闇に喰われる
美杉。節約令嬢、書籍化進行中
闇に喰われる
「嘘だろう。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! だって、だってオレはただ……」
男、
傍から見ればそれは、錯乱しているだけともとれる。
しかしあの事件現場、田崎の証言。
そのどれもが、ただ混乱をしているだけとは思えずにいた。
「ただ?」
「ただ簡単な闇バイトに応募しただけなんだ!」
聞き返せば、ムキになったように田崎は声を荒げる。
「それがいけないことだとは思わなかったのか?」
田崎には罪の意識はない。
そう、それはこの期に及んでもだ。
ただ簡単な仕事をしただけ。
闇バイトでも、実行犯ではない。
ある意味グレーな部分。
それでも犯罪であることには変わりがない。
直接的ではなくとも、それに加担をしたのだから。
「金がなかったんだ。だから仕方なかった……。でも、違うんだ! 違う、そうじゃない! オレは」
「何を見た?」
「分からない。分からねーよ。どこからが現実でどこからがまやかしだったんだ? なぁ、刑事さん教えてくれ。オレは……何をしたんだ?」
虚ろな目がこちらをのぞき込む。
今まで幾人もの犯罪者を目の前にしてきて、こんな目をした者はいただろうか。
田崎は未だに自分が何をしたのか、理解できないでいた。
俺は深くため息をついたあと、答えを教える。
田崎が犯した罪。
「お前は、殺人を犯したんだよ」
嘘だと泣き叫ぶ田崎には、もうこれ以上の取り調べは難しそうだった。
何が起きたのか。
それはこちらが知りたい。
もう一度初めから証言を洗い出すしかない。
おかしくなりそうなのはこちらだと思いながら、俺は取調室を後にした―—
◇ ◇ ◇
「金ねーな」
田崎秀一郎と書かれた通帳を睨みながら、何もない部屋でため息をついた。
最後に入ったバイト代も底をつき、このままだと家賃すら払えない。
「さすがに無職で家無しはヤバいだろ」
どこでどう間違えたのか。
ちゃんとした大学を出たものの、何社も受けた就職面接は全落ち。
そこから転落人生は始まった。
うるさい親たちは地元に帰ってこいと言ったが、何もない田舎に今さら帰る気などなれなかった。
だからコンビニや日雇いバイトで食いつないでいたが、店長と喧嘩をしてコンビニはクビになった。
それがつい先月。
その後、短時間バイトのみを繰り返していたらこの有様だ。
「どーすっかなぁ」
実家に帰るのは最終手段として、なんとか食う金と家賃だけは稼がないと。
いつものように短時間バイトをスマホで漁り始めると、ふと一件の、おかしな募集に目がいった。
深夜の散歩好きな方必見!
夜、猫を探すだけのバイトです!
指定された道を通り、猫を探すだけ。
誰でも出来る簡単な仕事です。
※情報漏洩防止のため、携帯電話等はスタッフがお預かりいたします。
時給3500円+深夜手当 募集数1名
「おいおい、これって」
ちょっと前にSNSで噂になってたヤツじゃねーか。
猫探しとか言って、実はみたいな。
でも時給いいよな。
しかもこんな好条件なのに、誰も応募してない。
「でもなぁ……さがにこれは……どーすっかなぁ」
スマホと睨めっこをしていると、大きく腹が鳴った。
空腹。
それは何物にも代えがたく、気づけばオレは応募していた。
仕事は、いかにもだった。それでも日当にして一万円。
食っていくには必要な金だった。
でもそこから仲間扱いされ、いろんな仕事が回ってきた。
真っ黒からグレーなものまで。
こんなオレでも、踏み越えちゃいけないラインを自分で作っていた。
直接的な闇……黒には手を出さないと。
一軒一軒家を周り、工事があるからと伝えた時の反応を報告する仕事。
家人の帰宅時間や家族構成を調べる仕事。
世間であふれるその先を知ってはいても、直接そこに手を出してはいない。
だから自分は、自分だけは大丈夫だと勘違いしていた。
「ったく、なんだよ。先週まで仕事を押し付けてきたヤツ、飛んだんかよ」
闇バイトのおかげで食うには困らなくなり、家賃も払えた。
でもそれだけ。
別に裕福な暮らしが出来たわけでも、貯金が出来たわけでもない。
そう、そんな微々たる金額だ。
だから継続していかなければ、また来月同じ状況になってしまう。
それなのに仲介屋の電話は現在使われておりませんと言うだけ。
捕まったのか、逃げたのか……。
おいおい、あと何日食えるんだ?
