4 第三の実験?
長髪でサングラスをかけた男が被害者を連れ出したとの情報を得たが、「今のところその男が誰なのかわかっていない」と島本刑事は言った。
「一色さんは不審な人物を見かけてないんだね?」
「はい。薄暗い道でしたが、私たち以外には人の姿はなかったと思います」と私は答えた。
「被害者はおそらくその長髪の男に注射器で空気を静脈内に注射され、空気塞栓症になったんですね。・・・殺人未遂でしょうか?」
「事件名としてはそうなるけど、危惧していることがある」と島本刑事が言った。
「何でしょうか?」
「立花先生、静脈にどれだけ空気を入れたら死亡するんだい?」と島本刑事が立花先生に聞いた。
「去年の事故から考えると二百ミリリットルの空気なら確実に死亡する。十ミリリットル程度の空気だと、一部は血液に溶けるし、残りは肺の毛細血管でブロックされるから、多少の呼吸苦が生じたとしても死亡する可能性は低いだろうね」と立花先生が答えた。
「つまり、正確な致死量ははっきりわからないんだね?」
「そう。毒物でも、致死量を調べるには実際の死亡例をいくつか比較して絞り込んでいくしかないんだ。生きている人で実験するわけにはいかないからね。・・・え?」立花先生が何かに気づいて島本刑事を見た。
「まさかこれも例の実験だというんじゃないだろうね?」
「その可能性がないとは言えないんじゃないかな」と島本刑事。
「緊縛性ショックと焼死体の頭蓋内血腫の実験をしたと思われる犯人は、それぞれ三人の被害者を使って実験している。今回のような、血管に空気を注入されたような人がほかに二人出て来たら、確実に比較実験を行っていると言える」
「確かに。・・・一体誰がそんなことをしてるんだろう?」
「今回の事件が空気塞栓症の実験だとしたら、初めて犯人らしい人の目撃がありましたね」
「居酒屋で被害者の隣に座っていた長髪の男だね」と立花先生が言った。
「しかし店員もはっきり見ていないし、サングラスをしていたから顔がよくわからないし、長髪なのもかつらを使った変装かもしれない」と島本刑事が言って頭を振った。
「ほかには血管に空気を注入されたような人はまだ見つかっていないのですか?」
「今のところはね」と島本刑事が言った時に、個室のふすまが開いて仲居さんが顔を出した。
「お客さまの中に島本様はいらっしゃいますか?」
「俺だが」と返答する島本刑事。
「ご自宅から電話が入っています」と仲居に言われ、「何の用だろう?」とつぶやきながら島本刑事は個室を出て行った。
数分後、島本刑事があせった様子で戻って来た。「埼玉で空気塞栓症で死亡した被害者が見つかったそうだ!」と言いながら。
「え!?」と驚く私と立花先生。
「すぐに署に戻る。君たち二人は食事を続けてくれ。また明日・・・は無理かな?明後日にでも報告に来るよ!」そう言って島本刑事は壁にかけてあった背広を取ると、あわただしく出て行った。
ぽかんとする私たち。しばらくの沈黙の後、「これはいよいよですね」と私は言った。
「ああ、白神の再来だ」と立花先生。「ただ、今回は被害者が複数人ずつ出ている。これは犯人のこだわりなのかな?数人で比較しないと実験にはならないという・・・」
「人を被験者とする実験を行う場合、・・・この場合は合法な実験という意味ですが、必ず複数の被験者で比較するのですか?」
「うん。ひとりだけだと個人差のせいで正確な結果が得られないことがある。だから動物実験でも、人を被験者とする治験でも、必ず複数例のデータの平均値を取ったり、ばらつきを調べたりするんだ。何人の被験者で調べるかは決まっていないけど、できるだけ大人数のデータを取るのが理想的だね」
「とはいえ普通の人の中から被験者を大勢集める事はできませんよね、こんな死の危険がある実験の場合は。だから最小の人数として二、三人にしたのでしょうけど、杜撰な実験とはいえやはり犯人は医学実験の経験者でしょうか?」
「そうかもしれない」
「医学の実験の経験がある人が白神のノートを入手する機会を考えると・・・自宅や旅先などでは考えにくいと思います」
