3 行き倒れ

週末の夜に久しぶりに兄から外食に誘われた。兄、一色大悟は都内の中華料理店で修行をしている料理人で、同じアパートで同居している。そして話を聞くと、兄の同僚の松村芙美子さんも同席するとのことだった。


松村さんは兄が勤める中華料理店のウェイトレスをしていて、最近兄と交際するようになった。とても優しそうな女性だ。


「いいの、兄ちゃん、せっかくのデートなのに私が一緒で?」と兄に確認する。お邪魔虫にはなりたくないからだ。


「芙美子さんがたまにはお前とも話がしたいって言うんだ」と答える兄。もう名前で呼び合う仲になっているのか。


「お邪魔でないならいいけど・・・」と私は言って考え込んだ。


食事の場に招待されたとなると、私も立花先生と食事に行く時に二人を誘った方がいいのだろうか?もっとも最近は島本刑事が一緒で、事件の話を聞きながらの食事が多いのだけど・・・。


その点は松村さんに会ってから考えよう、と私は考えて、その日はお誘いに乗ることにした。


私は兄と一緒に下宿を出て、駅前で松村さんに会ってあいさつし合った。その後で私たちが向かったのは、繁華街にある小さな中華料理屋だった。兄たちが勤務している店より小さく、入ってみたら私の実家の中華料理屋よりも狭そうだった。それなのにお客さんがたくさん入っていて、私たちは三十分ほど待たされてから四人がけのテーブル席に案内された。


「何でこの店にしたの?」


「まあ、敵情視察というか、最近人気が出て来た店だから、どんな料理を出すか気になったんだ」と低い声で答える兄。


「今勤めている店は高級店だからな、大衆向けの店で繁盛していると聞いたら将来の参考になりそうだろ?お前も味を確かめて、後で感想を言えよ」


仕事熱心なのかわからないけど、そういう意味で私も駆り出されたのか、と得心する。


メニューを見て中華そばと焼き餃子と青椒肉絲チンジャオロウスーというのを人数分注文した。兄たちはビールも頼んでいたが、私は水で十分だ。


料理が来ると兄たちはビールを飲みながら料理について批評し合っていた。


「二人とも仕事熱心ね」と私はあきれ気味に言った。「いつもデートはこんな風なの?」


「この前は映画を観に行ったぞ。『大空港』という評判が良かった映画を」と兄。私はまだ観ていないが、確か爆弾を持った男が飛行機に乗り込んで大騒動になるというあらすじだったと思う。


「ちゃんとしたデートもしてるんだね」と私が言ったら、


「お前こそどうなんだ?立花先生と殺人事件の話ばっかりしているんじゃないか?」と兄に聞き返され、反論できなかった。


それでも食事はなごやかに終わり、私たちは家に帰るために店を出た。既に周囲は暗くなっていて、繁華街を抜けて住宅街の中を歩いていると、道の脇に小さな神社があるのに気づいた。


