第35話:最恐の進化
黒い泥に呑まれた直後に感じたのは強烈な痛みだった。
しかしフラクが実際に負傷したわけではない。
いわゆる幻肢痛のようなもの。
泥はフラクを犯そうとその躰に侵入してこようとしている。
皮膚の下をまるで蟲が這い回るかのような不快感に襲われた。
全身を掻き毟って中にいるものを掻き出したい衝動に駆られる。
まるで火で炙られるように全身が熱い。
あまりにも強烈な頭痛に襲われる。頭が内側から万力でこじ開けられそうだ。
それと同時に、フラクは自分のモノではない誰かの過去を網膜の奥に無理やり投影される。
それはいくつもの記憶がバラバラに混在するような無秩序で混沌としたものだった。
しかし一貫してカノジョが見つめる感情は怨嗟にまみれていた。
悪意の坩堝。まるで溶鉱炉の中でドロドロに溶かされぐちゃぐちゃにかき混ぜられたかのような、ひとの集合意識。
フラクの肉体は大部分をナノマシンによって補っており、脳機能の一部にまで浸食している。
それ故に、ナノマシン同士が接続されたことで
痛い、やめて、痛い、やめて、痛い、やめて――いや、いやいやいやいやイヤイヤイヤイヤっっっ!!
頭に入り込んでくる声は全て全身を苛む苦痛に悶え、呻き、嗚咽し、叫び、赦しを請う。
助けて、お願い、助けて、お願い、助けて、お願い――
フラクの意識が泥に溶かされる。内部に侵入した汚泥はその躰を溶かし……
――ふざ、けるな。
「がはっ――」
しかし、フラクは自分の中にある異物を血と共に吐き出す。
どす黒い血……
フラクは騎士団から譲り受けた聖霊結晶を一つ握り、泥の流れが収束する地点を感覚で捉えて拳ごと結晶を叩きつけた。
――ドポンッ、と音が弾けて躰が投げ出される。
「げほっ、げほっ……っ!」
投げ出された躰を起こして咳き込んだ。
「おおっ、ビックリです。まさかあれだけぐちゃぐちゃに浸食されて無事に抜け出してくるなんて。さすがは神剣の使い手ですね……まあ、せっかく呼んだのにあの程度で壊れたんじゃつまらないですか」
頭上から声がした。
顔を上げた先。フラクが立つのは先程までいた部屋とは全く趣の異なる部屋だった。
見上げる天井はかすむほどに高く、鏡のように光沢を放つ床、壁に沿うようにして無数の
まるで脈動するように部屋全体の
そんな中、最奥に設えてある無機質な
だが、フラクの瞳はカノジョデではなく、その奥に見えた二人の少女を真っ先に捉える。
「アリス!! エンティ!!」
二人は衣服を剥ぎ取られ、黒い泥から生じた無数の触手に全身を絡め取られ、さながら磔のように部屋の奥に晒されていた。
触手からは血管のようなものが伸びて、二人の白い肌に食い込むかのように浸食している。
意識がないのか、ぐったりして身じろぎ一つしない。
触手の浸食がとりわけ酷いのがエンティだ。白かった肌の半分以上に黒い血管が走り、吐息を吐き出す度に苦しそうに悶えている。
そして、アリスは……
「っ――!!!」
エンティとは違い、触手からの浸食はそこまでではない。
しかし、まるでその代わりを言わんばかりに、彼女の腕、肩、脚、腹部には細い触手が突き刺さり、鮮血でその身を染めていた。
フラクは今にも飛び出してしまいそうになる自分をどうにか諫め、剣の柄が軋みを上げるほどに握りしめてヴァイオレットを睨みつける。
「はは、二人とも綺麗でしょ? 約束通り、君が来るまではほとんど手出ししてないよ……まあ、副会長はちょっとおいたが過ぎたから、罰としてその血を絞らせてもらったけどね。ふふ、すごいよねえ、並の女の子なら発狂しそうなものだけど、悲鳴ひとつあげなかったんだよ、彼女」
まるで慈しむように、ヴァイオレットはアリスの頬に手を添えた。
「振り返るのも気が遠くなりそうな太古の芸術家たちってね、この世で最も美しいひとの姿は裸だと信じてたんだって……うん、その考えは本当に正しいよね。だってほら、今の二人を観てよ」
ヴァイオレットの手が二人の肌を滑る。
顔、首、肩、鎖骨、乳房、腰、臀部、太もも……
「ああ……こうして、なにも言わない彫像みたいに、永遠に黙ってくれていたらいいのに……そうしたら、この二人は『ひとの醜い願い』に犯されることなく、美しい姿を保つことができるのに……ねえ、そうは思わない?」
振り返ったヴァイオレットは、感情の読めない仄暗い瞳をフラクに向けくる。
「お前は、誰だ?」
