)
「別にオレが速いんじゃねぇよ。」
男の心の内を読んだかのように猫又の淡白な声が背後から聞こえた。殺気はない。しかし、感情もない。殺すことになんの躊躇いもない顔だった。
「テメェが反応出来なかっただけだ。怪我前のアンタならこんな動きにすぐに対応出来ただろうな……………あぁ、ここで一つ教えておくが。調べてみるとあの鬼の血には毒があった。死に至るほどのもんじゃあないが、かすり傷一つでも傷口から毒が入って、痺れて動けなくなるらしい………」
鬼との戦闘で突如、身体が思い通りに動かせなくなった時を思い出す。確かにあの時、奇襲技の殺傷力に気を取られていたが、あれはどちらかと言えば確実に相手を殺せるために使う道具に過ぎない。致命傷を与える必要がない。
「そんなわけで、ロクに動けもしねぇくせにここから出てったテメェにいったい何が出来るってんだ?」
「っ…………」
わずかに殺気を漂わせて、そう言う猫又に男は何も言えずに顔をしかめる。猫又は刃を首に少し押し付けた。彼が手を引けば、いくら鬼との一戦で刃こぼれし折れていたとしても、男の皮膚を容易に裂くことは出来るよう。
「『死にに行きたい』ってんならオレが今ここで叶えてやろうか。」
「…………………ちょっと。」
猫又の声でも男の声でもない、第三者の声が部屋の入り口から聞こえた。見てみるとそこには一人の少女がタオルを片手に抱え、引いたような顔をしながら立っていた。やや茶髪の入った黒髪を二の腕辺りまで伸ばし、前髪は邪魔にならないように髪留めで簡易的に留めていた。瞳は二重でしっかりしており、やや赤みと橙色がかかった暖かさを持っていた。男にとって少女とは初対面だが、そう思ってしまったのは彼女の持つ雰囲気だからだろうか。
「怪我人に対して何してんの……??」
引いた顔をしたまま少女が問うと、先ほどまで纏わせていた殺気を突然消して、猫又は両手を広げると、悪びれることなく口を開いた。
「怪我の度合いも知らずに動こうとしたバカに灸を据えてただけだよ。」
猫又と少女はいったい……と男が思っていると猫又の言葉に「え!?」と突如、目を丸くして少女は慌てて男の肩を掴んだ。
「ダメだよ!あんな大きな怪我してたのに!!それに今だってこんなに熱が………一応、治療して傷はある程度塞がってるけど、無理に全部治すと逆に疲れちゃうみたいだから………あ、そういえば気分は?熱以外に気持ち悪いとか、何かない?食欲はある?何か持ってこようか??」
男を布団に押し戻して少女は一気にまくし立てる。猫又はその様子を見て、顔をしかめると慌てて少女を止めた。
「オイ、アカリ。やめろ。初対面の相手に距離を詰めすぎだ。あと一気に喋るな。怪異狩りも戸惑ってるだろうが。」
ハッと少女は我に返る。案の定、男はどう反応したら良いかも分からず、目を丸くして固まっていた。慌てて少女は男から離れると恥ずかしそうに咳払いをする。
「ごめんなさい。本当にすごい大怪我だったから心配で……………」
少女は切り換えるように居ずまいを正した。育ちが良いのだろうか。その所作はあまり無駄がなかった。
「自己紹介。してなかったよね。私は『龍神緋莉』って言います。んで、そこにいる猫又が『クロ』。」
「ヒトに易々と名前を教えてんじゃねぇよ……」と猫又、クロは顔をしかめた。妖にとって『名』は命を表す。名と共に命を受ければ、例え自分の意思と裏腹だったとしても『そう動かざるを得なくなる』。男はすぐにそれに気がついたのだが、クロの言葉に不思議そうな顔をしている少女、緋莉を見たところ彼女自身はそんなことを知らないように見えた。
その姿は───────────
『名前がないと君をなんて呼んだら良いか分からないな…………そうだ、────────』
懐かしい夢を見たせいだろう。久しく見ていなかった亡き友の姿を思い出して、男は無意識に自分の額に手を当てた。クロの小言を受けていた緋莉はそれに気がつき、心配そうに男を見る。具合が悪いと思ったのだろう。
「……お前達は、いったい何者だ?」
しばらく過去の景色を見てから、男は緋莉を見る。その眼には警戒の色があった。無理はない。彼にとって、人間とは『必ず腹の内に裏があるもの』という認識が抜けていない、根本的な人間不信があった。だから、見知らぬ人間が自分を匿っているこの状況に警戒しないわけがない。
「なぜ俺を助けた。」
「自分のことを話さねェ奴に話す必要あるか?」
「クロ」と緋莉は静かに制す。クロは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。緋莉は困ったように小さく息を吐くと、ごめんなさいと小さく謝った。
「でも、そうね………しいて言うなら、あなたが『命の恩人』だからかな。前に一度、怪異から助けてくれたからそのお礼がしたくて。」
「覚えてないな……」
視線を逸らし、男は本当のことを言う。斬った怪異を一つ一つ覚えていない。覚える必要もなかったし、何よりそんな暇がなかった。斬った相手を思い、憂いたとして怪異はいつもと同じように人を襲い、喰らう。目の前の少女もそのことを分かっているのか。さして悲しそうな顔をすることなく、苦笑を浮かべてうなずいた。
「もう一つは……と言ってもさっきのと同じだけど、ただの私の自己満足よ。」
男は緋莉を見た。今度は緋莉が視線をわずかに横に向け、どこか遠くを見ていた。
「傷だらけだったあなたを見た時。確かにあのまま放っておけば面倒事に巻き込まれずに済む………でも、私には『出来ない』。あとで『こうしておけば良かった』って絶対後悔するのは分かってるから。だから『死にかけてる人を放っておく』ってことはしない。私は自分が後悔することだけは絶対にしたくない………………………じゃあ、ダメかな?」
