Ⅰ-3
博多駅の正面扉にある四基のエレベーターの裏は、二対のエスカレーターが内向きに設置され、その真ん中には湾曲する巨大なスクリーンがある。
一枚一枚が大型テレビのパネル並みの大きさのそれが連結された迫力のある画面から、アメコミヒーロー映画やアニメ、ドラマの広告が放映されているのを見た。
翔太にはすべてが大げさに見えるだけだ。
映像のすべてが終わる前に、足早にその場を去った。
新春のセールや、特産品の出店には目もくれず、翔太は城南区の学生街に近い住宅地の一角にある、安マンションに自転車を走らせて家路に着き、鉄の鍵を捻ってワンルームの部屋に腰を落ち着ける。
日当たりは良好で、今日は特に冬の真っ白い日差しが部屋に降り注いでいる。
翔太の部屋はビジネスホテルの一室のようにシンプルで、彼の興味を持つもののなさに合わせるように何も飾り立てるようなものがなく、それは十分ミニマリストと呼ぶ資格があった。買った本も漫画も読まなくなれば売るか捨てていったし、服もできるだけ少なく、ユニクロで下着をあらかじめ七本ストックしておいて、同じものを週末にまとめて洗ってシステマティックに着ている。
余所行きの格好をするための服は、普段は着ない。その洗濯機の上につっかえ棒で作った自作のクローゼットに置いておけば、日が当たることはない。
何気なくスマートフォンの画面を開き、YAHOOのトップページにあるヘッドラインを読んでいく。結局天気が一番の関心事だ。最近は穏やかな冬の晴れ間が続いていて、雨が降ることはなさそうだ。
これから午後までぽっかりと空いてしまった時間をどう過ごすのかを考えるなら、この掌で動かせる端末を虚ろに眺めていればいい。だが翔太は早々にそこからは手を引くことにした。そして社会人になってから買ったウィンドウズ10のPC端末を開くと、デフォルトの壁紙に浮かんでいるフォルダを開き、当初予定していた通り、歩とやり取りしたワードの一切合切をまとめてごみ箱に入れて、右クリックのちに削除を押した。
その時、PCのデスクトップに残っていたLINEのアイコンがオレンジに点滅するのを見とめた。カーソルを合わせて画面を開くと、大学の時に所属していたサークルにいた中村杏子から連絡が入っていた。
『あけましておめでとうございます!!』
『おめでとう、よろしくね』
文末に打った門松は久々に使った絵文字で、置き所に少し困った。
『お子さんは元気?』
と打つとすぐに既読になる。
すると文章もなく、画像が送られてくる。柔らかい布とオレンジの光にくるまれてこちらを見る黒目の赤ちゃんに、その隣でスマホを掲げて自撮りをした若い母親、清水杏子の顔だった。
『ハルちゃん!』
赤ちゃんの名前だ。にこりと笑う絵文字に、思わず返信する。
「可愛いね。もう退院したんだっけ?」
『はい』
また同じ顔文字が付けられていた。
そして文章は別の話題へと続いた。
『先輩も知ってます?』
『なに?』
『サークルの十期皆でまた集まるらしいんですよ、しまちゃが言ってました』
グラサンの絵文字がやけに、したり顔のようにも見える。
『しまちゃ?』
『副幹事の島崎さんですよ!知らない?』
『ああ、君は一個下だろ?呼び捨ては珍しいなって』
『島茶はそれで大丈夫。友達多いもん。けど私は行けないし』
『ああ。そういうわけね』
『そうじゃなくてもハルちゃんで行けないからどうだったか教えてほしくて』
『このタイミングで集まれるの?』
腕を組んだ絵文字、そして新しい文字が届く。
『行く気ない?』
口を手で塞ぐふざけた顔の顔文字に返事をするつもりで文字を打つ。
『そうじゃないけど、皆忙しいでしょ?』
返信後、そのメッセージはしばらく既読にならなかった。
サークル。
大学在学中に翔太がやっていた活動だ。
市内のいくつかの大学が共同して主催していた広範なもので、九十五年から発足し、弛むことなく運営されてきた組織だった。鹿児島の田舎から福岡大学に入学して、しばらく入寮生活をしていた翔太にとっては、この地で新しい友達を作るには絶好の機会で、そして最初にその場所へ足を踏み入れた時のまさしくアットホームな感覚は、今でも忘れがたいものがある。
彼らは参加者がバイトで貯めた金をサークル費として集めるだけでなく、皆で公園での清掃活動をやったり、フリースペースを半日借り上げて小学生のためのちょっとした塾をするなどして得た活動資金を元にして、地域に何気なく立っている町内看板に、子供のレクリエーション、学校の勉強の手助けなどの前向きな活動を掲示し、人を集めて『善いこと』をしていたコミュニティだった。
翔太が大学に入った頃は、インスタグラムがサービスを開始した直後であり、またツイッターがリツイートシステムを実装して間もなくで、そのサークルはSNSの力をおおいに活用し、若者の交流のためのハブとなっていった。
SNSが隆盛を始めた二千十年代前半、東日本大震災が起きたのもその頃だった。
九州では新幹線開通と同時に起きたあの大災害を、当時遥か離れた場所の大学寮で、翔太はベッドの上から起きることもできずに見ていた。キャンパス内では廊下でも教室でもその話題で持ちきりだったが、一体どうすればいいのかは分からなかった。
「うちらにできることなんてなくない?」
そのひそやかな言葉通り、どこまでいっても何をやっても応えることなどできはしない、そんな無力感に覆われていた。
自分もコンビニにおいてある募金箱を見た時は五円でも十円でも、お釣りを入れたりはしたものの、何かしなければならないはずだという疼きをどう処理していいか分からず、そこで流される状況と情報に流されていた。
そんな中で、『スピリット』と名付けられた社会活動サークルはあの頃、類を見ない隆盛を誇っていた。
『今、私たちにできるいいことをしよう。辛い時代に見つけよう。夢を抱こう』。
それがキャッチコピーだ。
今考えれば、あの惨状から遥かに離れたあの場所で、何かしたいと考えた学生たちの行き所を、政治運動にも巻き込むことなく、まして宙に浮いた自己啓発に導くわけでもなく、今この場所に有益に作用する場所へと流し込んでいたように思う。
しかしそれは『青春』という偶像を追い求める学生たちの、エゴの受け皿になったこともまた言うまでもない。
学校をまたぐ交流が可能という便利さに便乗した愚か者たちの巣にもなっていたのもまた真であった。学外活動という名のものとに思い出作りがしたい人間たちや、いいことができたと思いたい女の子たちもいるにはいた。
だがそれは、まだSNSが不完全だったのも相まって、むしろそれを武器として学生たちの間に広がっていたこともまた本当のことだった。
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