狭く暗い部屋で、
新しく名前の知らない千円札のオジサマが数枚だけ。
「これじゃ、すぐ食えなくなるだろ。困ったなぁ」
別に何もイイモノが食べたいわけじゃない。
でも子どもの頃から兄弟に揉まれ、毎日食事で争ってきたオレは、大人になると腹を満たすことに執着するようになってしまった。
とにかく食べたい。腹が満たされるなら、それはどんなものでもいい。
ああ、こんなことなら自炊とか覚えておけば良かったな。
部屋の中を見渡せば、コンビニ弁当やカップ麺のゴミが所せましと占拠していた。
「だる」
現実から目を背け、またスマホを見る。
「んぁ、なんだこれ?」
タザキ様と書かれたメールが一通、届いていた。
それは前の仲介屋からの紹介で、仕事を振りたいというものだった。
怪しすぎるだろ。
しかもアイツ、オレの個人情報売ってやがったんだな。
どうするか。
やならない方がいいに決まってる。。
前の仲介屋が捕まったなら、オレの情報が警察にバレるのも時間の問題だ。
どうするか。
闇バイトだと知りませんでしたって、通るか?
いやでも、実際大したことしてないし。
大丈夫だよな。
変な汗が手をじっとりとさせていく。
「あー、どうするんだよ、これ」
いくら考えても、まとまることはなく、ただイライラが募るだけだった。
かきむしった皮膚からは血が滲み、ヒリヒリとする痛みで、ようやく手を止める。
「やっぱ、逃げるか」
そこまで考えつつも、ついどんな仕事なのか。
好奇心に押され、オレはメールを開いた。
誰でも出来る簡単なお仕事
しかも今回は長期のため、特別手当付き
他人と同じ空間にいても苦ではない方等募集します
期間は明日より一週間(休憩時間含む) 定員三名
勤務地 閑静な高級別荘地
仕事内容 観察
報酬 五十万円(手当含む)
「おい、五十万ってなんだよ。いつもの比じゃねーし。でも、観察でこの拘束期間ってことは、その場で交代か待機か」
閑静なってことは、どうせ山奥なんだろ。
んで、別荘の見張り。
何のためになんて聞く奴は採用されないどころか、向こうに握られてる個人情報すら危うくなる。
やるか、スルーするか。
このメールが来てる奴らが選ぶ選択肢など、そこしかない。
「どーすっかな」
金額はおかしなぐらいいい。どう見てもマトモな依頼ではない。
しかも一週間、他の二人と一緒っていうのは正直嫌だが、それ以上の価値はある。
やらない方がいいのは分かってる。
見る前だって、ダメだって思ってた。
なのに―—
また腹の音が鳴る。
何か食べたい。それも腹いっぱいに。
それには金がかかるんだ。
腹か、人生か。
こんなバカな選択は誰もしないだろ。
そう思いつつも、オレは応募しますと返信してしまっていた。
仕方ないじゃないか。
食っていくためには、金がかかるんだから。
そう、現実から目を背けた。
翌日の夜、指定された場所へ行くと二人の男が待っていた。
一人はややでっぷりとした体形に、秋だというのに半袖で汗をかいている男。
もう一人は細く色白で、神経質そうな眼鏡の男。
お互いに顔合わせし、軽く挨拶をすると用意された車に乗り込んだ。
「本名はあれなので、コードネームで呼び合いましょう」
神経質そうな眼鏡が車の後部座席から、そう声をかけてきた。
この車を運転するのは、やや太った男。
汗が尋常ではない以外は、少なくともこの眼鏡より愛想もいい。
「んじゃ、ボクはハートでよろしくっす」
にこやかに太った男が言うと、思わず俺も眼鏡も吹き出しそうになる。
まったく、どこの世紀末ヤローだよ。
「僕はそのまま眼鏡で」
「オレはどうしようかな」
基本的に一人の仕事ばかりで名前なんて考えてもなかったな。
でもまぁ眼鏡が言うように、この関係は一時的なもの。
しかも仕事内容は、まぁ、いいもんじゃない。
本名を名乗るのは、バカすぎるか。
「じゃあオレは
「猫好きなんすか?」
隣に座るハートに言われ、ふと考える。
オレは猫が好きだったか?
