第14話 おはようとありがとう、そしておやすみ
この日は11月27日・水曜日。
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「由佳ちゃん、おはよう」
彼は目覚めたと同時につぶやいた。そうしてみたところで、その声を聴いてくれる相手がそこにいるわけではない。なぜならそこは、彼が兵庫県明石市から戻ってきてこの十年近く居住しているワンルームのアパートの一室。何とベランダから郵便物や宅配のお好み焼きを受取れる場所。これが女性なら下着泥棒の絶好の位置ではあるのだが、男のそれも50代とくれば、そんな心配などあるわけもない。
彼は起き出し、昨日洗濯したものを取込んだ。そしておもむろにパソコンを開いて電源を立上げ、メールチェックとともに執筆を始めた。
ラーメン屋がラーメンがまずいと商売にならんのと一緒や。物書きがモノを書けないと商売にならんやんか。そんなことを言いながら、彼は朝から仕事を始めた。
あっという間に、短編小説が1作と書置きの詩が何作か出来上がった。ついでの駄賃で短詩形の歌もいくつか作り、それをネットに公開した。今日は朝からかなり仕事が進んでいる。いつもこのくらいで進められたらいいのにと思うほどに。ネット上のアクセスも普段より多い。この後彼は、自己出版で発売する本の原稿の校正を始めた。年内に何とか、出せたらいいのだが。こちらも思ったより早く仕事が進む。あとは、マスコミ対策なども考えていかなきゃ。
休憩がてらの一杯の珈琲が、いつになく美味い。思わず彼は、つぶやいた。
「由佳ちゃん、ありがとう」
彼は昼から児島に散髪に向かった。それからしばらくぶらぶらとした後、夕方には駅前の餃子のチェーン店によって生ビールをいくらか飲み、それから近くのお好み焼きの店に行ってモダン焼きを野菜大盛で頼んだ。これもまた、野菜大量摂取のための手法のひとつ。その日の締めにしっかり食した彼は、バスに乗って自宅へと戻り、ブランデーをちびちびやりながら動画を見た。
昨日の彼女からのメールの返信を忘れていた。
ブランデーをすすりながら、彼女によって書かれた言葉を肴にしつつ返信。
これで、今日は終り。ズバリ、酒飲んで寝るだけ。
「由佳ちゃん、おやすみ」
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「キヨくん、おはよう」
彼女もまた同じ頃、自宅のベッドから起き出した。もちろんそこに声を掛けられる相手がいるはずもない。彼はこの地より30キロほど東の街中に住んでいる。あまりの寂しさに思わず木綿のハンカチーフに顔を埋めて泣きたくなるような気持ちを少しばかり感じつつも、彼女は朝食を準備し、同時に出勤の準備を始めた。今日は早番。夕方には少し早めに帰って来れる。
シャワーを浴びて出勤する服に着替え、朝食を終えた彼女は、いつものように火元と照明の確認を終えて出かけることにした。
「行ってきます」
彼に声かけるかのように、彼女は誰もいない部屋に向って声をかけた。そうしてみたところで、そのまま自宅で仕事をする彼が聞いてくれるわけでもない。先週、正確にはこの日曜日まで、そんな言葉を述べて自宅を出たことなどなかった。だけどこの日ばかりは、そうしないではいられない気持ちに満ちていたのである。
「この言葉を聞いてくれる人がいてくれたら・・・」
彼女は自分の所有する軽四のある駐車場に歩いて移動し、職場へといつもの道を進む。いささか込んでいる場所もあるが、いつものように始業前に到着した。
この日も開店早々、眼鏡が1本売れた。年配者の遠近両用眼鏡だった。昼前には常連客が眼鏡のメンテナンスを求めて何本か持参してきた。ねじを調整し、レンズと蔓を洗浄してふき取り、きれいにしてお返しした。
「近くもう1本作るから、またよろしく」
そう言ってその常連客の男性は店を出ていった。彼や私より一回りほど上の人。
彼に会ってこの方、今までにないほど仕事が充実している。何と言っても眼鏡の売上が目に見えて上がっている。年末が近いからとかセールをやっているとか、そういう問題ではないところで自分の調子がよくなってきていることが肌身で感じとれる。この日の昼休み。彼女は自分の作った弁当を食べ、珈琲を飲みながら、人に聞かれないようにつぶやいた。
「キヨくん、ありがとう」
幸か不幸か、彼女の声を若い同僚の女性が偶然にも聞いた。
「キヨくんって人、誰ですか?」
少し顔を赤らめながら、彼女は答えた。
「私の、運命の人。小学校の時の同級生。50年近くぶりに再会したの」
「まさか河崎さん、その方と近く結婚されるとか?」
「そのまさかが、ホントに成就すればいいンだけど」
そう言う話に目がなく、お調子者的にそんな話を普段はしている若いその同僚女性は、それ以上は何も突っ込んでこなかった。彼女もまた眼鏡をかけている。赤いフレームのセルロイド製のもの。同僚の眼鏡にふと目が行った50代の女性、年甲斐もないなと思いつつも、そのメガネを作って彼の前でかけてみたい気になる。
昼からも彼女の仕事は順調そのもの。昼過ぎそうそう、眼鏡がもう2本売れた。常連客の中年男性で水曜休みの営業職の人。
彼女の丁寧な接客のおかげもあってか、はたまた彼がよほど必要としていたものなのか、オプションをつけることになった。受取までに少し時間がかかるが仕方ない。営業のついでに通った折に受取ると述べて、彼は帰っていった。
他にも、先日ブルーライトカットのレンズを注文していた眼鏡の受取りに2人ほどの客が来た。特に問題のある客も来ないまま、その日は終わった。
早めに帰ったら、彼からの返信メールが来ていた。
どういうわけか彼も、自分が気になっていた言葉が気になって調べていた。それについてどう思うか、彼は作家だけあって丁寧に記述していた。
風呂に入って夕食を食べ、酒を飲むこともなく、彼女も早めに寝床に就いた。
「キヨくん、おやすみ」
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