「そういう所で法医学教室の関係者が偶然出くわすことはまずないだろうね」
「となると、白神がかつて在籍していた陸羽医科大学の法医学教室か、学会でしょうか?」
「・・・白神は盛岡市で開かれた法医学の地方集会の時から実験を始め、その後まもなく法医学教室を辞めた。陸羽医科大学の法医学教室の教室員でなければ、その地方集会が白神に会える最後の機会だろう・・・」
「法医学の地方集会にはどのような人が参加しますか?」
「その地方にある大学の法医学教室の関係者か、その地方の警察の関係者が主だけど、法医学会員であれば、他の地方からも参加はできるんだ」
「今回の一連の実験は首都圏で起こっています。東北地方にいる関係者がわざわざ首都圏まで来て実験を行うことは、不可能ではありませんが面倒ですね」
「となると、盛岡市の地方集会に出席した、関東地方の法医学会員である可能性が高くなるね。他の地方の人である可能性も否定できないけど」
「あるいは白神と同じように地方集会の後で退職して、首都圏に来た人とか」
「白神の事件の時に盛岡での地方集会に参加した人のリストは作ってある。地方集会の直後に退職した人は白神しかいなかったけど、あれから一年半経っているから、その間に退職した人と首都圏在住者を抽出しておこう。・・・明後日、島本刑事が報告に来ると思うから、一色さんも法医学研究室に来てほしい」
「わかりました。必ず伺います」と私は答えた。その後は雑談しながら食事を終え、下宿に帰った。
翌々日、講義が終わった私が医学部棟に行くつもりでキャンパス内を歩いていると、前方に新入部員の三人と仲野さんが立ち話をしているが見えた。
「あれ?」と思って近づいて行くと、四人も私に気づいたようで手を振ってきた。
「どうしたの?」
「今、一色さんの話をしていたのよ」と仲野さんが言って私は驚いた。
「全国を巡って人殺しなどを行っていた犯人を一色さんが見つけて逮捕したって話ですよ」と教君が言った。
白神のこと?と思いながら、「私が見つけたわけでも、逮捕したわけでもないんだけど・・・」と答えた。しかし、
「その犯人に殺されそうになったんですってね。先輩も度胸がありますね」と感心する典子さん。
「一色先輩は安楽椅子探偵なのかと思いましたが、実際はハードボイルドなんですね」と久米さんまでが目を輝かせて言ってきた。
「そういうわけじゃないんだけど・・・」
「今日も事件解決のために刑事さんに会うんですよね?今度はどんな事件なんですか?」
「まだどんな事件かはっきりしないんだけど、今話した事件と同じで、誰かが人殺しの実験をしているかもしれないの」と私が答えたら、三人の新入部員は歓声を上げた。
「すぐに犯人を見つけて、事件を解決するんでしょう?」と典子さん。
「そうしたら、また事件のことを教えてください。・・・あ、わかってますよ。今の段階ではまだ僕らに話せないんですよね?」と教君が通ぶって言った。
「先輩と同じミステリ研部員で光栄です」と久米さん。仲野さんは苦笑していた。
「じゃ、じゃあ、私は用があるからこれで。みんなは部室で楽しく過ごしてね」
「はい!!」と三人は元気よく答えた。
少し圧倒された気分で医学部棟に向かう。建物に入って法医学検査室のドアをノックすると、「どうぞ」という立花先生の声が聞こえた。
「失礼します」といつものように声をかけて中に入ると、既に島本刑事が来ていた。
「待っていたよ、一色さん。今日は犯人の目星を教えてくれるそうで、期待しているよ」と島本刑事。調べてくれたのは立花先生なんですけど。
「とにかく僕からまず説明しよう」と島本刑事が言い、立花先生に勧められて木の丸椅子に腰かける。
「ほかに血管に空気を注入された人がいないか他県の県警にも聞いてみたら、一昨日の朝、埼玉県の荒川の河川敷近くの道で会社員の男性が死んでいたそうだ。右の肘の内側に注射痕があり、覚醒剤でもやってるんじゃないかと疑って埼玉の大学で司法解剖したら、心臓を取り出す際に心臓内から血液とともに泡が吹き出てきたそうだ」