だけど山奥に連れていかれて、別荘でという文字だけで、何か昔読んだ本を思い出してそう言ってしまった。
「いや、犬派だな」
「何派でもいいですが、指定された場所から察するに、おそらく一週間車に缶詰です。どうしますか?」
「おいおい、一週間風呂もナシかよ」
この汗だくのハートがこのまま一週間って、キツイだろ。
綺麗好きではないオレも、さすがにいろいろと考えてしまう。
「川とかないっすかねー。さすがに水浴びしたいっす」
「一応、歩ける距離にはあるようです」
「そりゃよかった。そんな山奥じゃ、車も動かせないだろうからな」
さすがに水浴びするには寒くなってきた頃だが、タオルを濡らして体拭くくらいならいいだろう。
となると、このまま別荘へ一直線に向かうのはマズイな。
「一週間分の食事やらタオルなんかは、どこかで買うしかないな」
ちと痛い出費だが、さすがに向こうで自給自足なんてのは無理だ。
そのまま食べれるようなものを買うしかないな。
二人はオレの提案に賛成し、途中コンビニで買い物をした。そしてそれをトランクに詰め込むと、オレたちは指定された別荘へ向かう。
目的地は未だに人気がある、山深い高級別荘地。
その最奥に、オレたちが依頼された別荘はあった。
三角の屋根が特徴的で、広いデッキのあるその別荘は、確かに庶民のオレからしたら値段も想像は出来ないくらいの大きさだった。
ただ窓には分厚く赤いカーテンが敷かれ、中の様子を
「とりあえず、どうする?」
死角となるやや離れた木陰に車を停め、別荘を見た。
しかし到着が深夜になったせいか、電気も消えてしまっている。
「今依頼人には到着報告はしました。このまま観察を続けて下さいとのことです」
「日が昇るまでまだ四時間ほどあるから、とりあえず仮眠するか」
いくらなんでも、こんな時間に中の奴らは動かないだろ。
「休憩時間を含むとなっているので、交代で休む方がいいでしょう」
「おいおい、さすがに起きてこねーだろ?」
「ですが、契約は契約です」
見た目通りというか、なんというか。
眼鏡は神経質だよな。
オレたちにまで監視があるわけでもないのに、そこはテキトーでいいだろうに。
「はいはい。んじゃ、今日はオレが先に監視しとくから寝てくれ」
「ええ、いいんすか?」
「運転して疲れただろ。んで、朝になったら報告するから、そん時眼鏡が依頼人にメール報告してくれ。オレはそういうの苦手だ」
「了解しました」
二人の寝息が聞こえてくるのには、さほどの時間もかからなかった。
こんな山奥の、知らない奴らと一緒で、安心して寝れるもんだな。
無防備すぎるだろ。
そうは言っても、別に何をするわけでもない。
ただ窓枠に肘をつき、ボーっと別荘を眺めていた。
朝になり、交代しオレは眠りにつく。
そんな日を、六日ほど過ごした。
「おい、誰だよオレの飯食ったヤツ!」
「何をそんなに怒ってるんすか?」
車のトランクを開け今日の昼飯を食べようとした時、一つ買ったものが足りないことに気づいた。
最後の日まで取っておこうと思っていた、焼き鳥の缶詰。
スーパーなどではたまに特価になるものの、コンビニではこれでもかと足元を見られた値段だったため、よく覚えている。
少なくなったビニール袋に、その楽しみにとっておいた缶詰がない。
これを怒らずに何を怒るというのか。
「楽しみにしていたモノがなくなれば、誰だって怒るだろ!」
「でもそんな大声出すことじゃないじゃないっすか」
「ふざけんなよ! オレは食べるの命なんだよ」
「何喧嘩してるんです。対象者に見つかれば、苦労が台無しですよ」
水浴びを終えた眼鏡が、眉間にシワを寄せながら車に戻ってくる。
完了まではあと一日。
しかし元々他人と共同生活など向かないオレたちは、すでに限界が近かった。
この数日、ことあるごとにぶつかり、口論は絶えない。
だけど原因はこの依頼のせいだ。
「苦労が台無しって、だいたいおかしいだろ」
オレは対象である別荘を指さす。
「人の気配なんてないじゃねーか!」
そう。
出入りもなければ、気配もない。
分厚いカーテンの向こう側は見えないものの、人がいるようには思えなかった。
しかしそれをいくら依頼者に報告しても、七日間の契約だと突っぱねられる。
