第3話:敗北の記憶

 ――木漏れ日の降り注ぐ森の中を、フラクは迷いなく奥へと進んでいく。

 

 背中には革のバッグ。中にはジュバンとタオル、香油など、沐浴に必要な一式と、替えの制服が入っている。

 卵のぬめりに不快感を覚えながら、枝を掻き分け奥を目指す。

 舗装されていない獣道。木の根が隆起し、一部は先日の雨でぬかるみ滑りやすくなっている。普段より木や土の匂いが強い。

 

 しかし、フラクは慣れた足取りだ。しばらく進んでいくと、耳にゴゴゴと音が聞こえてくる。更に森の奥へ分け入ると、ふいに視界が開けた。


「毎度のことながら、ここまで来るのはいささか面倒だな」


 聞こえていた音の正体は、滝壺に水が流れ落ちるものだった。木々の天井から解放され、見上げれば抜けるような青空を拝むことができた。

 飛沫きが宙に七色の軌跡を描き、高所から降り注ぐ瀑布ばくふの力強さは何度見ても圧倒される。同時に、肌に感じる清涼な空気、滝壺の底が見えそうなほど透明な水の美しさには、幻想的なものすら感じられた。


 が、夜に振った雨の影響か、いつもと比べて水面にくもりが見られる。水かさも増しているようだが……


「まぁ、これくらいなら大丈夫か」


 尤も、ここ以外にフラクが躰を清められる場所はない……いや、ここ以外で、フラクが肌を晒すことを良しとしない、と言った方が正しいか。

 

 ……ごめんな、姉さん。


 心の中で謝罪してから、フラクはバッグからジュバンを取り出し、汚れた制服に手を掛ける。

 心なしか、フラクの手は衣服を脱ぐことに躊躇しているように見えた。


 男性用の制服を全て脱ぐと、下から穢れなき純白の肌が露わになる。細く……しかし華奢という印象は抱かせない。しなやかさの中に、確かな戦士としての逞しさが同居している。

 発育のいい胸は上を向き、流れるような曲線から伸びる腰つきはくびれつつ、皮膚の奥には強靭な筋肉の存在を感じさせた。


 一糸まとわぬ姿となったフラクは、周囲の神秘的な景観とも引けを取らぬほどの美しさがあった。


「ふぅ……」


 瞑目し、フラクはそのまま肌の上にジュバンを纏う。東の国で使われている湯浴み用の衣服だと、学園都市を訪れた商人から聞き、購入した。


 ……できるだけ、見ないようにするから。


 誰に言い訳をしているのか。フラクは滝壺の水を手で掬い、顔に着いた汚れを洗い流し、ゆっくりと水の中へ身を沈めた。


「はぁ……」


 甘く呼吸が漏れる。この場の雰囲気がそうさせるのか、波打っていた心が、徐々に凪いでいくような感覚に包まれる。

 水は肌を刺すほどに冷たく、呼気は凍え、ジュバンの感触も少しずつ鈍くなっていった。


 縁の岩に身を預け、フラクは体から力を抜く。


 呼吸で上下する胸元。ジュバンが張り付き、下の肌が透けていた。

 しかし、誰の目も気にする必要のない。ここは、フラク以外は誰も知らないのだから。


 唯一、己の視線さえ塞いでしまえば、あとは何を憂うこともない。

 ドクドク、と胸の鼓動に意識が集中していく。薄く瞼を開き、フラクの唇が震える。


「姉さん……ちゃんと、返すから……もう少しだけ、待ってて……」


 途端、心臓が強く鼓動したような気がする。それは、まるでフラクを非難するような、荒れた脈動だった。


 ……姉さん、怒ってる。


 胸に手を当て、再び瞼を閉じた。瞬間フラクの脳裏に、過去の記憶トラウマが蘇る――


 ・・・


 勇気と無謀をはき違えていたのだと今なら分かる。


『――て! フラ――っ! 死ん――ダメ!!』


 声がする。しかし意識がハッキリとしない。

 覚えているのは、彼の生まれ育った町が、呪形者に襲撃されたということ。

 武霊契約者である両親は不在。親戚連中は我先にと逃げ出した。家に残されたのは自分と幼い妹の二人、そして戦う力を持たない従者たちだけ。

 町を襲撃したのは、複合体と呼称される強力な呪形者だ。上位個体であるそれは、下位の呪形者を従えていた。

 

 町は防壁に囲まれている。いくら呪形者であろうと容易には突破できない。しかし、複合体は配下の呪形者と共に壁を破壊し、町に侵入してきた。


 戦う術を持たない住民は逃げまどい、なすすべもなく次々に殺されていく。

 ……そして、呪形者に殺された者は、呪形者になって人々を襲い始める。


 連中は、殺した相手を自分達と同じ存在に変貌させ、墜とし、数を増やしていく。


 当時、これに対処できる武霊契約者は少なく、複合体に挑みその全てが返り討ちにされてしまった。残された戦力は、町の中に『彼』ともう一人、同年代の武霊契約者見習いの少女のみ。