「それって、明らかに空気塞栓症の所見ですよね?」と私が驚いて聞くと、立花先生がうなずいた。
「大量の空気が血管内に注入されると、心臓内にも空気が溜まるんだ。空気塞栓症の疑いが最初からわかっている時には、心嚢と呼ばれる心臓を包む袋の中に水を貯めて、下大静脈を切断するとたくさんの気泡が出てくる。それ以外には心臓や脳の表面の血管内に気泡が詰まっていないか、目で確認するんだ」
島本刑事はうなずいた。「解剖の結果死因は空気塞栓症と診断された。そこで埼玉県警の刑事たちがその男性の足取りを調べたところ、赤羽駅近くでタクシーに乗っていたことがわかった」
「その人が自分でタクシーに乗ったんですか?」
「いや、もうひとりの男がタクシーを停め、死亡した男性の肩をかつぎながら一緒にタクシーに乗り込んだそうだ。その男は長髪で、夜なのにサングラスをしていて変だなと運転手が覚えていた」
「神社の前で倒れていた人と同じ状況ですね。その人も睡眠薬のようなものを飲まされていたのでしょうか?」
「薬物は検査中だけど、胃の中からアルコール臭がしたので、直前まで飲酒していたと考えられている。我々も手伝って、どこで飲んだか今調べているところなんだ」
「東京都と近隣の県にまたがる事件だとしたら、この事件も警察庁広域重要指定事件になるのでしょうか?」
「それぞれの事件・・・緊縛性ショックと燃焼血腫と空気塞栓症の実験を行ったと考えられるこれらの事件の関連性がはっきりすれば、そうなると思う。とりあえず、腕に身に覚えのない注射痕があると訴え出る人がほかにいないか、広く調べてもらうことになった」
「もうひとり被害者が見つかれば、この実験も三人を対象に行ったことになります。やはり医学研究の経験者が犯人でしょうか?」
「そうだろうね。実験でなく、珍しい症例の報告を行う場合も、可能なら複数の症例を集めることが多い。だから犯人は白神とは違って、ひとりの被害者だけでは満足しないのだろう」
「なるほど。・・・それで犯人の目星はついているのかな?」と島本刑事が立花先生に聞いた。
「はっきりとわかってはいないけど、白神との接点がありそうで、かつ、動物実験や症例報告の経験がありそうな人物となると、三人に絞られそうだ。三人とも僕が知る限りでは長髪ではないけどね」
「長髪はやはりかつらをかぶった変装だろう。とにかく、その三人について、もったいぶらずに教えてくれよ」と催促する島本刑事。
「じゃあ、まずひとり目だけど、陸羽医科大学法医学教室に在籍していた大学院生で、名前は
「白神と陸羽医科大学法医学教室の在籍期間がかぶるんだね?」と島本刑事。
「そう。白神はおととしの十月に退職したけど、藤田先生は約三年間、白神と机を並べていた。二人の仲は良く、解剖所見についてしょっちゅう議論していたそうだ」
「大学院で法医学を学んだのに、臨床のお医者さんになったんですか?」と私は聞いた。
「うん。学位、つまり医学博士号を取るだけの目的で大学院に入学する医師は、基礎医学系の教室で研究しても、学位を取った後は臨床医に戻ることがよくあるんだ」
「むしろ立花先生のように法医学教室に残る人の方が少ないんじゃないかな?」と島本刑事も言った。
「まあそうだね。前にも言ったと思うけど、法医学教室の教職員のポストは少ないから、一生法医学に携わりたいと思っている人でも、法医学教室に就職できないこともある」
「司法解剖を依頼する警察側としては残念でならないけどね」
「その、藤田というお医者さんは、司法解剖や研究の経験があって、白神と仲が良くて、かつ、現在は東京に在住しているとなると、犯人像と合致しますね」と私は言った。
「そうだね。と言っても現段階では決めつけられないけどね」と立花先生。
「容疑者はあと二人いるんだな?続けて教えてくれないか?」
「うん。ひとりは仙台に住んでいる薬剤師、もうひとりは東京に住んでいる法医学者なんだ」と立花先生は説明を続けた。
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