人がいないのに何を監視するのか。
意味のない仕事に、やる気もなくなっていた。
「でも七日の依頼ってことは一週間に一回、管理人とか何かが来るかもしれないってことじゃないんすか?」
「一理ある。その曜日か何かを知りたいのかもしれない」
「んなの待ってる前に、入っちまった方が楽だろ」
そう吐き捨てて二人を見れば、なんとも言えないような顔でオレを見ていた。
分かってる。
この二人もオレと同じだ。
どこかでこれが真っ黒なバイトだって分かりながらも、直接手を下してない時点でセーフだって思ってる。
だからこそ引き受けて、今ここにいる。
現実がそうじゃないって分かってはいても、つき付けられるのとはまた別だ。
「言い過ぎた」
「ボクが焼き鳥缶食べちゃったのがいけなかったっす」
「お前かよ!」
「どこまで食い意地が張ってるんですか」
「オレじゃねーし。人のを食ったヤツが悪い」
食い物の恨みは一生なんだからな。覚えてろよ。
「そんなに目くじら立てて。何かあればいいんですが、生憎先ほど僕も食料を落としてしまって」
眼鏡の指す方を見れば、外で美味そうな肉に蟻が群がっている。
「洗えば食えるだろ」
そういうと、なぜか二人は顔を見合わせ引いていた。
しかしオレは構うことなく外に出て、それを拾い上げる。
焼き鳥は食べられちまったが、代わりがあって良かったと、胸を撫で下ろした。
「考えたら、変な集まりですね」
最後の日の夜、眼鏡がそう漏らした。
出身も違えば、年齢や経歴も違う。
普通ならば出会わないようなオレたちが、こうして一週間も同じ時間を過ごしてきた。
任務は明日の朝まで。そこで解放となる。
「確かに。やっと帰れるな」
変な達成感が酒も入っていないのに、饒舌にさせた。
「眼鏡の大学一流じゃねーか。なのに、なんでこんな仕事してんだよ」
なんとなく始まった身の上話。
深夜だというのに、オレたちはただ無邪気に盛り上がる。
「一度就職しましたが、上司と折が合わず。精神的にダメになって働けなくなって、ですね」
「上司クソだな。オレも大学は出たが就活全部ダメで、今この有様さ。ハートは?」
「医師免許に三回落ちちゃって、親から勘当されたんだ」
「医師⁉」
人は見た目に寄らないというか、医師免許ってことはそっち系の大学だったってことだよな。
二人とも、俺より頭いいじゃねーか。
でもそれでも人生に失敗するのか。
なんだかなぁ。
「似たり寄ったりだな」
「まぁ、こんな仕事に参加してる時点で同じようなモノですよ」
「言えてるっす」
これだけ話せる仲間や友だちなど今までいたことはない。
そう考えると残念な気もするが、所詮は闇バイトで集まった仲間。
深くかかわらない方がいいに決まってる。
ため息交じりに別荘を見れば、その中がやや明るく見えた。
「お? 人か?」
そう声を上げれば、二人もすぐさま別荘を覗き見る。
「何か見えましたか?」
「ん? いつもと一緒じゃないっすか」
「見間違いか?」
確かにあの分厚いカーテンから少し光が漏れていたように思えたのだが、再び見ればこの一週間何も変わり映えのしない別荘があるだけだった。
「おかしいな。光が漏れてた気がしたんだが」
「どうでしょう。見間違えでも、一応報告してみますか」
そう言いながら眼鏡がいつものように定期報告をする。
しかし問題はその先だった。
「ん?」
「どうした」
メール送信画面を見つめたまま、眼鏡が首をかしげる。
スマホをのぞき込めば、送信失敗とあり、画面には紙飛行機がUターンしてくるのが見えた。
今までこんなことは一度もなかった。
オレは急いで自分のスマホを確認するも、電波はある。
「おいおいおいおい」
嫌な予感がして自分のスマホから依頼人にメールを送るも、同じように失敗とあるだけ。
「まさか、こんな時に飛んだんじゃねーよな」
先ほどまでの楽しい打ち上げのような雰囲気は、一瞬でかき消されていた。
「どーなってるんだよ!」
「そんなの僕も聞きたいですよ」
朝になってもメールは送信できなかった。
試しに仲間うちで送信したメールはきちんと送れている。
つまりは、問題は向こう側。
「給料も振り込まれてないっす」
ハートがスマホで確認しながら肩を落とす。