神社の敷地は三メートル四方程度で、敷地内には小さな鳥居と短い参道と、さらに小さな祠があったが、住宅に隣接しているため参道は表からは見えにくい配置になっている。


私は仲睦まじそうな兄たちの少し後からついて来ていたが、暗い参道をたまたまのぞき込んだところ、参道の上に黒い塊があるように見えた。


「あれ?」と私は思わず言って参道の前に出た。そんな私を兄は怪訝そうに見た。


「どうした?お参りするのか?」


「ううん、ちょっと待って」私はそう言って参道の中に一歩踏み込んだ。その時私はその黒い塊が倒れた人間であることに気がついた。


「兄ちゃん、人が倒れている!」


「ええっ!?」と驚く兄。松村さんをかばうように近づきながら参道をのぞき込み、「酔っぱらいが酔いつぶれているだけなんじゃないか?」と言ったが、


「まだ九時過ぎだよ。酔いつぶれるには早すぎるんじゃないの?」と私は言い返した。


「生きてるのか?」と兄に聞かれたが、私は医者ではないし、近づくのは怖い。


「と、とにかく、救急車を呼ばなきゃ」と私が言い、兄があわてて近くの住宅の玄関ドアを激しくノックした。


「何ですか?」と中年女性が顔を出し、兄を怪訝そうな目で見た。


「そ、そこで人が倒れてるんです!救急車を呼んでもらえませんか?」と頼む兄。


その中年女性はサンダルを履いて玄関から出てくると、私が立っているところまで歩いて来て参道内を見つめた。


「・・・酔っぱらいじゃないの?」と兄と同じことを言う中年女性。


「まだ九時過ぎですよ。酔っぱらうには早すぎるんじゃないですか?」と私は同じことを言い、その女性はしぶしぶと「一一九番してあげるわよ」と言って家に戻ろうとした。


「それじゃあよろしくお願いします」と頭を下げて立ち去ろうとする兄。私も頭を下げてから兄の後を追おうとすると、突然その中年女性に私の腕をつかまれた。


「あんたが見つけたの?なら、ここに残って救急隊員に説明してよ」


「え?え?」私は困って兄の方を見たが、


「と、とりあえず芙美子さんを送ってくる」と言って二人で去ろうとした。


「妹さんを置いて大丈夫なの?」と松村さんは私を気遣ってくれたが、


「大丈夫、大丈夫。千代子はこういうのに慣れているから」と言って去って行った。慣れてなんかいないんですけど。


「そこで待ってなさい」と中年女性に言われて、電話をかける間ひとりで夜道に立っていた。


まもなく救急車が到着し、「電話したのは私だけど、発見したのはこの子だから、事情はこの子に聞いて」と中年女性は救急隊員に言って自宅に戻って行った。


救急隊員は倒れている人に気づくと、「タンカ!急いで!」と仲間に言って救急車内に運び入れた。その時、私に、


「事情と連絡先を簡単に聞くから、あなたも乗って」と言われて、救急車に乗り込まされた。


救急車の中にはタンカを載せた台と、その横にベンチがあるだけで、私はベンチの一番後の端っこに座った。横たわっている人を観察すると、スーツ姿の中年男性で、背広は半脱ぎの状態で、ワイシャツの右の肘の内側に血が付いていた。かすかに息はあるようだった。


この当時の救急車は戸外での外傷者の搬送が主任務で、急病人は運ばないとのことだったが、この男性には目立った外傷が左肘の血痕を除いて認められなかったものの、戸外での意識不明患者なので、頭部打撲による昏倒を危惧して搬送されたようだった。応急措置は救急隊員は行わないようだ(註、昭和四十五年当時)。


明応大学病院の救急部に到着すると私は診察室の外の待合室で待たされた。電灯が半分以上消えていて、しかも私ひとりしかいなかったので、とても心細い。


しばらく待っているとようやく当直の医師がやって来て、私に質問してきた。


「あなたは患者さんのご家族ですか?」


「いえ、通りすがりの者です」と私は答えて、医師に問われるままに発見した時の状況を説明した。


「それでは後ほど改めて状況を聞くことがあるかもしれませんので、連絡先を教えてください」


私は名前と住所を答えた。「電話は下宿にはありません」


医師はメモ帳に私の回答を書き留めると、「もう帰ってもいいですよ」と言った。


明応大学病院はいつも行っている医学部の基礎研究棟の近くだったので、私は迷わず下宿まで歩いて帰ることができた。夜十一時前になっていた。


「よっ、お帰り。遅かったな。どうだった?」と下宿で待っていた兄がのんきに聞いてきた。


「どうもこうもじゃないよ、兄ちゃん。ひとりで病院まで付き添わされて、心細かったよ」


「すまんな。芙美子さんを置いていくわけにもいかなかったしな」と形だけ謝る兄。


とんだ夜だったが、私はすぐに倒れていた人のことは忘れ・・・るはずだった。ところが月曜日、大学の講義の後でミステリ研に寄ろうと部室棟に行ったら、部室棟の前で立花先生と島本刑事が待っていた。


「何か事件ですか?」と私は走り寄って二人に聞いた。


「一色さんが土曜日の夜に見つけた行き倒れの人のことだよ」と答える島本刑事。


「え?」病院から問い合わせがあるかもしれないと思ってはいたが、島本刑事が来たのは予想外だった。


「あの人は亡くなられたのですか?」


「死んではいない。まだ生きていて入院中だが、検査の結果空気塞栓症くうきそくせんしょうと診断された」


「くうきそくせんしょう?」私は聞き返して立花先生の方を見た。


「空気塞栓症とは血管の中に空気が入って、気泡が臓器の毛細血管を詰まらせて起こる病変のことなんだ」と立花先生が説明してくれた。


「空気が少量だと血液中に溶けてなくなってしまうんだけど、溶け切れないほどの空気が静脈中に入ると、肺の毛細血管を詰まらせて呼吸障害を起こすんだ。これだけでも死亡する危険があるけど、さらに大量の空気が静脈内に入ると、肺の毛細血管を通過して動脈内に入り、今度は脳や心臓の血管を気泡が詰まらせる。そうなると脳梗塞や心筋梗塞が起こって死亡する危険が高まるんだ」


