第3話 やっぱり、彼女だった。
「米河清治さんの携帯でいらっしゃいますでしょうか?」
相手の女性の声は、比較的冷静なもの。どこかの営業か店舗からの電話か。
「いかにも」
普段そのような言葉を電話で述べることはないが、この日ばかりはつい勿体をつけてしまった次第。
「わたくし、河崎由佳と申します」
うそ、マジか!?
「お久しぶりですと言いますか、初めましてというべきでしょうか、ええ、私がその何と申しましょうか、米河清治でございます。あいにくですが、本物です。偽物やダミーを準備できるほどの資金力も技術力も、何より甲斐性もないものでして」
我ながら、何を言っているのやら。相手の女性がいささか呆れているような、そうでもないような。
「キヨくんの遺伝子を継いだ子を今からは、ちょっと無理ね、私では。でも、いてくれたらどんなに良かったかな?」
な、何を言い出すのか、この女性。しかも、自分の名前で呼んできたぞ。
「ぼくも由佳ちゃんも、55歳やろ。サバ読んでなくて実は30歳とか言われたらこちらが55歳でも何とかなるやろけど。若いおねえさんと以下略の世界ね」
一体全体、何の会話だ、こりゃ。
「もう20年若いときに再会できたら、良かったかも」
「そらそやな。お~ん。せやけど、今からでもできることはいくらもあるよ。わしかてな、小説書き始めたのは50歳になる少し前やさかい。昔どれだけあったかはわからんが、今時見てみ、熟年離婚なんて言葉が世に出回っとるやん。逆に年取って結婚されとる中高年の方もいらっしゃるやない。何も再会早々ぼくがいきなり由佳ちゃんにプロポーズ、ってこともないやろけど、小学校の同級生だった55歳の男女がお互い初婚再婚問わず結婚することは、世上にはいくらもある話や。そない考えてみ、これはこれでひとつの出会い、ちゃわんかな」
彼女が少し間をおいて話す。
「プロポーズね。そんな手間なんか抜きにして、いっそ押しかけ女房なんていう手もあるかな?」
これ、キラヤバとしか言いようのないパターンやないか。
「いやあ、うちは完全に単身者のアパートや。物理的には無理や。女からの押しかけパターンは」
「それ何? 断捨離とかでもしていて?」
「いや、してへん。うちの机の下は書類と本の無法地帯や」
電話の向こうの女性の声、なぜか少し安心したような印象を受ける。
「作家さんらしいわね。ますます押しかけていきたくなってきたかな?」
「あの鐘を鳴らすのはあなた、押しかけて来た美女を押し倒すのはぼく、って?」
意外にも、彼女はそのネタに食いついてきた。
「結構期待シテタリして」
一体全体何と言っていい会話なのか。かみ合っているのかいないのか,これから何が始まるというのか。生産性はほとんどないけど、何かのネタにはなりそうな話のオンパレードだな。そんなことを思う間にも、彼はあることに自ら気付いた。
「今思ったけど、あなたのことを名前で呼んだ覚えがない。なぜか気付いたら馴れ馴れしくも名前でしかもちゃん付で呼んでしまっていたような。ごめん」
「むしろうれしい。そんなのオアイコ。あの頃は、キヨくんを名前で呼んだ覚えないもんね。これからはもう、それでいいじゃない。キヨ君が私のことを由佳ちゃんなんて呼んでも、誰かが茶化すなんてこともないでしょ、もういい年の大人なンだから、お互い」
「いい年の大人、ね。大学を出た頃からセーラームーン、今や毎週日曜朝は世にも張り切ってプリキュアなんて大人もいたものよ、あ、それワシやねん、ごめん」
「最初あなたがそういうアニメを観ていることを知って、びっくりした。あの米河君がそんなのをって。例えばこんなのは、どう? 由佳がアダルトビデオを観るのが趣味って言ったら、キヨくん、幻滅する?」
「しないよ。由佳ちゃんと一緒に観ようって。というか、そんなのは見るより実践するものやんかって言うかも。覚えてる? 金ピカ先生って予備校の英語の先生。あの人の本にその手の話が書かれてて、その表現を応用したのよ」
「金ピカ先生ね。教わったことも本を読んだこともないけど、やくざ屋さんみたいなスタイルの予備校の英語の先生でしょ」
「そうそう。数年前に亡くなられちゃったけどね。最期は悲惨やってん」
「由佳もネット記事で読んだ。悲惨には確かに見えるけど、この世でいい思いもたくさんされたのならああいう生き方もあっていいと思う。キヨくんにはなってほしくないけどね。確かあの頃、養護施設にいたでしょ」
「確かにいた。その事実は消えない。あの施設にいた同級生で一人、なんと行き倒れになってしまったのがいてね。しかも、2度にわたって」
「その子のこと、由佳はまったく覚えてない。でも、キヨ君の作品読んでいて時々出てくる罵倒調の詩。確か、その中に出していたでしょ」
今ちょうど15時。今日はもううちでぼちぼちやって寝ようと思っていた矢先。しかし、一生に一度歩かないかの強い刺激を受け、頭もさえてきた模様。
「あのさ、由佳ちゃん、近いうちに会えないかな? メガネ屋さんに勤めていたら土日休みってわけでもないでしょ?」
「でも、プリキュアの邪魔しても悪いし」
「いや、あれはね、集中できるところであれば問題ない。ただ、あの時間に放送のない場所への出張は一切NGってだけで」
「実は由佳、明日お休みなんよ。今日は日曜だけど、たまたま休みだった。何だったら明日でも会いたいな。あ、今すぐにでも」
「今すぐって、どっちかがどこかに泊まらないとッてことにならんかな?」
「由佳はそれでもいいけどな。うちは一人暮らしだけど、複数入居もできるし人を泊めることくらいできる場所よ。でも、今からじゃ・・・」
「今日は遅くなるからやめとこ。明日なら、わし、時間取れるよ」
「じゃあ、明日。どうする? 岡山で会おっか? いきなりうちに来てっていうのも難でしょ」
「じゃあ、朝10時くらいでどう?」
「それでいい。駅前のGホテルのロビーでどうかな?」
「じゃ、そこで。明日のお昼は、お酒は控えてね」
「わしかていつも飲んどるわけちゃう。控えるときは控えるものや」
「わかったから。お酒飲んで寝ているだけで作家なんか務まるはずがないでしょ。とにかく明日ね」
55歳と言えば、昔の国鉄ならその年度末をもって定年退職の年齢。とっくに孫がいてもおかしくないくらいの年齢。無論、生涯独身で通した人はたくさんいる。彼女も自分もそのような形で一生を終えてもおかしくない人生を歩んできた。
しかし、いまどきの55歳は国鉄の頃ならせいぜい40代の感覚。定年まで生きながらえるとしても、あと10年は働かないといけない年齢だ。下手すれば、さらにもう数年定年が延長されるかもしれない、そんな御時世。
一人で好き放題に生きて必死で文字を連ねる仕事をしている自分が、なぜか女性の家に突入しかねない状況下に置かれてしまうとは。しかも、半世紀全く音信不通の妙齢の女性の家に。彼女に何やら吸い取られてしまいかねない恐怖と、その裏返しの快感のようなものが頭に去来する。
彼女は、どんな心地で今日の夜を迎えるのだろうか。
それを小説化するならば、どんな表現をしてみようか。
明らかに、昨日まで、否、今日の昼までとは何かが確実に、違う。
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