はっきりとそう言ってから、緋莉はおそるおそると言う風に首をかしげた。男はしばらくそんな彼女を見てから目を逸らした。特に何か思ったわけではない。しかし、その瞳は過去の友の姿を、その最期をどうしても想像させ、そしてその瞳は陰を生きてきた男にとってひどく眩しい。
緋莉はとりあえず納得して貰えた、と思ったのか微笑を浮かべると立ち上がった。
「薬持ってくるね……………クロ、どこに薬置いたんだっけ??」
「爺さんの書斎の棚」とクロは短く言う。去っていく緋莉を見て、クロは頭を雑にかきながらため息を吐くと、ようやく腰を下ろした。とはいえ、男と適度な距離を保ち部屋の入り口近くに座っている。
「そういうこった。アイツはあぁ言う性分なんだよ。『放っておけない』から怪奇スポットに平気で行こうとする…………オレがいくら言ったって直しやしねェ。」
「お前はアイツの『式』……なのか。」
「オレらをあの『クソ野郎共』と一緒にすんな。」
男の言葉にクロは分かりやすく怒りを露にした。
「アイツはそんなことを思ってる奴じゃない。オレら自身もアイツをそこの道に行かせるつもりもない………オレらは言うなら『家族』だ。幼い頃から無茶ばかりするアイツを守ってる。爺さんとアイツの両親の願いでもあるからな……」
ポツリと、視線を遠くに向けてそう呟いた。
妖と人間が家族。男には信じられなかった。人と妖は言うなれば光と影。妖は人の負の感情に漬け込み、唆し、そして喰らう。
男にとって、裏返ることのない絶対的な『悪』。今も昔もその認識に間違いはない。だから、本当に普通の家族のように暮らし、会話している二人の存在が男にとって衝撃的だった。
(………『オレら』と言っていた。他にもこいつと同じ妖が……?あの人間以外の人を見ていない…………)
「アイツの親は、物心がついた頃に交通事故で亡くなった。それからはオレと爺さんがアイツの面倒を見てる。でもまぁ、爺さんは今からちょうど二年前くらいかな……その頃に。」
男の心の中を読んだかのようにクロはそう答えた。その頃に、の先は言わなかったが言わなくとも男には察しがついた。そうなれば、この家にいる『人』はあの少女だけになる。
「他の奴らも別に毎回『出て来てる訳じゃねぇ』。あのジジィならよく書斎にいるが、今日は遊びに行きたい~って外に出てるからな………ったく……」
「ずいぶんよく喋るんだな……」
「恩人に嘘を吐くつもりはねぇからな。」
その言葉に男は目をわずかに見開いてからクロに顔を向けた。今度は目線ではなく、しっかりと。気がつくと彼は殺気を止めていた。頬杖を付き、視線は一切向けていないがクロは話し続けた。
「お前さんが何者なのかはさておいて、一応礼は言っておく…………お前さんがあの時怪異を斬ってなきゃ、オレの『妹』はここにいなかったからな……『なんで助けたのか』。オレがお前さんを助けた理由ってのはそういうことだ。」
昔を思い出しながらそう言うクロを、男はしばらく黙って見てから視線を逸らした。先ほどまであった殺気と警戒はなくなっていた。クロは常に不機嫌そうな顔をしていたが、いつも怒っているというわけではない。それが癖になってしまっているだけだ。だから『自分には敵意がない』ということが男に伝わったようでクロは少し安心した。「それよりも」とクロは本題を切り出す。
「オレが気になるのは、お前さんと殺り合ってたあの鬼だ。ありゃあ、なんだ?普通の鬼にしては妖力が高すぎるだろ。」
クロは妹の平穏を願う。それゆえ、家の危機とあれば、危害が及ぶ前に対策をしなければならない。だから、男から聞き出したかったのだ。
「……あの鬼がここら辺一帯の妖を従えてる『大将』だ。」
その意図が分かっていたから、しばらく布団を見ていた男はポツリとそう言う。
あの鬼は祓い屋であろうと、妖であろうと。自分に勝負を仕掛けて来るものには真っ正面から挑んでいるのだと言う。ただの勝負ならば良い。しかし、あの鬼は命を平気で賭けてくる。『強い者』を誰よりも求め、時に自分から対峙し、そしてそれらをねじ伏せて来た。斬り合っていた時に周囲にいた妖達は彼と勝負を挑み、そして負けたモノ。そして唯一、生き延びたモノ達だ。とはいえ、従えていたボスが死に無様にも命乞いをしたモノ達なのだろうが……
「勝負に負ければ死ぬ。生き延びれば、あの虎の刺青が入った呪いを受けるってことか………そう考えるとお前さんは運が良かったな。」
「『運が良かった』だと?あの場で俺があいつを斬らなければ被害がさらに増えるんだぞ……これのどこか良いんだ。」
怒りと悔しさをわずかに滲ませ、男が再びクロを睨むとクロは特に表情を変えることなく、人差し指を顔の横でくるくると回す仕草をした。
「逆に考えてみろよ。妖でも祓い屋でも倒せなかったあの鬼と戦って唯一、お前さんは生き残って、呪いも受けることはなかった。そうなりゃ、あとは『対策を考えるだけだ』……あの大将を見るにたぶんだが、アイツ自身もあそこまで長く殺り合ったことはねぇはず……じゃなきゃ、『あんな反応はしない』。」
「そして、」とクロは一度そこで言葉を止めると人差し指を男に向けた。
「おそらく、あの鬼の手札はあれが全部だ。なんなら雑魚にはあの血の錐だって出さなかっただろうな。あの奇襲技をどうにかすれば、あの勝負は間違いなくお前さんの勝ちだ。」
クロの分析に何も言えず、男は呆気に取られていた。戦いの中でそこまで考えたことはなかったせいか、鬼の特徴にまでは気がつけなかった。戦いにおいて技術は確かに男の剣術が勝っているだろう。しかし、その他の技術には目の前の猫又が勝っていた。
(戦い慣れをしている……)
「とはいえ、あの戦いを見てるとまだ力量とか妖力自体はあの鬼が勝ってるけどな……怪我が治ったら一回、お前らの方で考え直してみた方が良いな。」
