第40話:武霊学院の最底辺
日々は静かに流れていく。
あの一件以来、学院は改めて敷地と周辺の土地を調査しなおすことになった。
騎士隊と赤服の生徒たちは日々、教官たちと共に未開拓の遺跡がないか動き回っている。
エンティはアリスよりも一足早く回復。
休んでいる間に溜まりに溜まった仕事に追われ、アリスの補佐もないため多忙を極めているらしい。
夜になるとフラクの下を訪れては「構え」と猫のようにすり寄ってくるのが最近の習慣になっていた。
ちなみに、剝界とアリスによって吹き飛ばされた部屋の修繕も終わり、フラクはアリスの部屋から移り……ということはなく、エンティの強い……強すぎる希望で、彼女の部屋で寝泊まりしていた。
ベスティリス辺りは、久しぶりにフラクの世話が焼けるということで妙に張り切っていた。
そして今日も、フラクは部屋で
「お兄様は、わたしのこと、嫌いになりましたか?」
などと、不安そうな表情で見上げてくる妹を前に、邪険に扱うことなどできるはずもなく、いままでの時間を埋めるように彼女との時間を過ごしていた。
「お兄様の等級試験辺りから少し記憶が曖昧なんです……でも、お兄様と剣を交えたことは、ハッキリと覚えています」
あの時のエンティの心の内にあった暗い感情は、本物だった。憧れていた存在が堕落し、強い憎しみに似た感情を持ったこと……一向に改善の兆しの見えない兄に憤りを覚えていたこと……
それ以上に、兄が自分の傍にいてくれないことに、強い寂しさを覚えていたこと。
「不落お姉さまも戻ってきて……これから、お兄様はどうするつもりなんですか?」
この問いに、フラクは「さぁな」と曖昧に返事で応じた。
まだ、自分の行く先はハッキリとしていない。
これまでは、姉に躰を返すことだけを目的に行動していたが、そのことを戻ってきた姉に徹底的に非難され、最後には泣かれてしまった。
「では、いずれお母さまと会ってみてはいかがですか? きっと、お兄様に会いたがってると思いますし、将来に悩んでいるなら、相談に乗ってくれると思うから」
それも、いいかもしれない。
不落を失ってから、母とはまともに言葉を交わした記憶はない。
こうなってしまった以上、事の顛末を知らせるために、一度はリブフィーネ家を訪れるべきだろう。
それに、フラクは父親とも向き合わねばならない。
「いつか、な」
とはいえ、今はあの激動を生き延びた日常を謳歌しよう。失われた妹との時間を取り戻すためにも。
「それでは、お兄様、一緒にお風呂に入りましょう」
「断る」
「頑張ってる妹を労ってもいいんじゃないですか?」
「お前に羞恥心はないのか?」
「お兄様相手にそんなものありません。髪、洗ってください。小さいころみたいに。お兄様にしてもらうの、好きだったんです」
「……はあ……分かった」
あの戦い依頼、妹に相当甘くなった
『『それならわたしたちも一緒にメンテナンスしてもらおうかな(かしら)』』
そして、世話を焼くのが妹だけで終わらないこともまた、日常の一部になっていた。
・・・
一ヶ月ほどが経ち、ようやくアリスが医務室から解放された。
怪我から回復したという報せを受け、彼女を慕う生徒たいちによって盛大に祝いの席が用意された。
学院の聖徒会役員が一気に不在という事態に陥った不安を、宴を開くことで解消したい思いが生徒の中にあったのかもしれない。
盛り上がりも落ち着いたころ、アリスはフラクを自分の部屋に呼び出した。ティアーはベスティリスと共に、宴の後片付けの最中だ。
つまり、今はこの場に二人きり。
心地よい疲労感に包まれながら、アリスはベッドに腰掛け、隣のフラクに声を掛ける。
「ずっとわたくしの
フラクは日中、時間を見つけてはアリスの下を訪れ、落ちてしまった身体機能の回復を手伝っていた。
なにせ、彼女は胸、腹、手足を貫かれ、下手をすればまともに歩くことさえできなくなると言われてさえいたのだ。