「そんなことになっていたんですか。・・・血管の中に空気がどうやって入るのですか?」


「けがをして、傷口の中の血管が切れた時に空気を吸い込んで起こることがある。静脈の血液は心臓の右心房に吸い込まれるようにして流れているから、その力で空気も吸い込んでしまうんだ」


「よく起こる現象なんですか?」


「はっきりと空気塞栓症とわかるほど空気を吸い込むことは滅多にないよ。・・・けが以外だと、手術や輸血・輸液のミスで起こることがあるかな?そうそう、去年、献血ミスで空気塞栓症が起こった事故があった」


「献血ミス?」


「そう。ある病院に入院している知人のために自分の血液を献血しようと申し出た人がいたんだ。その人の血管に針を刺して、血液を吸い取る機械を作動させたら、採血チューブを機械の吸入口に挿さずに排出口に挿していて、血を吸わずに空気を静脈内に送り込んでしまった。約二百ミリリットルの空気が血管内に入って、その人はすぐに意識を失った・・・」


「そ、それでその人はどうなったんですか?助かったんですか?」


「いや、すぐに脳死状態になったようで、意識が戻らないまま四十日余り経って亡くなった。司法解剖をしたら脳がどろどろに溶けていたそうだ」


「こ、怖いですね。献血できなくなります」


「献血車で献血をする分には安全だよ」と立花先生が保証してくれた。


「被害者、つまり一色さんが見つけた人が空気塞栓症になった原因なんだが、元々健康な人で、右肘の内側の注射痕以外にけがはなかった」と島本刑事が言った。


「じゃあ、その人・・・被害者は、献血で空気塞栓症になったのですか?」


「いや、夜中に献血など行っていない。第一、献血車でそんな事故が起こったとしたら、すぐにその場から救急搬送されるはずだよ」


「そうですね。・・・行き倒れている時点でおかしいですね」


「今朝、被害者の意識が戻ったので担当医が献血か採血をしたのかと聞いたんだが、そんな記憶はないと答えたそうだ。土曜の夜は居酒屋のカウンター席でひとりで酒を飲んでいたんだが、たいして飲まないうちに急に強い眠気を覚え、気がついたら病院にいたのだという」


「お酒を飲んで空気塞栓症になんてならないですよね」


「そうだよ。被害者の記憶が確かなら、おそらく酒に睡眠薬でも混ぜられていて、眠った後で運び出されて、注射器で空気を静脈内に注入されたんだよ」と立花先生が言った。


「担当医もおかしいと思って警察に通報してくれた。そこでさっそく俺たちが行って、担当医と被害者に事情を聞いたんだ。その時、被害者と一緒に救急車で来たのが一色さんだと知った」と島本刑事。


「私は知らない人が神社の参道で倒れているのを発見しただけです」


「わかってるよ、一色さん」と島本刑事が私を安心させるように言った。


「被害者が飲んでいた居酒屋で店員に話を聞いたんだが、確かに飲んでいる途中で眠り込み、隣にいた男が酒代を払って、肩を貸して被害者を店から連れ出したそうだ」


「その男が犯人かもしれないですね!どんな人だったのでしょうか!?」


「グループサウンズのバンドマンのような長い髪で、赤色のサングラスをしていたので顔はよくわからなかった。中肉中背で、着ていた服も背広なんかじゃなくカラーシャツだった。被害者は、隣にそんな男が座っていたような記憶があるが、知らない人で一言も会話していないと言っている」


グループサウンズとは一九六〇年代後半に大流行したロック・グループのことだ。ザ・タイガース(メンバーは沢田研二など)、ザ・スパイダース(堺正章など)など、多くのグループが人気を博している。


「知らない男が代金を払って、被害者を連れて帰ったのですか?明らかにその男が犯人っぽいですね」と私は言った。

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