この一週間はなんだったのか。
ただむさくるしい男たちと、一台の車で窮屈でしかない生活をしただけ。
しかもこの依頼が本当に何だったのかも分からぬまま、金も手に入れられずに終了となる。
「おい、行くぞ」
「行くって?」
「決まってんだろ。オレたちが元の依頼を完遂するんだ。今度こそ雇う側になるんだよ」
「危険すぎるっす」
「でもやならきゃ、いつまでもオレたちは使い捨て側だ。もう、いいだろ。あっち側にいっても」
「……」
境遇は皆同じ。もう進むより他に道はなかった。
グレーから黒へ。後戻りなど出来ない。
このまま手ぶらでなんか帰れるかよ。
ここで生活するために、金は使い切った。
帰ったところで、食べる金もない。
悪いのはオレたちじゃない。みんな他の奴らのせいだ。
「……」
オレが先頭になり、息を殺しながら別荘のドアに手をかけた。
「⁉」
すると不用心にも鍵はかかっておらず、ドアが開く。
玄関に入ると、中は外と比べ物にならないほど春のように暑かった。
オレたちは無意識のうちに、上着を玄関の下駄箱の上に置いた。
そして靴も脱ぎ、音を立てないようにそっと中を進んで行く。
すぐ左手の部屋から、いい匂いがあふれていた。
オレたちは顔を見合わせ、一気にその部屋に突入する。
奇麗なダイニングには、木製の高級なテーブルが置かれていた。
「飯だ!」
テーブルの上には、今作ったばかりと思える食事がたくさん並ぶ。
骨付き肉に、ミネストローネ。
どれも全て、いい匂いがした。
途端に尋常ではないほど、空腹が加速していく。
食べたい。今すぐ食べたい。ああ、食べたい。
「なんで住人はいないんだ?」
テーブルに駆け寄るオレとは違い、二人は警戒して辺りを窺っていた。
確かに食事は出来たてだというのに、人の気配はない。
それならば、誰がこの食事を用意したのか。
元々、この別荘には人の気配などなかった。
そう思えば、おかしなところだらけだ。
しかしそれすら考えられないほど、食べたくて仕方がない。
喉から手が出るほどの空腹と渇き。それがオレを支配していた。
「どーでもいいから、まず食おうぜ!」
金目の物も住人も、食べてから考えればいいだろ。
「急いで食べちゃえばいいっすよね。温かいご飯なんて、久しぶりすぎる」
「それなら……」
三人でテーブルに座り、食事についた。
何を食べても
人生でこんなに美味いものなど食べたことはない。
無言を通り過ぎ、二人の顔を見る余裕などないくらい、ただ食べた。
そう、食べて食べて食べて食べて……。
「うめーうめー、なんの肉だこれ。サイコーじゃねーか」
骨の付いた肉にかぶりつけば、ハリのある皮が歯にあたり、さらに力を入れるとぷつりとかみ切れる。
中からは大量の肉汁とじゅわじゅわ滝のようにと溢れ、口元をぬらりと濡らし、あっという間に骨まですぐに到達してしまう。
肉質はやや繊維質があるものの、噛み応えがあり、噛めば噛むほど味が出てきた。
ほんの少し、臭み? 獣臭か。
いや、それすら美味いと思えるほど肉は濃厚で味わい深い。
初めは行儀よくフォークとスプーンを使っていたものの、気づけば汚れることなど気にせず手づかみで食べ始めていた。
いくら食べても飽きがこず、どれだけでも食べれてしまう。
何という料理なのだろか。こんな味食べたことがない。豚……羊……、いや、もっと大きく食べ応えのあるナニカ。
生焼けかそもそも生肉なのか、かぶりついた肉から血がしたたる。それすら味わい深く、口の中に広がる鉄の味すらも上品だ。
「ああ、うめーな、これ。食っても食っても止まらねーよ」
オレは肉から滴るその血を、
誰にも渡さない。オレだけの食事。
ああ美味い。美味い。美味い。美味い。
ねっとりと食材たちが舌に絡みつき、胃だけではなく心まで満たされていった。
こんなに美味しいものが食べられるなら満足だ。
やっぱりオレにはこちら側の才能があるのかもしれないな。
グレーなんかでちまちま稼ぐんじゃなくて、今度からはオレが闇になればいい。
今日からオレもこちら側で、人のうまい汁を吸ってやるんだ。
「さむっ」
幸せに浸るオレの意識が、どこかから吹き込む冷たい風で引き戻される。
玄関も窓も締まっていたのに、誰か帰ってきたのか?
