第15話:君が生きる意味は……
場は静寂に包まれた。
アリスは口を閉ざし、エンティは無表情にこちらを見つめる。
……これでいい。
フラクは二人の顔を見てはいなかった……見れなかった。彼女たちはなにを思っているのだろう。呆れているのか、あるいは改めて、フラクに失望したのかもしれない。
エンティはその場を立つと「外に出てきます。あの神霊のことも気になりますし」と、医務室を後にした。
ティアーは黙して主人の後ろに控えていたが、アリスから「席を外してちょうだい」と命じられ、外へ出ていく。
二人きりになった空間。フラクはアリスを見やり……だが、顔は下を向いたまま、表情を窺うことができない。
しばし無言の時が流れ、重たい空気が居座った。
「フラク……今の話は、どこまで本気ですの?」
「……全てだ。俺はこの躰、肉の一片から髪の毛先、血の一滴に至るまで、全てを姉さんに返す。そのためなら、俺は魂さえも捧げる。だから
アリスの問い掛けに、フラクはまるで自分に言い含めるかのように応じた。カノジョの答えに、アリスの手がスカートの裾を握る。
「……ざけています」
すると、絞り出すようにアリスは声を出した。握られた拳が、かすかに震えているのが分かる。
直後、アリスはベッドへ半身を乗り出してきた。覆いかぶさるように見下ろしてく彼女の表情に、フラクは思わず言葉を失う。
下唇を噛み、瞳からあふれた雫が、フラクの頬を濡らした。
「アリ、ス」
「ぶざけないでください!」
彼女の声は、泣き出す手前の幼子のようだった。
「なんですか? お姉さまに、躰を返す? 魂さえも捧げる? そのようなこと、本気で仰っているのですか?」
「そうだ」
「なぜ……」
「俺はあの戦いで敗けた……死んだんだ。なのに、俺は姉さんの躰を奪って、のうのうと生きている。姉さんの存在はこの世界に唯一無二のモノだった……俺なんかとは比べ物にならないくらいに!」
アリスの問い掛けに、フラクは徐々に語気が強くなる。
「守らなきゃいけなかった! なのに俺は守られた! 助けられた!!」
アリスを押し退け、強引に躰を起こし、フラクは声を張り上げた。堰き止めていた感情が、爆発しているかようだ。
「俺は奪ってしまった……姉さんと、姉さんが守ったかもしれない誰かの未来を!」
呪形者の脅威は衰えることなく、人々の安息を蝕み破壊する。
不落は優れた神霊だった。力も、人格も……フラクにとって、カノジョは庇護者の理想形。
自分ではない、優れた使い手がカノジョを手にしたなら、『
もしも、もしも、もしも……
――自分さえ、いなければ。
「姉さんの将来と……姉さんが守るはずだったひとたちの未来を、これ以上、犠牲にはできない……だから――俺は、消えなくちゃいけないんだ!」
一刻も早く。まだ間に合う。自分の中で、不落の気配は死んでいない。
自分という不純物さえ取り除けば、姉は躰と力を取り戻し、神剣も復活するはず。
フラクは、そう信じ続けて、今日まで生きてきたのだ。
「なぜ……」
しかし、アリスは、なぜ、と繰り返した。
「なぜなのです……っ!」
綺麗な顔を歪ませて、アリスは手を振りかぶり……力なく下ろした。すると、彼女は衝動的にフラクへ抱き着いた。
「なぜ、あなたが生きていてはダメなのですか!?」
想い続けてきた相手が心に抱えた傷と闇。
いや、自分は知っていたはずだ。
フラクがどれだけ姉を慕い、その存在が失われたことに絶望したか。
決死の覚悟を胸に獣王と戦い、一時は命潰え、生還した。
そんな彼を、周囲は冷たく糾弾した。
あの光景を、アリスは見ていた、聞いていた、覚えている。
幼いフラクに浴びせられる罵詈雑言、誹謗の数々……
いったいどれだけ心をすり減らしただろう。どれだけ自責の念を積み上げただろう。
彼を擁護する声に対し、非難する言葉はあまりにも大きすぎた。
……それなのに、ああ。
なんと、自分は愚かだったのか。
浮かれていたのだ。フラクが学院に入学し、同じ学び舎で研鑽を積めることに心躍らせた。
しかしカノジョはアリスの期待とは裏腹に、最底辺でくすぶり続けた。
違う。そんなはずはない。フラクは自分が知る、最強の武霊契約者だ。そこにいるのは何かの間違い。早く自分の隣に来て、共に……
「ごめんなさい」
自分のことしか見ていなかった。カノジョを挑発し続けていれば、悔しさですぐに這い上がってくると思っていた。
「ごめんなさい、フラク」
だが、そうじゃなかった。自分がすべきだったのは――
「わたくしは、あなたに生きていてほしい。消えて欲しくない」
フラク・レムナスに寄り添い、肯定することだったのだ。
過去の彼と、今のカノジョと、自分の心を。
「アリス。俺は……っ」
「好き、ですわ」
「っ――」
濡れた様な響きだった。鼓膜に届いた幼馴染の声は、これまで聞いていたどの音とも違っていて。
「アリ、ス?」
「もっと、早く言えばよかった……いいえ、言わなければならなったのです」
彼女はフラクから身を離し、それでも吐息が掛かるほど近くで、見つめ合う。涙で赤くなった瞳、震える唇。成長して美しい少女となった幼馴染。熱に浮かされたように潤む瞳は吸い込まれそうで。
「愛しています、フラク……あなたを、心の底から」