 もはや絶望的な状況……しかし、町を吞み込まんとしている脅威に、一人の少年が白金の剣を携えて相対した。


 フラク・レムレス。


 この時の齢一二。彼は武霊契約者として名を馳せた両親のもとに生まれ、八つの頃に聖霊の上位存在である神霊と契約を交わし、神童とうたわれていた。


 神霊を宿した武器は『神剣』と呼ばれ、世界で確認されているのは全部で九本。

 レムレス家は代々、神剣を継承してきた家柄である。一族の中には、神霊と契約を交わし『英雄』と称えられる者もいた。


 神霊をその身に宿すことができる者は、武霊契約者の中でもほんの一握り。

 彼が契約した神霊の名は『不落』。両親は我が子に、神霊と同じ名を与えた。


 神霊は聖霊とは異なり、武器の姿と神霊としての姿をそれぞれ切り替えることができる。

 フラクが契約した神霊は、ひとの形をしていた。まるで銀月のような美しい髪に、どこまでも澄んだ空の色を思わせる瞳をもった、美しいジョセイ。

 フラクはカノジョを姉と呼び、慕っていた。神霊であるカノジョもまた、フラクを実の弟のように可愛がった。


 神霊との繋がりは、戦いの強さに直結する。二人は、まさしく理想的な武霊契約者としての在り方を体現していたと言ってもいい。

 

 同年代……いや、大人が相手でも、フラクに敵う者はほとんどいなかった。だが厳しい両親の下、彼は己の力が、何のためにあるのか叩きこまれ、幼いながらに己の使命を理解していた。


『――ひとを愛し、護りなさい。それが、神剣に選ばれたあなたの使命なのよ』


 同時に、彼らはフラクに、もう一つ……レムレス家に代々受け継がれてきた教えを伝えていた。


『――お前が呪形者に敗北した時。何があっても神剣だけは守り通せ』


 神剣の使い手は、過去に何度も現れてきた。だが、神剣の代わりは存在しない。


 神剣は世界の希望。たとえ今代の担い手を失おうと、新たな契約者は現れる。故の教えであった――


 フラクは、神剣を手に、逃げ惑う人々を救うため、果敢に呪形者と戦った。

 まだ幼い子供が、命がけで……本来なら、応援が駆け付けるまでの時間を稼ぐだけでよかった。


 だが、彼は少しでも被害を抑えようと、共に戦った少女の制止も聞かず、複合体に挑んだ……挑んでしまった。


 初めて目にした複合体は、ひとの形をしていた。しかし、手足はひとのそれではなく、腕は太く、脚はさながらネコ科の肉食獣のよう。三又の尾が揺れ、獅子の頭部から伸びた一本角、巨大な口腔からは黒い瘴気が絶えず溢れていた。


 後に、『獣王レクス』と呼称される個体である。


 町に常駐していた武霊契約者を、悉く殺戮した呪形者。

 フラクは神剣を手に、震える体をどうにか押さえつけ、獣王に立ち向かった――


 ・・・


 フラクを目を開ける。


 ゆっくりと躰を起こし、滝壺から出た。


 過去の記憶……獣王に戦いを挑み、敗れた。傷付き、血を流し、もはや絶望的な状況の中……記憶の中の『彼』は、両親の教えと、最愛の姉を守るべく、己の身を盾に、神剣をその場から遠ざけようとした。

 

 たとえ手足が千切れ、臓腑が零れ、頭を潰されようとも、姉だけは逃がす。

 フラクは決死の覚悟で、神剣を手放し、獣王へと駆け――胴体を上下に両断された。

 

 彼の記憶は、そこで途切れている。

 確実に死んだ。上半身と下半身が分かれて生きていられるはずはない。


 だが、死したはずの彼は目覚めた……最愛の、姉と同じ姿で。

 この日からフラクは、ジョセイとしての生を歩むことになった。


「姉さん……どうして……」


 フラクは肩を抱く。


 医療機関のベッドで目覚めたフラクの傍らには、かつて姉と慕い、共に戦った神剣が転がっていた。

 しかし、神剣の証である神霊の気配はなく、カノジョの魂とも呼べる赤い宝玉が消失していた。美しかった白金の刀身は、見る影もなくなってしまった。

 

 聖霊、神霊を失った武器は、ウツロと呼ばれ、まるで輝きを失ったかのように灰色になってしまう。同時に、刀身はどれだけ力を込めようと、どれだけの技量をもってしても、なにも斬ることができなくなってしまう。


 後に聞いた話によれば、獣王は駆け付けた彼の両親によって深手を負い、逃走したらしい。

 そして、不落は死の淵にあった少年の命を救うために、自らの躰を差し出し、フラクの魂を現世に繋ぎ止めたのだと……厳しかった両親は、しかしフラクを責めなかった。


 ただ優しく、抱き留めてくれた。教えを破ってしまったはずの、我が子を。


 だが、あの時の絶望を、フラクは一生忘れることはない。


 守るべき存在に、命を救われてしまった。壊れてしまった体の代わりに、姉の躰を奪って生き永らえてしまった。


 まるで月の輝きを宿していたかのような髪は黒く染まり、空を切り取ったかのような美しい瞳は、深い闇のような穢れた色に侵されてしまった。


 ……ごめん、ごめんなさい、姉さん。


 フラクは濡れた躰のままくずおれ、瞳から涙を流した。


 しかし、フラクの胸中を、まるで新緑の季節のような、暖かいぬくもりに包まれる。まるで、誰かに抱きしめてもらっているかのような。

 

 ……姉さん。


 フラクは己の中に、確かにもうひとつ、自分以外の存在を感じて、嗚咽を漏らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る