クロの言い方に男は「『お前ら』?」と顔をしかめた。男は今まで、誰かと一緒に組むことはなく一人で怪異を斬ってきた。唯一、怪異退治を一緒にしていたのは、亡くなった友だけだ。一方。男のその反応にクロは、自分が何か勘違いをしていると気付き、訝しげに顔をしかめた。
「お前さん。祓い屋じゃないのか?」
「違うが……」
「いや。だって、さっき─────」
「どうかした?」
緋莉が不思議そうな顔をしながら部屋に戻って来た。クロは一度止め、「別に」と答えて腕を組むと目を閉じた。彼女は薬の包まれた紙とお茶、そして握り飯を乗せたおぼんを持ちながら訝しげに顔をしかめ首をかしげる。どうやったって『別に』で済まされる話ではなかったとは思うが、クロはいつもこうして、何かあっても緋莉に何も話すことなく自分だけで解決しようとする。自分を心配させたくないからというのは分かっているが……
諦めて緋莉は男の横におぼんを置きながら腰を下ろした。
「何か入れておくのも良いかなって思って、おにぎり作って来たの。あ、食欲がなかったら別に食べなくて良いからね。こっちの薬は絶対飲んで。傷の治りが早くなるみたいだから。」
説明をしていると、ふと。男が緋莉を見ていることに気がついた。緋莉自身を見ているわけではなく。その後ろ。ここではない、どこか遠くを見ているようだった。緋莉は男の臙脂色の瞳を見て首をかしげる。
「どうしたの?」
「…………普通なら、追い出すべきではないかと思うのだが。」
視線を横に逸らし、男はポツリとそう言う。
「あの鬼の追手が来る可能性だってある。そうなれば、関係ないお前達にだって被害が及ぶかもしれない……こんな悠長に俺はここにいるべきではない…………」
過去を思い出し、男は顔をしかめる。自分と関わったことで死んでいく者を大勢見た……気がする。よくは覚えていない。なぜだか、分からないがその認識があった。唯一の友も自分と出会わなければ、あのような最期にならずに済んだのではと、久しぶりに男は思う。
「心配してくれてるの??」
きょとんと、緋莉は目を丸くしてそう男に問う。初めて他者の身を案じてきた男に驚いたのだ。男は何も言わなかった。元からそれほど人と語る方ではない。しかし、その事実だけでも緋莉は少しだけ、嬉しそうに目を細めてから「大丈夫」と小さく言う。
「ここには誰も来ないから心配しなくて大丈夫よ。」
「何……?」
『誰も来ない』という言葉の意味が分からず、男が顔をしかめると、緋莉は「とにかく!」と話を切り替えるように両手を合わせた。心地よくも力強い合掌の音が部屋に響く。
「あなたは怪我の治療に専念してね!!身体を拭けるタオルとお湯持ってくる!クロ。ケンカしちゃダメだからね!」
「しねーよ。あと廊下は走るな、転ぶぞ。」
足音を響かせながら緋莉は奥の方へ再び走っていった。
目の前の少女は友と同じように何かが違った。男にとって最初に言った通り、人に対しての認識は変わっていない。しかし、あのような人間を見るのはいつぶりだろうか、と考える。何かを思ったわけではないが、酷く懐かしい気配に男はしばらくそれを眺めてから、ふと。横に置かれた握り飯に目を向けた。生憎と空腹や物の味は分かりにくい体質で、さらに小食だった。『空腹になる』という感覚になったことはない。
しかし────────────
(こいつらは……)
何かを思ったわけではない。しかし、男は『似ている』と思った。それに冷静になれば、クロの言っていることも一理ある。
(あの鬼の首を斬るために……『今の俺では』勝てない……)
あの鬼を確実に斬るためには今の自分では間違いなく能力不足。もう一度力を得て、今度こそ確実にあの鬼の首を斬る。そのために今は身体を休めておいた方が良い……そう思いながら、傍に置かれていたおにぎりを一口齧った。捨てるのももったいないような気がしたからだ。
しかし、食べてから男は固まった。
なんて言ったら良いか分からず。しかし、どうしたら良いか分からなくて男が握り飯を片手に固まっていると、ふと。いつまでも同じ姿勢で固まっていた男に気が付き、クロが「どうした?」と首をかしげた。そして、男の手に持っていたおにぎりに目が行って、わずかに息を飲むと慌てて残っていた一個に手を伸ばした。
そして大きく一口食べて、その不味さに吹き出した。
「こ…………んのっ、緋莉ィ!!!!!!!テメェ、また握り飯に梅干し使ったな!?!!」
「あれ!?ダメだった!?」と遠くから緋莉の戸惑いの声が聞こえてくる。廊下から顔を出し、クロは「ダメに決まってんだろうが!!」と叫ぶ。
「だいたい、お前の作る梅干しはまっずいんだよ!!どうやったらこんなもんが出来んだ!!」
「今回はうまく出来たと思って~!!」
「うまくねェよ!!むしろ酷くなってるわ!!逆にどうやったらこんなものが出来んだよ!!オレらは慣れたくもねぇけど耐性が出来てるから多少は食える……でもな、怪異狩りを見てみろ!耐性がねぇから死んでるじゃねぇか!!好きで作るにしたって限度あるわァ!!」
「ちょっと!!そんな言い方しなくていいじゃん!!」
廊下の奥からタオルと桶を抱えた緋莉はそう抗議したが、クロは「事実だろうが!!」と突っぱねる。
結局、緋莉の作った梅干しおにぎりはクロの手によってさまざまな改変がされてお粥になった。
ようやく落ち着いてから、緋莉は入浴を済ませていつも通り。床の間にいた。雨は止んだが、そのせいか気温は一段と冷え込んで、小さく吐く息は白く宙を漂う。暖房をかければ良い話ではあるが、緋莉の住む屋敷は地味に広い。全部屋に暖房をつけて稼働していれば、どれほど電気代がかかるか分からない。両親と祖父母の遺した財産でこうして生活が出来ているとはいえ、それに甘え続けるわけにも行かない。