意識も視線も上げたオレの目に飛び込んできたのは、今まで見てきた景色とは全くの別物だった。
白い埃のかぶる室内は荒れ果て、壊れた窓からは大量の落ち葉などが部屋に吹き込んでしまっている。
もう何十年も使用されていない。
そんな変わり果てた別荘の室内だった。
「なんだこれ! どーなってんだよ! おい、眼鏡! ハート!」
ダイニングの椅子から転げるように、横たわる二人。
近づいたオレは、自分の目を疑った。
「ひっ!」
変わり果てた二人。
しかし恐る恐る触れるとまだ温かい二人は、今さっきまで生きていたらしい。
何で二人が死んでるんだよ。飯食ってる間に、何があったんだ。
夢中で食べてる間の記憶がないなんてことあるのか?
でも食べてる時の二人の声を聞いた覚えはない。
二人はまるで獣にでも
「なんだよ、どーなってるんだよ!」
この部屋だってそうだ。さっきまでこんなんじゃなかったのに。
確かに別荘に入った時は、小奇麗に掃除されて食事まで用意されていた。
しかしそれが一瞬のうちに、廃屋になって二人が死んでるなんてどう頑張ったってあり得ないだろう。
熊でもいたのか?
いや、それだけじゃこの有様は説明できない。
それにもし熊がいたのなら、オレだって無傷じゃすまないはずだ。
飯を食べていた時間なんて、そうも経過していない。
あいつらから目を離したのだって、夢中になってたほんの一瞬だけ……。
「本当にそうか?」
この別荘に入るまで、人の気配なんてなかった。
むしろ初めから廃屋だったという方が正しい気がする。
「でもじゃあ、あの食事はなんだったんだよ」
出来たてで湯気を立てる美味しい料理たち。
確かにオレはそれをむさぼり食べた。
あり得ないほどの食欲に駆られて。
「あれはなんだったんだ?」
思わず口を手で押さえると、ぬるりという生ぬるく気持ちの悪い感覚が伝わってきた。
食べこぼしか?
しかし手についていたのは、どこまでもどす黒い血液だった。
うわぁと短い叫び声をあげ、手を振れば、反対側の手に黒い人の髪の毛が絡みついているのが分かる。
「嘘だろ、おい……」
もう一度二人の死体を見る。
獣に齧られたような跡、なくなった肉片。
そしてオレの口についた血液……。
嗚咽とともに、何度もその場でオレは吐いた。
そして動けなくなり、警察へ自ら通報した。
オレは悪くない。
オレじゃない。
だっておかしいだろ。
オレはただ飯のために、生きていくためだけに仕事をしただけなのに。
何度もそう繰り返しながら―—
◇ ◇ ◇
闇バイトに応募した末に仲間を喰い殺した田崎秀一郎が、収監先で亡くなった。
何でも、自分で自分を食べたことによる止血死。
しかし解剖の結果、奴の胃の中は空っぽだった。
何をどうすればそんな状況になるのか。誰にも説明はつかなかった。
「先輩、なんか凄い事件でしたね」
調書を眺めながら一息ついたことろで、後輩が俺に声をかけてきた。
刑事になったかなり経つが、確かにこんな事件は初めてだった。
「ただ闇バイトに応募しただけだって、あんなに泣いてたのに」
「ただって、あの別荘に侵入したのにか?」
「まぁそうですが」
初めは確かにグレーだけだったのだろう。
しかしそれに満足することもなく、自分の欲に負けて奴らは闇に染まった。
「まぁ、刑事としては言ってはダメだが世の中は自業自得の世界なのさ」
「でも……それにしても何を見たんですかね、あの廃別荘で」
「さぁな。でも闇バイトって言うくらいだ。深淵を覗くものはまた深淵もこちらを覗いている。闇からナニカじゃねーか?」
「えー。先輩、そういうの信じる系ですか?」
「いや?」
そう答えたが、あの調書を見ていると信じるしかないように思えた。
奴は自分が仲間を喰ったと思っていたが、たぶん奴自身があの時すでに闇に喰われていたのだろう。
闇に喰われる 美杉。節約令嬢、書籍化進行中 @yy_misugi
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