しかし、アリスは強靭な精神で辛い医務室での生活に耐え、今では今では普通に歩けるまでに回復していた。
とはいえ、彼女はまだ病み上がりで全盛期と比べればまだまだ全快とは言えない。
それでも、
「あなたには、本当に感謝しているのです。命がけで助けていただいただけでなく、弱音を吐きそうになっていたわたくしに寄り添って、ずっと励ましていただきました」
アリスは純粋な好意をフラクに向けてくる。
少し前まで、顔を合わせれば憎まれ口を叩いて来た彼女が、今では自然と笑みを浮かべ、素直に想いを口にする。
「やはり、わたくしはあなたのことが好きです……心の底からお慕いしております」
ずっと、心の内で葛藤していた。
フラクが好きという気持ちと、フラクが変わってしまったことに対する戸惑い不安。
カノジョはそのうちに秘めた切実な思い……姉に躰を返すという願いに触れて、アリスはようやく想いを伝える決意した。
それは、フラクという存在をこの世界に留めておくために。
カノジョには、ここにいていい理由があり、生きていてほしいひとが傍にいるのだと、知ってほしかった。
しかし、それももう必要ない。
フラクの下には姉が戻り、その表情も前よりかなり柔らかくなった。
進級や不落という新たな神剣について今後どう扱っていくのか。
課題はまだまだ残っているが、きっと大丈夫。
フラクはもう、独りではないのだから。
「フラク……こちらに」
すると、彼女はフラクの首に腕を回し、顔を近づける。
「もう、あなたをこの世に引き留めるために、わたくしという口実は必要ないのでしょう……それでも、わたくしの
あまりにも熱く濡れた瞳を前に、フラクは思わず時を忘れ、幼馴染に見入ってしまう。
アリスは、それを好機とばかりに、唇を重ねる。
目を見開くフラクを前に、アリスは抱擁を交わし、より想い人との繋がりを深めていく。
「あなたのせいですわ……あなたが、必死に……あんな風にかっこよく、わたくしたちを助けたりするから」
珍しく強い動揺を示すフラクを、アリスは勢いのままベッドに押し倒した。
「逞しい殿方としてのあなたも大好きですが、今のその可憐な姿も、愛おしいと思っていますのよ」
アリスが制服の胸元を緩める。前回の戦いでついた傷跡が、まだうっすらと残っていた。
「抵抗なさらないなら……今宵は……あなたとひとつに」
アリスは再び、フラクに覆いかぶさって唇を塞ぐ。
お互いの熱い吐息を交換し、それぞれに触れ合いを甘受する。
二つの影は生まれたままの姿で重なり、その日の夜、秘かに結ばれた。
傍らに、カタカタと震える二振りの剣があることに気付かぬまま。
・・・
フラク・レムナスという名の一人がいた。
武霊学院において、その名を知らぬものはいない問題児。
しかし、カノジョは学院最強の称号を持つ聖徒会長に懐かれ気に入られ、副会長と恋仲という噂が広まった。
いずれもその真偽は定かではなく、ただの面白半分に垂れ流される
ありえない。なにせカノジョは、学院始まって以来の最底辺。
きっとこの話もどこかの誰かが話を盛り上げようと適当に出まかせを口にしたに過ぎない。
しかし、カノジョには神剣と契約しているという話が広く伝えられ……あの焔皇姫に土をつけ、学院最強の聖徒会長とも互角以上に戦った、というのだ。
まったくもって、あの生徒につていの話題は本当に尽きない。
果たして出回る噂は嘘か真か。
その事実を知る者はごく一部。
カノジョは今日も黒い制服に袖を通し、好奇の目も気にせず学院を闊歩する。
謎多き、武霊学院の最底辺。
カノジョは今日も、ほんの少しだけ厄介なことに巻き込まれながら、腰に佩いた二本の愛剣を振るっている――
―了―
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