緋莉はいつもの日課である、床の間にある刀に向かって手を合わせてからそう、ぼんやりと考える。こうしている時は何かを考えているというわけではない。だいたい考え事をするのはその合掌を終えてからだ。
(怪異狩りさんのことはクロが付いているから大丈夫ね……それにしても、)
緋莉はふと、介抱することになった男、『怪異狩り』を思い出す。クロが家を出てから数十分後。傷だらけの彼を抱えて帰って来た。助けた理由は先ほど男に言ったことに嘘も偽りもない。それが彼女の信条だし、何よりあのまま放っておいたら下手したら彼は死んでいた。クロも『見捨てる』ということなく、進んで治療に当たった。緋莉も多少治療の心得があるとはいえ、彼を診ていたほとんどはクロだった。基本不愛想なのが傷だが、やはり彼だって怪異狩りを心配していたようだ。
怪異狩りである男は静寂を表しているようだと思う。しかし、あの目の奥は静寂とは程遠い。緋莉が男と少し会話して思ったのはまず、それだった。
(何より……)
男の臙脂色の瞳を思い出す。その雰囲気を思い出す。
あの雰囲気は───────────
(…………クロも気が付いているでしょうね……いや、やっぱりあの人に聞いてみた方が良いか……)
そう思って、緋莉は立ち上がって振り返った時。
部屋の入り口に一人、男が立っていた。
肩辺りまで伸ばした髪。少し変わった着物は確か、平安時代、貴族が来ていたとされる狩衣だろうか。どちらにしても、緋莉には全く身に覚えのない人物がそこにはいたので、緋莉は固まってしまった。この時、反射的に構えなかったのは目の前の男が緋莉が見てきたモノ達とは違って見えたからだろう。事実、緋莉がこうして男を素早く観察しても、彼は何もしてこなかった。
男は緋莉をしばらく見てから、ふと。微笑を浮かべる。その表情がどこか悲しそうなのが印象に残った。ゆっくりと霧のように姿を消した。緋莉は何もいなくなった所をしばらく見てから、廊下の奥を見た。
(今のは……いや、そもそも霊がこの家に入って来るなんて……)
龍神邸には妖や霊に効く結界が張られている。この家で『最優』である妖が最も張ったものだ。だから、ある程度の力がある妖でなければ破ることはまず、出来ないはずだ。それなのに、今。霊が入って来ているということは─────────
緋莉はしばらく、クロと怪異狩りがいる方向を見て少し考えてから屋敷内を見回ることにした。スマホのライトを付け、屋敷の戸締りを確認していく。月明かりがあるので、ライトはいらないだろうとも思ったが、やはり手元をしっかり見れる。暗い廊下の中を歩いていくと、暗闇の先に誰か人がいるような気がして、緋莉は無意識に顔を強張らせた。この家は基本、クロと緋莉とあとたまに一人いるくらいで他に人はいないはずだ。ふと、心霊スポットや怪奇事件の起こる家で、人がよく周囲を見てしまうは『何も異常もないから』というのを確認したいからなのではないか、と緋莉はそんなどうでも良いことを考える。
そこで異常に気が付いてしまった時、人は緋莉のように妖や幽霊が見えてしまうだろう。もし、今自分がしていることもただの気のせいならば、これは彼女の杞憂で終わるし仮に何かあったとしたらそこで対処すれば良い。
緋莉は妖を祓う仕事を生業とはしていない。
しかし、『自分を守るすべ』は持っている。ただ、それを使う判断が少し遅いというだけだ。
家の中を一通り見てみたが、特に物が動いていたとか窓が割られていたということはなく。緋莉は小さく息を吐いた。やっぱり気のせいだったか、と思っていたその時。
ガタンッと緋莉の背後。廊下の奥で物音がして、緋莉は肩を飛び上がらせた。振り返って見ると、暗闇の奥。そこに『何か』がいた。今度は気のせいではない。なぜならば、灯りがない暗闇から四つの赤い瞳が見えたからだ。
目は緋莉に向けられる。月明かりが彼らの姿を照らす。ボロボロの浴衣のような服に、ボサボサで手入れのされていない髪。人にとっては白い瞳は黒く変色しており、黒目の部分は血のように赤黒く、唾液の零れる口元からは鋭い牙が覗いている。額には一本の角が生えていたが、鬼ではないだろう。もう一体も見た目は同じだが、額に生えていた角は二本。
妖だ。
緋莉は身の危険を感じ、後ろに下がった。しかし、運が悪いことにすぐ後ろは行き止まり。二本角の妖はうなり声を上げ、もう一体はニヤリと嗤った。
「ニンゲンだッ……人間ダッ!!」
そう叫ぶと、二体そろって緋莉に襲い掛かった。
普段ならば聞くことのない音を捉えて、クロは目を開ける。素早く音の正体を探し、大きく舌打ちしながら跳ねるように立ち上がった。突然立ち上がったクロに男は顔をしかめた。
「どうした……?」
「ちと、遠いな……!!怪異狩り!お前さんはそこにいろ!!」
短くそう言い放ち、窓から逆上がりをするように外へ飛び出すと、屋根を上に飛び乗ってクロは走り出した。クロの言葉の意味が分からず、男は「おい!」と窓際に駆け寄ってから気が付いた。
風に流れて、先ほどまでは感じなかった気配を感じた。
妖の妖気だ。
(さっきまでは感じなかった……それに家の外側にあるこれは……もしや、結界か?屋敷を取り囲むように……いや、それよりも。)
なぜ、クロは突然飛び出していった?もし、ただ、妖が侵入してきただけならば『あんな形相』で飛び出しては行かないだろう。
男の脳裏に一人の少女が浮かんだ。
「っ、」
クロの姿は見えない。しかし、同じように嫌な予感がして、男はそばにあった狐面をつけると部屋を飛び出した。
襲い掛かってくる二体の妖に緋莉は素早く、スマホのライトを向けた。先ほどまで暗闇にいたせいもあって、鋭い光に耐えられなかったようで「ギャァッ」と悲鳴を上げながら妖達は自分の目を覆った。その隙に緋莉は妖の脇を通り、走り出す。
(ダメ元でやってみたけど、効いて良かった……!あのままだったら間違いなく死んでた!!)
