イノセントゼネレーション

羽田和平 Kazuhei Wada

Ⅰ 一般論

Ⅰ-1


自分が際立つことではない。

ただ隅で生きていたい。

だが、際立たせて飾らなければ、隅で生きていくことすらも許されない。

だから無理をしなければならない。

社会は競争だ。

自分はあまりにも無防備だ。


 そんな確信めいた思いを感じたことがある。


 それは皆と同じように勉強して、中学を卒業して、

周りから文句も言われようがない偏差値の高校で当たり前に勉強を続行し、

そして四年制大学に入って『この時にしか遊ぶ時間なんてない』と言われて

血眼になって遊ぼうとしていたあの時期も超えて、


いよいよ何の色も余裕もない社会人にまんまとなってしまったあとに、

その通勤電車に揺られながら考え着いたときから始まっていた、


社会人として、大人として生きるにはバグとしか言いようがない感情か考えが


ふと芽生えた瞬間、そう考えた時から、自分でも不思議なほど、

人生の凡てに意味も意義も見いだせなくなった。


 日本は不況だと言われた頃に生を受け、

 君たちの可能性は無限大とそそのかされ

 にも拘らず、

 いやそうであるからこそ、

 君のやりたいことは何?

 夢は?

 強みは?

 年収はどのくらい稼ぎたくて、どのくらいの市場価値があるの

 と問われ続ける世界で、生きていくだけの『個性』というやつを見つけたくてしょうがなくてもがいていた。


 それはやがて必要になる、馬鹿な政府が試算した十分な貯蓄と最低限の社会的見得のためには、なくてはならないものだと急かされているように思えて、

 そしてその状況は、自分を取り囲む環境は、かつてあの教室の中で周りに虐められない人間になるために、

 馬鹿にされないために

 当たり前に勉強できることを望み、そしてスポーツで恥ずかしくない動きをし

 クラス対抗のドッジボールで活躍すれば持て囃され、さもなくば外野に弾かれて置き去りにされたあの子供時代の八方から向けられた人の目という枠に、

括りつけられた時代とそっくりそのまま変わらないことに気づいたからだった。


 三十代だ。

 何もそんな大昔の過去にとらわれているという意味ではない。


 どこまで行っても、終わりの見えない権利の主張と自己証明と自己弁護と、迫りくる脅威に備え続ける事に疲れたという方が正しい。


 手触りをもって何かを達観できたわけではない。

 でも違う。

 何かが違う。


 そういう感性が清潔さを求めるかのように、疼きだし、世間とずれて動きだす

 こんなことでもしなきゃ生きていけない、

 でも、こんなことしたかったわけじゃない。そんな言葉で。


 そんな説明のつかないことごとくのことを、

彼は自分の運命のせい、

魂のせいだと思うようになっていた。


 二年前、福岡の平尾の山の斜面に大きな邸宅を持ち、やがて始まる福岡の大規模都市再開発に絡む土地を所有していた地主であった祖父が、高血圧からくる脳血管性認知症と診断された。


 祖父はいわゆる団塊の世代で、どうしようもない、途方に暮れるほどの傲慢さは抱いていたがどことなく、スピリットとさえいえるものを持っていた。


 何もかも冷め切っていた平成生まれの自分から見れば、彼は自分の体で頭で稼ぎきる、つまりこの社会で十二分に活躍できる生きるバイタリティを備えた、漫画の主人公のようにさえ見えたこともあった。


 その祖父が、生きること自体に憑かれたような顔で車いすに揺られ

自分ではその車輪を動かせることもなく、

 雇われたヘルパーの持つスプーンですくわれたお粥を、すすることもなく口に入れ、ようやく喉に通しているのを見た。


 立派な社会的成功を収め、幼少期に何でも買い与えてくれたあのエネルギッシュな好好爺は、その昔日本と米国の間で結ばれる安全保障条約に反対し、学校から革命を企てた最初の世代であることを誇りのように話していた。


 戦いを終えた祖父はその後馬鹿げたように見えるほど、あっけなく転身し、バリバリと働き、二十四時間働き、丘の上に土地を所有する資産家になっていた。


 父母にとっては近寄りがたい実家だったそうだが、祖父は立派な甚平と下駄の姿で両手を広げては、立派な玄関の前で待ち受け、広い居間で、大きな立方体のテレビで孫たちをもてなし、食べたこともない高級な料理を振舞い、何でも与えた。


 祖父の部屋には立派な額があり、その中には宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が達筆な文字運びで鎮座し、『こう生きたい』、『こう生きねば』、そう合弁して自分の人生訓を人に押し付けながら、時折酔っぱらうと顔をしわくちゃにして


『わしは何も間違っとらん』とたまらなく寂しい顔で言っていた。


その祖父が、今や普通の言葉で受け答えることもできない。


 しかし、彼の幼いときによく歌っていて、正月に実家に行くとよく口ずさんでいた『証城寺の狸囃子』という童謡を、歌う時だけ生気を取り戻し、一連の歌を口ずさんで元の抜け殻に戻っていく様もまた見た。


『まけるな、まけるな』

というフレーズを繰り返し聞くうちに、人生というものに信用など置けなくなっていく自分の認識は、ますます強固になって世間体すらも、超えて行ってしまい、そして彼は辞めなければ何の文句も言われる筈もない新卒で決めた営業の仕事を辞することになった。


 彼の親は、彼の人生最大の選択に為す術はなかった。

 二十を超えたら社会人で、それ以降はその人の責任であるから、私たちの老後に何もしてくれなければ、つまり損害を与えなければ好きなように生きていい、そういう時代だと、自由な時代だと半ば背中を押した。


それは言い換えれば、親の教育の敗北であり、目まぐるしく変わる世界の中で、親もどう子供を導いていいか分からないのだと思った。

あと幾度言葉を交わせば、平行線は交わるのかとうんざりした時、これ以上は高望みだ、苦労は掛けられない。そういう考えが頭をよぎった。


 その後非正規とバイトを転々と渡り歩き、続けられるようなものは何も見つかることなく、時だけが過ぎた。

 致命的にどんくさく、何をやっても続かない自分が、この先何ができるのか。

考えるだけでも、途方にくれた。


 そして人生は……生きていれば何かがあるという楽観的な見通しを 

即ちあの点々と瞬いている、視界に広がる漆黒の空の星のどれかが、自分にしかない希望の灯台で、とにかく歩けば、とりあえず歩けば、なんとなくきっとその道に導かれると信じて歩こうという楽観的な見通しが、まるでなにも役に立たない方位磁石だったと知るまでに、三十歳までかかってしまった。


 だから、あまりにも無駄に過ごした自分の罪を滅ぼすかのように、人の話を聞くことに、人生の自由を見出したのは、至極当然だった。


 生き永らえるために得た仕事の仲間の中に、自分が偶然出会った知り合いの中に、人生が躓いて動けない人がいれば、仲良くなったその関係の濃さに合わせて、アドバイスしたり、飲みに行って愚痴を聞いたりした。


 それは彼にとって、ただ一つの生きがいと確かに言えるものに思えた。


 ただしそれは、金にはならなかったし、金にすべきものでもなかった。

したがって、最も大きな命題から彼を救済しなかった。


助けたい人を探しているだけだということに気付いた時、これも消えた。


 見返りを望んだり何かを蓄えることを、彼の純粋なる魂が嫌ったのだった。


 この魂は今、田中翔太という、翼の朽ちた衣を着ている。

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