聞き間違いなど許さない。これは友愛でも、ましてや憐みでもない。
一人のひととして、アリスはフラクを慕っている。その言葉は確かに、フラクに届いた。
「俺は……俺には、」
「もしも、生きることに……ここに在ることに、
まるで先んじで制すように、アリスはフラクの言葉を遮った。
「わたくしが、示してみせますわ」
「っ!?」
アリスの顔が迫ってくると、視界が彼女で埋め尽くされ、唇に濡れたものが触れた。それはすぐに離れ、目の前には意を決した表情のアリスがいた。
「あなたが必要とされる存在であることを! 生きていていいのだという証明を!」
だって、そうでなくては、
……誰も、浮かばれないではありませんか。
不落も、自分も……フラクという存在を想う、誰の心も。
「どうか、あなたを想うひとのために、生きてください」
「俺は……」
幼馴染の切な願いに……しかしフラクは、答えを返すことは、できなかった。
・・・
夜の帳が降りた。
フラクはひとり、薄い患者用の衣服のまま、学院の本校舎……その裏手に設けられた修練場へ足を踏み入れた。
「フラクちゃん」
「ベル姉さん、あいつは?」
「この先に……それより、起きて大丈夫なのかしら?」
「ああ」
嘘だ。実際は、まだ躰を動かすのも辛かった。ここに来るだけで全身から汗が浮かび、頬は熱に浮かされたように赤く火照っている。
「……無茶をするんですから」
「悪い。エルとティア―は?」
「お部屋に下がっていただきました。全員で見守っている必要もないかと思いましたので」
「そうか」
ありがたい。きっとフラクがここに来ることを事前に予感していたのだろう。
「二人にして欲しい」
「申し訳ないけど、それはできないわ。フラクちゃん、今にも倒れそうじゃない」
「頼む」
フラクはベスティリスに頭を下げた。彼女はしばし無言でフラクを見つめたのち「ふぅ……」と、呆れたようにひとつ吐息する。
「離れた場所で待機してます。エルちゃんから、あなたを見てるように、って頼まれてるの。私に、主人を裏切らせないでちょうだい」
「……ああ」
フラクはベスティリスの脇を抜けて、修練場の奥へと歩みを進める。足取りは覚束ず、呼吸が荒い。
それでも、フラクは歩みを止めなかった。
目で探す必要はない。神霊と契約者は、互いの位置を感じ取ることができる。距離が近づけば、それはより鮮明になっていく。
……姉さんと契約していた時より、ハッキリと伝わってくる。
思わず口の中が苦くなる。かつての自分のふがいなさを、まざまざと見せつけられているようで。
あるいは、不落よりも剥界の方が、自分と相性が良いとでもいうのか。それはそれで、まるで姉を裏切っているような感覚に襲われた。
「いや」
今は考えていても仕方ない。
フラクは頭を振って、木剣などの模造武器、授業で使う的が保管されている倉庫に近付く。普段は鍵が掛かっているのだが、扉の取っ手に掛かった錠前は、捩じ切られたように破壊されていた。
「はぁ」
フラクは溜息と共に扉を開けて中に入った。倉庫の中は真っ暗。しかし、開け放たれた扉から入り込む月明かりに、その姿は照らされた。
膝を抱え、壁を背にして顔を隠した、小さなショウジョ。
「鍵を壊すな」
「うるさい」
「帰るぞ」
「どこによ……」
「『新しい部屋』が用意されたってよ」
フラクはふらつく足取りで、剝界に近付いた。
「来ないで!」
が、カノジョの声に足を止める。わずかに開いた距離。顔を上げたショウジョの顔は、くしゃくしゃだった。
「帰って、どうするのよ? あんたと一緒にいたって、なんにも意味なんてないのに」
「そうだな。俺は、お前を使えない」
「だったら」
放っておいて……しかし、カノジョの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
フラクがガクリと膝から崩れ、倉庫の床に倒れそうになる。
「マスター!?」
咄嗟に躰が動いた。剝界は倒れる寸前のフラクに駆け寄り、ギリギリのところで抱き留めた。
触れたカノジョの躰は、異常なほどに熱かった。
「マスターっ、あなた熱が」
「少し、話をしよう」
「ちょ、今はそれどころじゃ!」
「今じゃなきゃ、話せない」
まともな頭じゃ、本音を語れる自信がない。だから、
「今が、いいんだ」
「……」
剝界は逡巡したが、仮にも自分の契約者の頼みを無下にはできず、
「終わったら、すぐに医務室に行くからね」
「ああ」
剝界に躰を支えてもらいながら、床に腰を下ろした。寄り添うように隣に腰掛けたショウジョの気配を感じで、フラクは天井を見上げて語り始める。
「もう察してると思うが……俺は、お前と関わりたくなかった」
「……うん」
「でも、別にそれはお前のせいじゃない……全部、俺自身の責任だ」
「……なら、なんでワタシと契約したのよ」
「それは……」
フラクは一度、会話を切り、言葉を探した。
「前に、俺は別の神霊と契約していたんだ」
そうして口から紡がれるのは、フラクの過去。
剝界は、カノジョと目を合わせることなく、静かに話に耳を傾けた。
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