しかし、ライトの目くらましの効果は一時的だったようだ。
「ニガスナ!!久しぶりノガキの肉だ!!」
「女の肉だ!!」
「足ヲ切り落トせ!!」
指を刃物のように変形させ、妖は再び緋莉に襲い掛かる。元より、足の速さは妖の方が強い。緋莉は逃げるのを止め、応戦しようと構えたその時。
「──────久しぶりの、なんの肉だって……?!」
三人の横のサッシからクロが、ガラスを蹴破り飛び込んできた。
「クロッ」と緋莉は目を丸くする。他二匹は突如入って来たクロに一瞬だけ怯んだ。その隙にクロは素早く二匹の脇を通り過ぎ、天井近くにあった欄間に何かを通してその先端を引っ張る。ロープだと気が付いてから二体の妖は自分の身体に括りつけられたロープによって、勢いよく引き上げられ、妖は天井に頭をぶつけて昏倒した。
「寝てろ、雑魚が。」
手にしていた包丁で持っていたロープの先端を留めるとそうクロは吐き捨てた。「クロッ!」と緋莉は慌ててクロの元に駆け寄ると、クロは不機嫌そうな顔を緋莉に向けた。
「逃げる前に呼べっていつも言ってんだろうが!!お前はいつになったら学習すんだよ!!あァ!!?」
「ご、ごめん……それよりもクロ、怪我は?!」
「別に──────」
ない、と言い切るよりも先にクロは緋莉の背後に目を向けた。そして何かに気が付くと、素早く彼女をガラス片の落ちていない空き部屋に突き飛ばし、手にしていた包丁を自分の目の前にかざした。緋莉が気が付くよりも先に廊下の奥、先ほどまで緋莉のいた所の背後から飛び出して来た妖の爪が振り下ろされ、甲高い音を立てながらぶつかった。
「なっ……『三体目』!?」
今度の妖は額に角はなかった。妖はクロの包丁に一瞬だけ驚いたような顔をしていたが、クロはそれを無視して素早く包丁を使って妖の手を逸らすと、空いた胴体に鋭い回し蹴りを叩き込んだ。派手に吹き飛ばされ、妖はガラスと共に庭に放り出された。
「家をめちゃくちゃにしやがって………………緋莉!お前は避難してろ!!爺さんの書斎は『ジジィの結界が強いからな』!」
そう言い放って、庭に蹴り飛ばした妖をクロは追いかける。緋莉は少しの不安を感じながらもうなずくと、書斎に向かおうとした。しかし、視界の端で何かを捉えて思わず足を止める。見てみると、先ほど床の間で見た霊が立っていた。
(あの人は…………)
霊はどこかを指差して消える。
緋莉はしばらく、書斎の方向と霊の指差した方向を交互に見る。あの霊が敵か味方かは分からない。ただ、単にあの妖の手柄を横取りしたいのかもしれない。しかし、緋莉にはどうしてもあの霊がそういうことをする人には感じなかった。何よりも『放っておいたらいけない』予感がする。それは怪異狩りと初めて出会ったあの瞬間と似ていた。
(何か……大事なことが……?)
緋莉はしばらく考えてから、意を決したように表情を引き締めると緋莉はその方向に向かって走り出した。
一方のクロは、庭に飛び出すと手にしていた包丁を妖に向かって投げつけた。寸でのところで妖は避けたが、クロは間髪入れずに手から猫特有の鋭い爪を出すと妖に振り下ろす。地面に突き刺さっていた包丁を抜き、それを駆使しながらクロと妖は相対する。妖は指を刃物ように変形させ、かまいたちのようにクロを引き裂こうとするが、その動きの単調さにクロが遅れを取ることはない。それよりも『ぬるい』。
クロは片方を包丁で弾き、もう片方の爪を回転しながら避けると、そのまま流れるように妖の肘を抑えて遠心力を使いながら妖を近くの木に投げ飛ばした。『包丁は気が付けばなくなっていた。』轟音と砂埃を上げ、妖は見えなくなる。低身長からは想像もつかない力であったが、彼は人間ではない。力だって人以上持っている。
(ジジィの体術稽古を受けといて正解だったな………それよりも、緋莉は……)
クロは耳を動かし、安否を確認しようと緋莉の足音を探す。猫の聴覚は人の倍ある。緋莉の身の危険に一早く気が付けたのだって彼の耳の良さのおかげだった。しかし、クロが捉えた緋莉の足音は彼が想像していた所とは真逆の方向だった。思わず、クロは顔をしかめる。
「ハァ?アイツ、何して──────」
家の方向を振り返ると、屋敷から新たな妖がクロに襲い掛かった。先ほど、クロが欄間に吊るした妖のうち一体目は一本角、二体目は二本角だったことを思い出す。そして先ほど投げ飛ばした妖には角がなかった。そして今いる妖の角は『三本』。
何人いんだよ、とクロは舌打ちをして再び構えた時。先ほど投げ飛ばした妖が砂煙の中から飛び出す。さすがのクロでも背後にいた妖には反応が遅れたその時。三本角の妖の横から鋭い蹴り足が叩き込まれた。クロの蹴りとは比べ物にならないほどの音を響かせ、三本角の妖は吹き飛ばされる。蹴り飛ばした人物についていた金属製の耳飾りが軽い音を立てた。
怪異狩りだ。
クロは彼がここにいる事実に驚きながらも、素早く自分の背後に立つ妖に応戦。突き出された拳を包丁で弾くと、素早く『手にしていた二本の包丁を投げつけて』距離を取った。
「なんでここに、と言いてぇところだが……助かった。」
「気にしなくて良い……それよりも俺の刀はどこにある。」
「一応、オレが持ってるが…………」
クロは怪異狩りの狐面を見る。折れた刀であの怪異を倒せるわけがないと言いたいのではない。単純に彼は怪我人だ。薬を飲んではいるが、あの鬼の毒だってまだ残っているだろう。そんな中まともに動けるはずがない。傷が開き、今度こそ死ぬかもしれない。それをクロは危惧しているのだ。
「あの雑魚に遅れは取らん……被害が出る前にここで奴を斬る。」
角無しの妖は、先ほどよりも殺気を強めて怪異狩りを睨む。クロはしばらく考えてから。
「二体、家の欄間に吊るして気を失っている奴がいる。しばらくは起きねぇだろうな……今いるのはこの角無しと三本角の奴だけだ。角無しは素早いからオレがやる。」
投げ渡された物を反射的に受け取り、怪異狩りは目を丸くする。彼の刀だった。
「……分かった。三本の怪異は俺が斬る。」
「無茶はすんなよ。」
短くそう言い、クロは角無しの妖と再び対峙した。二体とも近接戦闘のため、攻守を変えながら斬り合う姿を怪異狩りは横目に見ながら刀を抜く。憎悪にも近い殺気で表情を歪ませながら三本角の妖は彼を睨んでいた。
クロの推察通り、男の体調は戻っていなかった。しかし、目の前の怪異は妖気から見て三流。怪我をしているとはいえ、それに遅れを取るようでは彼は何年も『怪異狩り』とは恐れられていない。うなり声を上げて襲い掛かる三本角の妖の爪を折れた刀で受け止めた。三本角の妖の攻撃を受け流す。怪異にとって切り傷は無傷と同じだ。いくら刀身によって拳が切れようとも、瞬時に治癒される。男は殴られた反動を受けながらも、刀を持ち変えると今度は攻勢に出る。拳と刃のぶつかり合う音が砂埃と共に庭に響き渡った。角無しの妖に比べると三本角の妖は体格があり、力がある。
しかし、
(『あの鬼』と比べると弱い……)
男は刀を傾けて拳の軌道を逸らして態勢を崩すと、三本角の妖の足を転ばせ首筋に刀を振り下ろす。しかし、一筋縄ではいかない。妖は素早く回避し、斬撃は空を斬った。その時、肩辺りに見えた虎の入れ墨に男はわずかに顔をしかめた。この妖もあの鬼の配下だという証拠だ。殺し損ねた自分を狙ってきたのだろう。妖の拳を何とか弾き、男は距離を取った。小さく上がっている息に思わず男は舌打ちをする。
(やはり、毒が…………『気』が乱れて上手く術も使えない……まず、この毒をどうにか──────)
奴らは自分を追いかけてきた。この家の者は自分のせいで巻き込まれただけに過ぎない。
ならば、自分が守らなければ。
何者であろうと、関係ない。
斬らなければ。
『あの日』のようなことを起こさないために─────────
男がそう思っていると、背後から「怪異狩り!」とクロの声が聞こえた。背後から感じた気配に男は我に返ると素早く態勢を低くする。すると、角無しの妖が男の肩の皮膚をわずかに引き裂きながら三本角の元へ舞い降りた。
そして、突如。歪な音を立てながら妖は融合したのだ。
ぐにゃりと、肉の合わさるような不快な音を立てながら、二体の妖は混ざっていく。その光景を唖然と見ていたクロと男はしばらくしてから、あることに気が付いた。
もし、これで三本角の妖が出来ていたとしたら?家の中には二体の妖がいた。混ぜ合わせれば三本角と同じくらいの体格を持つ妖が出来よう。襲い掛かられた瞬間でしか、相手の姿を認識していなかったので、気が付かなかったがもし何体もいるのではなく、一つであったら?
