Ⅰ-2
二〇二二年、一月三日。
頼んだホットコーヒーは、席に座った時にはもう冷めていた。
「翔太君の。冷めちゃってるよね、ごめん」
「いいんだ。たまに来たんだから」
「急に呼び出してごめん。仕事がひと段落してやっと帰省できてさ」
「気にしなくていいよ。僕も暇だったし、それに会ってくれるのは嬉しかったから」
「ありがとう」
本来の時間から十五分遅れて、二年ぶりにあった歩(あゆ)は、ずいぶん透明に見えた。ストレートに下ろした髪は少し乱れていた。急いで走ってきてくれたのか、風のせいなのか、それは分からないが、そう真っ直ぐに言ってくれたと解釈し、翔太は歩の声に少し頬を上げて、微笑んで見せた。
『喫茶店にでも入ってて』
そのLINEを着信したのは、正しい待ち合わせ時間の五分前だった。一月の初旬、正月三が日から抜けてすぐの、忙しない博多駅構内にある大エレベーターの前に、デニムジャケットの下に隠れる前開きの毛糸のセーターを着て立っていた翔太は、すぐに近くのコーヒーショップの候補をグーグルマップで調べてそこに入ることにした。
地下一階にある店は、銀色の看板に白い電球が明るく、夢みたいに清潔でおしゃれな雰囲気だった。たまの帰省くらいもてなしてあげようというつもりで、自分と相手用に二つコーヒーを頼む。しかし同じ名前の店が同じ建物の地下一階と一階にあるせいで、お互いに間違えて時間をロスしたことに気づいたのは、その少し後だった。
「ごめん、上の階の同じ店に入ってた」
現れた歩は、この駅構内を吹き抜ける風にも十分に耐えられるピンクのコートを身に纏い、慌ただしく目の前に立つ。
互いに鉢合わせしたのに驚きはしたものの、特に何もなく、挨拶もそぞろに歩き出し、二、三会話を連ねる内に、翔太が地下一階の店に荷物を置いてきたために、そこの店に落ち着こうとなった。
店の前に着くと、翔太が何かを言う前に、歩は既に入店し、自分のドリンクを頼もうとしてカウンターに立った。
「頼まなくていいよ。もう用意しといたから」
「え?」
歩は自分でドリンクを選びたいと思っていのだろうか。ドリップコーヒー二百五十円をキャンセルするなど些細なことだと思った。
「そうなんだ。ありがとう」
だが、その事実を知ると歩は真っすぐに、翔太が用意したソファ側の席に座った。
翔太は店員に番号札を渡すと、もう一つのコーヒーを待った。差し出された淹れたての熱いコーヒーマグを持ち、対面のパイプ椅子に腰かけて差し出し、歩は受け取る。
彼女はマスクを取り、机の横に置く。翔太もそれを見て同じ動きをし、声をかけた。
「仕事の調子は?」
「ようやく落ち着いたけど、また春になれば繁忙期になって、余裕ないかな」
「そっか、年末年始は大変なのかと勝手に思ってた」
「公務員は年度末が大変だから、今は帰省してる、でもやっと帰れた、余裕なくてさ」
「東京、大変だろ」
「うん。職場と自宅の決まった道を行ったり来たり、何ていうかほんとそれだけで」
「そうか」
「彼氏とはうまくやれてるかい?」
「……うん」
そう言って微笑んだような、安堵したような、そんな満足げな顔で頷く歩に、翔太はこの質問で彼女に求めていた本当の反応を忘れるように、冷静さを保とうと話題を振った。湯気を失ったコーヒーは、手を付けてさえいなかった。
「あ、でも就職試験は受かってよかったんだよ。翔太君のおかげだからさ」
「役に立てたんならいいのさ」
「立ってるから。それで渡したいものがあったの」
歩が差し出したのは、濃紺の紙袋だ。開けていいかと尋ねると、歩が頷く。指で閉じた紙を開けようとしたが、このまま力を加えると開け口が汚くなるから、指を変え丁寧に解くと靴下とハンカチが出てきた。どちらもポロ・ラルフローレンのものだ。
自分の所得では買えない、立派な贈り物だった。
「お礼がしたかったけど、プレゼントにしたって何していいかわからなくて」
「十分だよ」
翔太はしばらく品物を眺めて、開いた口に貰い物を入れると、ナイロンのメッセンジャーバッグの中に入れた。
コーヒーは既にコールドで注文したかのように冷たかったが、歩と会って話している間はそんなことを気にも留めない。それからお互いの近況を二、三話して、翔太は歩が自身の左手首に巻いた真新しいアップルウォッチに目配し始めるのを見た。
「そろそろ時間じゃない?」
と気を利かせて言いかけた時、スマートフォンに着信が入って歩は電話に出る。
「はい、はい。今から出て行きます」
スマホを切った歩の表情は、次の場所への関心に移っているように、翔太には思えた。
「次は誰と会うの?友達?」
「お母さんと」
「そっか。もう出よう」
そして一時間ほどの久しぶりは終わりを迎え、立つ前にあいさつをする。
「会ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「こっちこそ、私に会ってくれてありがとう」
歩は会釈して、翔太も会釈し返す。
二人は店を出て、コンコースを互いの道が分岐するまで歩いた、
「今度はゆっくり福岡のいいものでも食べよう」
「またいつ帰省するか分からないけど、今度来たらまたね」
「うん。いつでも暇開けるから」
「本当に、お礼も遅くなってごめんね」
「いいんだよ。今こうやって歩くなんて、君としたこともないことだから」
夢みたいだ、そう翔太は言った。歩は何とも言えない顔をして、コンコースの真っすぐな道を見た。軽く手を挙げてじゃあね、と言うと、すぐに歩は翔太に背を向け、自動ドアの向こうの建物の中へと速足で歩き、その場から去った。
彼女の姿が消えるまで、そこで立っていた翔太は博多駅正面の大きくウェーブを描いた屋根の下から覘く青空を見る。
翔太には、何の予定もない。
歩の公務員試験論文の添削を頼まれたのは二年前だった。東京の有名私大文学部を卒業し、小説や論説を読むのが苦にもならない翔太にとっては、初めほんの人助けをするくらいの心持で、職場から逃げたいという彼女を手伝ったに過ぎなかった。
彼女は次の戦場に行った。
今でも鮮やかに覚えている、ドロップボックスに入れた何度ものやり取りを示すワードファイル、試験前夜に緊張した歩を励ましたこと、歩がポストに投函された採用通知を読んですぐに連絡を入れてくれて、それを一緒に喜んだこと、そして新生活の節々に連絡しあっていろんな話を聞くうちに、ごみ箱に捨てるはずで忘れていたフォルダの中に見つけた彼女の文字が刻まれたファイルを愛おしく思ったこと、そして一か月前、最近久々に持ちかけられた相談で解った彼女の悩みが、東京でできた恋人との意見のすれ違いだったこと。
そして今日、それは過去になった。
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