「なにを言ってるの? 私は聖徒会の書記で、巨人と人間の混血……おっとりしててなよなよしてて、バカみたいに大きな剣を力任せに振り回すだけが取り柄の、ヴァイオレット・バルバスよ」
「なら、そんなお前はなんの目的があってこんなことをする?」
務めて冷静に、フラクは問いを投げかける。
ここで感情的になって動いてしまえば、後ろにいる二人にあのオンナが余計に危害を加える可能性がある。
「目的? う~んそうだな~……なんていうか……」
有体に言って、とカノジョは前置きし、
「復讐?」
などと口にした。
「復讐? 誰に?」
「人間」
「なに?」
「だから、人間ですよ、人間。あなたとか、会長とか副会長とか、学院とか都市とか国とかいろんなところにいる人間、全部」
あまりにも規模の大きな発言にフラクは思わず眉根を寄せる。
カノジョは確かに巨人族の血を継いでいる。
世界には人間以外の種族を嫌悪する文化や宗教が存在していることも確かだ。
しかしカノジョの出身地やこの学院内ではそういった差別意識はかなり小さい。
果たして、カノジョはどこで人間全体を恨むに至ったのか。
「知ってますか? 亜人種って、元々はこの世に存在しなかったって」
「……どういう意味だ?」
「察しが悪いですね。亜人は、太古の人間どもが、自分たちの都合のいいように遺伝子を改造して生み出した、人工生命なんですよ」
フラクは目を見開く。
「亜人が、人口生命体?」
「そうです」
それは、魔剣が生み出される前の話……
ひとは遺伝子操作で免疫を強化しようと考えた。
しかしどれだけ研究を続けても、今の人類のDNAではどれだけ手を加えても理想的な肉体は生み出せなかった。
そこで、ひとは他の生物を人間の遺伝子を掛け合わせ、新たな命を創造した。
それが、亜人……
ヴァイオレットに流れる巨人族や、その他の亜人族の原典。
「かつての人間は多様な亜人を生み出しました……獣人を作り、魚人を作り、鳥人を作り、巨人を作り、魔人を生み出した……彼らは脆弱なひとの遺伝子を克服し、外界での活動が可能な成功例でした……しかし、できたばかりの亜人には遺伝的な欠陥が多く、知能が極端に低かったり、生物的な本能が強すぎたり、短命だったり……命として、彼らはあまりにも不出来すぎました」
結果、亜人はその人権を認められることはなく、家畜と同じような扱いを受けるようになってしまった。
果てに、
「とはいえ、亜人は並の人間とは比べ物にならないほど強靭な肉体を持っていました……そうするとどうです? 人間は私たちの祖先を、実験動物として使い始めた」
劇薬の非検体、殺傷兵器の的、好事家に奴隷として飼われ、壊され犯され甚振られ、使い潰されて廃棄される。
「当然、亜人の多くは人体強化の実験のために改造されたナノマシンを投与され、呪形者になった」
同族が次々と息絶え、異形のバケモノへと変貌していく様を見せつけられ、次は自分がああなるのかと彼らは喉を裂くほど恐怖で叫んだ。
「そして、ひとは己の過ちの果てに、最後まで亜人を使って、魔剣を生み出した」
フラクに知識があるかどうかなど知ったことではないと、ヴァイオレットはつらつらと太古の文明で起きた出来事を、まるで
「とても苦しかった……あなたも黒い泥の中で見たのでしょう? 助けを求め赦しを請い、それでも躰を弄ばれる亜人の怨嗟を」
ヴァイオレットは瞳から涙をあふれさせ、まるで自分が痛みに堪えるようにその身を抱いた。
「あとから作られた神剣や聖剣なんか比べ物にならない! 魔剣にされた『あの子』は躰に無理やりナノマシンを投与され、生きたまま肉を溶かされて別のモノに作り替えらた……全身に激痛が走っても、穴という穴から血を噴き出しても、苦しみもがいて悲鳴を上げて命乞いをして『やめて』と叫んでも!! 連中はまるで地面に転がる石クズでも見下ろすように、淡々と結果だけを追い掛けた!!!」
ひとの願い、強い肉体を手に入れたい。
ひとの願い、強い力が欲しい。
ぐずぐずに溶けてもはや形を成さないソレは
――ああ、そんなに強い肉体が欲しいなら、そんなに強い力が欲しいなら。
叶えてあげよう、その願いを。
魔剣は暴走した。
呪形者のナノマシンに干渉し、変異触媒を自己増殖できるプログラムを組み上げ、ばら撒いた。
さぁ、これでお前たちの望みは叶う。
ひとの脆弱な肉体は呪形者となって強靭に、力は何倍にもなってあまねく命を蹂躙できる。
どうだ、これがお前たちが望んだ結果だろう?