二体が合わさって倍の力を持っていた。ならば、三体目が混ざれば?
「しま……!かいいが─────────!」
言い終わるよりも先に突如、距離を詰めた妖の拳が男に突き出されていた。寸での所でそれに気が付き、男は反射的に刀の柄でそれを受け止めた。しかし、その衝撃で彼は蔵まで吹き飛ばされた。爆発音と衝撃波が庭に吹き荒れる。顔を覆っていたクロは男が吹き飛ばされた方向をもう一度見たその時。鋭い爪を振り上げる妖に気が付いて身体を逸らして回避した。爪はわずかにクロの髪を切るだけに留まった。バク転をするようにクロは足で攻撃を弾きながら距離を取り、変形した妖の姿を見る。
クロの予想通り。体格は三本角のままであったが、素早さが上がっている。おそらく角無しを取り込んだからだろう。彼らは分裂していて、それぞれに能力が分けられていたということだ。
(そうなるとアレが、本来の姿ってとこか。)
「……誰が、」
分裂の妖が初めて言葉を出す。緋莉を殺そうとした時と比べると流暢な言葉だった。
「誰が、『雑魚』だと?」
「あ?」
赤黒く変色した瞳でクロを睨みつける。彼は『三流』と呼ばれるのをひどく嫌っていた。かつては『こうではなかったのだ』。
しかし、そんなことをクロが知るはずもないし、知ったところで何かを思うことはない。第一、彼にとって一番許せないのは奴が『妹』に手を出したという事実のみ。
「なんだ。事実を言われるのが嫌いなのか。」
鼻で笑ってから、クロは男が飛ばされた方向に耳を立てる。微かな息の音が聞こえてくる。
(生きてはいるな……だが、)
毒の影響ですぐには立てないだろう。一応、毒に効く予備の薬は持っている。しかし、男に渡すにしても目の前で自分に憎悪を向ける妖をどうにかしないことにはどうにもならない。
さて、どうするか……とクロは目を細めて猫の爪を出して構えた。
緋莉は廊下の先で指を差す男の後を追いかけて行くと、先ほどまで自分がいた床の間にやって来た。荒い息を何とか落ち着かせ、緋莉は床の間に立つ霊を見る。
「貴方は……それに、どうしてここに……?」
緋莉の問いに男は何も答えない。ふと、置かれていた刀に目を向けて再び悲しげな微笑を浮かべると姿を消した。
緋莉は祖父、そして両親から受け継いできた刀に目を向ける。祖父が『伝えて欲しい』と言い残した物。代々、家に引き継がれてきた物を緋莉は手に取った。いつも見ているだけだった刀は持ってみるとずっしりと重かった。
緋莉があの霊の伝えたかったことを考えていたその時。外から爆発音のような轟音が響いた。ハッと緋莉は外へ目を向ける。音の方向は家にあった蔵の方角だ。遠くには微かに金属音と共に鈍い音が鳴り響いている。
緋莉は刀を握り締めてから、その音の方角に向かって走り出した。
「雑魚が……ッ!!」
分裂の妖の拳を間一髪のところで包丁の柄で受け止め、クロは近くの木まで吹き飛ばされてクロは思わず腹に溜まっていた空気を咳き込んだ。怪異狩りとは違い、遠くまで飛ばされなかったのは庭の木や草がクッション代わりになったからだろう。
「『妖気もロクに持っていない』三下が、調子に乗りやがって!」
「短気だな……だが、雑魚はテメェも一緒だろうが。」
舌打ちをして、クロはそう悪態を吐く。再び襲い掛かる妖の拳を避け、クロは距離を取った。迫り来る拳を何とか包丁で弾いて応戦する。分裂していた妖が全て融合して強化したならば、今のクロでは勝つのは難しいだろう。
(そうなると、こいつの首を斬れるのは怪異狩りでしかないが……一か八か……!)
包丁を投げつけ、一瞬だけ怯んだ隙にクロが蔵に向かって走り出した。いくら力が強くなったとはいえ、クロの足の速さには勝てないはずだ。怯んだ隙に蔵にいる怪異狩りに解毒剤を届けようとした時、クロの耳が聞き慣れた音を拾った。十年以上聞いた足音は間違いなく、彼の『妹』のものだ。
「緋莉!?」
クロは目を丸くして、屋敷を見た。クロが目を向けた先に妖も目を向けると、屋敷の廊下を緋莉が一本の刀を持って走っていた。持っていた刀は床の間に置かれていた物だとクロにはすぐに気が付いた。
ふと、彼女は庭に立つクロに目を向ける。クロも彼女の目を見る。しばらく何か言うわけでもなく、しかし二人は何かを会話してからクロは盛大な舌打ちすると、身体を分裂の妖に向き直った。手にしていた包丁で振り下ろされる妖の爪を受け止める。
まただ、と分裂の妖はクロの手に持つ包丁を見る。分裂している状態の時は知能が低いが、本来の姿になると敵の『歪さ』に気が付いていく。
投げ飛ばされた包丁は分裂の妖の後ろ、木に突き刺さっている。彼は先ほどまで何も持っていなかったはずだ。それなのに、気が付けば彼は武器を持っている。『突然物が現れるようなことが起きている』。おそらく、何らかの妖術ではあるのだろうがクロの妖気は三流以下。そう言った妖は妖術すら使えないはず……
妖は空いていた左手を下から振り上げる。クロは直前で身体を逸らしてその攻撃を避けたが、頬にわずかに爪が当たり、鮮血が飛んだ。
嗅ぎ慣れない匂いがして、妖はわずかに目を見開いた。
クロは分裂の妖の胴を蹴り、反動を使いながら一度距離を取る。距離を取ってからクロは自分が血を流していることに気が付き、舌打ちをした。
(やっぱ、『本物』相手だと無傷じゃいかねぇか……)
「貴様ら……何者だ?」
自身の爪についた血を横目に見ながら、分裂の妖は思わずそう問う。
「あのガキは……いや、そんなことはどうでも良い。問題は『貴様』だ。貴様、本当に俺達と同じ同類──────妖なのか?」
「なんだ?墨の匂いでもしたか?」
クロは妖の爪についた自分の血を見て、鼻で笑うと手の甲で頬を拭った。
「確かにオレは妖気もそんなにねぇよ……『全体』の二割くらいしか持ってない。そう考えるとお前と同じ三下だな?」
「貴様……!」
怒りに顔を歪ませ、妖とクロは再び相対した。
瓦礫に埋まりながら、男は咳き込む。男の身体の上に乗っていたのはおそらく蔵の戸だろうが、粉々に砕けてしまっていた。寸での所で避けたとはいえ、背中を打ち付けた衝撃で上手く身体を動かせない。おそらく治りかけていた毒も回っているだろう。つけていた面は完全に割れて地面に落ちる。
遠くから聞こえる轟音に男は顔をしかめる。突如変化したあの妖をクロが倒すのは難しいだろう。機動力があるとはいえ、クロと妖では妖気の差が大きい。
(動け……動かなければ……俺が斬らなければ……)
人間のことを男はどうとも思わない。むしろ、苦手意識の方が大きい。自分の欲しか見ず、そのためならば平気で他者を殺し、時に蹴落とす人間を助けるほどの理由は男にはない。
しかし、そんな人間ばかりでないということを男は思い出す。
あの少女のように、そして友のような人間もいることを思い出す。
(だから、俺が……)
守らなければ。
優しい彼らを守らなければ。
もう二度と、理不尽によって殺されることのないように─────────
『──────、』
目の前に感じた気配に男は目を丸くする。息を吸い込んだ拍子に耳飾りが静かに音を立てた。声は聞こえなかったが、久しく感じた気配に男が戸惑っていると
「『怪異狩り』さん!!!!」
少女の鋭い声に男は顔を上げる。一本の太刀を持った緋莉が自分の方に走って来ている。
その太刀を見て、男は目を丸くした。
(あの刀は─────────)
信じられないものを見るかのように男は目を丸くして戸惑う。
緋莉の持つ刀を、男は知っていた。
しかし、なぜこんなところにあの刀がある?
考えてから、男は気が付いた。クロの持つ他の妖とは違った気配。かつての友の面影にひどく似たお節介な少女。
嗚呼─────────そうか。と男は顔をしかめる。
「『そういうことか』、国継。」
友の名を呟き、男は表情を引き締めると地面についていた手に力を込める。
妖の足止めはクロがしているが、いつまで耐えられるか分からない。一刻も早く刀を届けなければ、と緋莉が足を速めた時、後方から轟音が響いた。クロが妖と対峙している方向だ。「クロ!」と思わず緋莉が振り返ると、次の瞬間には妖が素早く緋莉の爪を振り上げていた。
突然のことに反応が出来ない。スローモーションのように迫り来る妖の爪に思わず緋莉が顔を覆ったその時。
蔵に吹き飛ばされていた男が駆けた。彼女を押しのけるように前に立つと、その手に持っていた刀を取り、鞘に刀を入れたまま腕を振り上げて妖を叩き飛ばしたのだ。
叩き飛ばされた妖は何とか態勢を整えて、男を睨む。しかし、男は。
手にしていた刀を縦に持ち直して自分の前に出すと、目を閉じて深く息を吐いた。低い姿勢と長い前髪で表情は分からない。左足を後ろに下げ、ゆっくりとした所作で男は抜刀の態勢になる。
男の呼吸と共にざわつく空気に緋莉含め、その場にいた誰もが戸惑っていた。纏う雰囲気が明らかに異質となっているのだ。人ではないその空気に圧され、妖は殺気も憎悪も忘れて変化していく男を見る。
目の前にいる男は『人間』のはずだ。
しかし、変化していく空気は明らかに人間のものとは違くて、その姿は自分を半殺しにし、なおかつ七体もいた分身体もすべて殺した……あの『大将』の姿を想像させる。
手のひらに無意識にかいた汗に妖は気が付いていなかったが、その視線の面影は分かる。
今の男はその大将によく似ているのだ。
(アレは……『なんだ?』あの姿……それにあの気は─────────)
あの男は何者だ────────────?
しかし、妖がその正体に気づくよりも先に。男は鯉口を切った。閉じていた紅い瞳を見開いたその時。
炎の一閃が妖の首を跳ね飛ばしていた。
何が起きたのか、妖はすぐには分からなかった。気が付いた時に自分は首を跳ね飛ばされていた。天地が逆さまになった視界では緋莉が驚いたように目を丸くしていた。地面に転がってから妖は事態に気が付いた。
(な……!?!?まさか、『斬られた』!??斬られた、だと!!!!?)
斬ったのはあの剣士だろう。あんな三流以下の妖力で自分を─────────
(待て、『妖力』だと?)
妖は頭だけを動かし、剣士の姿を探す。そして、その姿を見て妖は自分が感じていた『違和感』の正体に気が付いた。
男は炎を身に纏った刀を持っていた。いや、そんなことよりも。
男はゆっくりと振り返る。
その額には『二本の赤い角』が生えていた。
(あの姿は……『鬼』……?!妖気の大きさも変化している。まさか、あの刀に妖気が?刀に纏った炎は、男の妖気か!?しかし、なぜ。なぜ??!!『大将』の毒はどうした??!あの刀はなんだ。あの小娘とどう関係が……!いや、いや!!それよりも!!)