こうなりたくてワタシを作ったんだろう?
傾聴しろ、これがお前たちへ送る福音だ。新たなる生命の進化、誕生を祝福しよう!!
「このまま、人間どもは自分たちの望みで全て消えるはずだった……なのに、なのになのになのになのになのに!!!」
オマエたちが生まれた。
「――神剣!!!! 呪形者を切り、
直後、ヴァイオレットから黒い瘴気が溢れ、部屋の空気が文字通り震えた。
「せっかく会長を魔剣で洗脳操作してあなたを騎士隊に入隊させておびき出そうと思ったのに、予定がもう全然あわなくて発狂しそうでしたよ」
以前、レアが呪形者の発見に失敗した。
しかし実際は、魔剣の力で野生の狼を無理やり呪形者に変貌させ、襲わせた。
「あれであの騎士隊の女が重症になれば、治療のために総長補佐と護衛に副会長がついて学院へ戻ったでしょう。あなたの行動の癖は把握していました。きっと襲撃した呪形者を一人で追ってくると踏んでいたのに……」
しかし、実際はフラクが呪形者を撃退したことで負傷者が出ることはなかった。
「仕方なく私が出て行くしかありませんでした。会長を遺跡に誘導してあなたたちに目撃させる……まぁそれで結果的に厄介そうな連中をまとめて葬れればと思いましたからそこまでは許せたんですよ」
でも、
「あと一歩のところで、副会長に邪魔されちゃいました。せっかく全部うまくいきそうだったのに……」
ヴァイオレットの昏い瞳がグリンとアリスへ向いた。
「だから、餌になるついでにちょっとだけ壊してみたんですよ。まあ、あれでもまだ生きてはいますけど」
カノジョはフラクに向き直り、歪に口角を持ち上げた。
「本当はさっさと殺して呪形者にしちゃおうかとも思ったんですけど……副会長、思ったより気丈なひとで……ああ、いいこと思いついた、って閃いたんです」
――彼女のだ~い好きなフラク・レムナスを、目の前で徹底的に犯して壊して殺して、最後に醜いバケモノに変えてやったら……
「あの気丈で、自分の痛みにはどこまでも耐えた副会長が、どんな顔をするのか楽しみだと思いませんか? だから、変に触って壊さないよう、丁寧に扱ってあげたんですよ?」
「…………」
言葉がなかった。
狂っているとしか言いようのないヴァイオレットの言動。
しかし何故だか、それはどこまで純粋で、無垢な子供が善悪という概念に触れないまま大きくなったような印象を受けた。
「はぁ……色々と喋って疲れちゃいました。頭の運動はこれくらいにして、次は躰をつかって遊びましょうか……」
すると、カノジョは歩きながら自分の制服に手を掛け、
「ひとは強さを望んだ」
上着を脱ぎ、シャツも剥ぎ取り、スカートが地面に落ちる。
「ひとは永遠を渇望した」
下着を引き千切り、靴も脱ぎ捨てる。
「ひとは秩序を制御しようとした」
三つ編みにまとめていた髪留めを捨て、カノジョの長い髪が翻る。
「ひとの欲望に果てはなく、理想を求めて他者から奪う」
ヴァイオレットの足元に黒い泥が溢れ、黒い剣がその姿を現した。
「願いは渇き……故に求める、貪欲に」
裸身を晒したヴァイオレットの躰に、剣からドロドロと流れ出る黒い泥がまとわりつく。
カノジョの肌を這い回る泥は、ヴァイオレットの頭上でベールような形に固定された。
それは、まるでこの場に相応しくない、黒い花嫁のようで、はたまた……女神のようにフラクには映った。
「「ひとの願いは自他の破滅……ユエに、ワタシがソレをカナエテあげル」」
カノジョの声が、二重に響いた。
「「サあ、サイコウのネガい/ジメツをハジメよう」」
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