妖は能力主義だ。妖力や永く生きてきた経験によって差が生まれる。目の前の男は妖力的には三流以下だった。さっきまでは間違いなく自分の方が上だったのに、それがあっけなく覆されてしまった。一瞬のうちに、瞬きの一つで立場が逆転したのだ。
認められるか、そんな事実が、
間違いなくさっきまでは自分の方が強かったのに、自分の方が上であったのに!!!!
一歩、男が炎刀を片手に妖に歩み寄る。その冷たい殺気を纏う瞳に妖は無意識に寒気を感じた。
(いや、まだ手はある……!分身体に攻撃を全て代替わりにさせれば、俺は生きられる……!!分身体が減るが、ここで負けられない!!そうやって俺は生き残って来た!!あの鬼との戦いで生き延びられたんだ!!)
まだ崩壊していない肉体をうごめかせ、妖は何とか逃げようと算段する。あの炎刀の斬撃はそれほど遠くまで飛ばせないはずだ。一瞬のうちに自身の肉体を遠くに弾き飛ばせば、いくら本来の力を取り戻したといえ、妖気の慣れていない身体ではすぐには反応が出来ないはず─────────
そう思っていた時。「あぁ、そういえば」と男がポツリと呟いた。
「貴様は確か、分裂するんだったな。」
その言葉と共に男がわずかに目を見開いた瞬間。突如、『妖の身体が発火した』
炎に包まれ、妖の悲鳴が響き渡る。しかし、男の妖気によって作られた炎は消えることはなく、彼の身体を燃やし尽くし、灰にした。男はどうでも良いというように灰となった妖の残骸を踏みしめると、緋莉の元へやって来て。
「怪我はないか。」
そう、彼女に声をかけた。
緋莉はしばらく目を丸くしながら男を見ていた。男の炎に、その一刀の美しさに目を奪われていたのだ。いつまでも動かない緋莉に「どうした。」と男は表情こそ変わらないが、不思議そうに首をかしげる。慌てて緋莉は我に返った。
「あなた……やっぱり妖だったんだ。」
「あぁ……この姿は久しぶりだが………………怖いか?」
男のその問いに緋莉は立ち上がってから「なんで?」と言うように首をかしげた。
「助けてくれた人に『怖い』なんて感じないよ?それよりも、これで二度目だね……助けてくれてありがとう。」
笑みを浮かべ、緋莉は本心を言う。男はそんな彼女に目を丸くして、しばらく見てから思わず微笑を浮かべた。
「やはりよく似ている……」
「え?」
男の言っている意味が分からず、緋莉が目を丸くした時。近くの茂みからクロが顔を出した。妖に吹っ飛ばされたため慌てて戻ってきたようだが、事態が終わっていて驚いたように目を丸くした。
「あ?なんだ、終わったのか。」
「クロ!!だいじょう……ぶじゃない!?怪我してる!!?」
慌てて緋莉はクロの元に駆け寄った。クロは自分の頬についた傷を見て、頭をかきながらため息を吐いた。クロのその姿を見て、男は『やはり』と確信を持つ。男が手に握っていた刀に目を向けていると、心配してくる緋莉を無視してクロが男に声をかけた。
「こんなもの大丈夫だよ……それよりも、怪異狩りのことだ。お前さん、その刀とどんな関わりがある。」
男は刀からクロに目を向けた。
「その刀に入っている妖気は『お前さんのものだ』……なんで、お前が……」
「『この太刀は俺のものだ。』」
静かに男はそう告げる。クロと緋莉は同時に息を飲み、目を丸くした。たったそれだけだった。しかし、二人にしてみればそれだけで十分なほどだった。きっと、この家に暮らしている『他のモノ』達もそう思うだろう。だからこそ、二人はその意味が分かり、驚きが隠せないでいた。
「分かっての通り、俺は妖だ……悪鬼が常に人と隣合わせにいた魔都、『平安時代から生き続けている』。この刀はその頃、友と共に怪異退治をしていた時に使っていた『最初の刀』だ……友が死んだ日。京に置いて行ったものだったのだが……」
「じゃあ……あなたが……」
緋莉は小さな声でポツリとそう呟く。昔、祖父に言われていた言葉を思い出す。
『緋莉、もし、この刀の本当の持ち主に会うことになったら─────────』
この人が────────────
クロは彼女のその瞳を見て、何も言わなかった。緋莉の言葉に男は「あぁ」とうなずくと顔を上げた。その額には気が付けば鬼の角はなくなっていた。
「俺の友も『お前と同じ術』を使っていた……今みたいに『墨の匂いがしていた』」
緋莉は息を吸い込み、しばらく黙っていた。やがて小さく息を吐き出し。
「──────よしっ、とりあえず!!怪我を治しながら状況を整理しましょう!」
両手を合わせてそう、切り出した。
「ハ?…………いや、ちょっと……待て待て!!緋莉!!オレは大丈夫だって!!」
ジャージの端を握り締め、緋莉はクロが逃げないようにしながら「ダメ!!」と一喝する。
「ただでさえ、直りにくいんだから消毒をしないと化膿するでしょ!?」
「消毒はやめろ!!沁みる!!お前、本当、相変わらず心配症だな!?誰に似たんだよ!!」
「あなたです!!」
抵抗するクロを何とか抑えながら家に戻っていた緋莉はふと、庭に立っていた男に目を向けた。
「一応、あなたも来て。傷が開いてないか見るから、あと毒の状態とか。」
「俺は……」
心配ない、と言いかけて男は口を閉ざす。身体にあった毒の気配はなく、本来の姿を取り戻したことで傷もない。しかし、その言葉は言うことなく、やがて「分かった」とうなずいた。緋莉は微笑を浮かべてからふと、思い至ったようにもう一度振り返ると、首をかしげて男に問うた。
「そういえば、あなたの名前。聞いてなかった……なんて言うの?」
男は彼女のその姿を見て、やがて刀を鞘に戻して。
「そうだな。シュオン……『朱音』と呼んでくれ。かつて、唯一の友から貰った名だ。」
そう、目の前に立つ友の面影を残した少女にそう言った。
〈続〉
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