静かな幕開け
サン・シエル町の冬は長い。それは国境線に沿った北の山間に位置する町だからだ。山の斜面に沿って街並みが形成され、下端には隣国とつながる大きな街道が通る。近隣の商業都市に向かう際に必ず経由する町だ。従って人口はそれ程多くないが田舎町の牧歌的な雰囲気よりは都市部の雰囲気に近く、町が整備されている。
この国境の町での殺人事件は深い雪の日に始まり、既に犠牲は十八名に上る。凄惨な連続殺人事件が起きているなんて、ただ通過するだけの荷馬車には分からないだろう。夜明け前の沈んだ町並みも、出歩く人間がぽつぽついるためロクテーヌには賑わって見える。テイリスが言うにはこれでもかなり人通りが減っているらしい。
煉瓦造りの町の中、街道に沿って馬車がゆっくりと走っている。馬車の硬質な音に家屋からの生活音が混ざった。稀に小鳥のさえずりも聞こえた。
街道沿いに並ぶ建物の中でも一際大きな屋敷の前で馬車は止まった。先に下りたテイリスが差し出した手をぎこちなくとる。黒髪の店主はエスコートに慣れていない。業者に代金を支払うと通りには二人が残された。
不思議な造りの屋敷だった。それなりに広さはあるが、調度品は一般的に流通しているようなものである。統一されていて趣味がいいともいえるが、屋敷の中で退屈してしまいそうだ。例えばルデジエール城であれば部屋や広間によって意匠を変えて客人を楽しませるように設計されている。ロクテーヌは目だけで屋敷の中を観察した。一つ一つのドアまで画一した形をしている。
テイリスに案内されるまま辿り着いたのは彼女の部屋と比べれば小さな、しかし落ち着いた雰囲気のある部屋だった。角部屋で、隣は空室らしい。気に入らなければ変更すると言ってくれたが、勿論その必要はなかった。
「ではこちらが部屋の鍵です」
「あら、鍵がついているんですか?」
ロクテーヌの自室には鍵を取り付けているが、一般的な家の部屋には無いものだと思っていた。本に記述がない庶民の文化には精通していない。
不思議そうなロクテーヌに、テイリスは表情を柔らかくした。
「宿屋ですから。まさか、この屋敷が全て我が家なんてことはありませんよ。広すぎるでしょう」
「そう、ですね」
「多くの方が通過する町なので、数軒しかない宿屋は結構儲かるんです」
テイリスは冗談めかして鍵を差し出した。受け取りながら、ロクテーヌは眉を寄せた。明け透けな話をしているわりに、この男の誠実そうな印象は変わらない。人柄によるものなのだろうか。サン・シエルに着くまでの馬車の中でも話題が尽きず、退屈しなかった事を思い出す。それとわからせない気遣いは、他人をよく観察している人間に特徴的なものだ。
「……それではこれからよろしくお願いします」
ロクテーヌは思考を止めて、テイリスに微笑んだ。舗装された道ばかりだったが流石にこの長距離の移動で体が疲れ切っている。しかし扉を閉める前に、呼び止められた。
「今更すみません。お名前を伺っても構いませんか? その……いつまでも貴女、ではやりにくいですし」
「必要でしょうか」
申し訳なさそうなテイリスの申し出に、ロクテーヌは首を傾げる。店主として客とやりとりをしてきた中で、名前を尋ねられたことはない。それで特に問題は無いように思う。
「……変わっているってよく言われませんか」
「どうでしょう。気にしたことがないので」
下らない噂に割いてやる時間はない。はっきり応えると、テイリスはまっすぐに正していた姿勢を崩して笑った。何が気に入ったのか、小さく肩を震わせている。
「そうですね。私が貴女を名前で呼びたいので教えてください」
「あら、断りにくい言い方に変わりましたね」
ロクテーヌは口元に指をあてて、どうしたものかと考えた。令嬢ではなく、女中でもなく、店主としての名前は何が相応しいだろうか。
「……セーナ」
ぽつり、とロクテーヌは呟いた。消えてしまった存在であり、ぴったりのいい名前だ。頷きながら繰り返す。
「セーナです」
「よろしくお願いします。セーナさん」
テイリスは紳士的に一礼した。
部屋に一人になるなり、壮絶な眠気が襲ってきた。手荷物を広げる気力もわかず、普段より固いベッドに横になるとあっという間に瞼が重くなる。小さな嘘を垂らし、ロクテーヌは一日を終えた。
深い眠りで夢一つみなかった。ロクテーヌは昼前になってようやく目を覚まし、しばらくベッドの上で丸くなっていた。山間のしんとした寒気の中、疲労がたまった状態では起きる気力も失うというものだ。黒髪のウィッグを外して眠るのはリスクが高いため、輝く金髪はきっちり編み上げ黒髪の内側に閉じこめている。これが非常に不愉快で慣れない。
小さな暖炉に火をつけて指先を温めながら身なりを整える。髪を解き休ませる間に荷物の整理を終わらせた。金糸の髪を再び編み上げてウィッグの下にしまうと、背筋が伸びた。カーテンを開いて外の様子を窺う。案内されたのは三階で、しかも通りに面していない部屋だったので開け放された窓からは木々だけが見える。
文句なしだ。ロクテーヌは机の上に用意された真っ赤な林檎を振り返った。その隣の折りたたまれた果物ナイフを手に取り、部屋の窓を開ける。冷たい風が吹き込んで身震いした。
——そしてナイフを手のひらに当て、躊躇なく切り裂いた。
窓から垂れた血液が屋敷の裏手に落ちていく。地面に染みができたが不審に思われることはないだろう。人目に付く場所ではない。
「……」
足りなかっただろうか、ともう一度切っ先を押さえたところで、強い風が窓から吹き込んだ。ロクテーヌはナイフを手放し、優雅なしぐさで窓を閉じた。
「あら面白い。やはり血の臭いには敏感なんですねぇ」
ころころと笑いながら振り向くと、フィードが鼻に皺を寄せていた。
「悪趣味な呼び出し方だな……痛くねえのか」
「痛いですよ。当たり前でしょう。涙が出そうです」
「なら、切るなよ……」
目元に手を当てて泣き真似をするロクテーヌにフィードは呆れかえった。心外だ。何のためにこの身を犠牲にしたと思っている。
「もっと効率的な方法があるなら耳を貸してあげてもよかったんですけど」
「……そもそもろくな打ち合わせもなく置いていったのはどこの誰だ」
「やだ、根に持ってるんですか」
「お前だろ」
半眼になったフィードに指をさされたが、とぼけた顔で首を傾ける。サン・シエルまでの道中、人間が使う馬車に乗らずに自力でついてこいと命じたのは人目を極力避けるためであって、決して揶揄われた腹いせではない。悲しい誤解があったのだろう。胸がすく思いでロクテーヌは微笑み、手を差し出した。
「どうぞ」
「……どうぞって、何が」
手のひらの赤く割れた傷口から血液が滴っている。容赦なく刃を立てたので傷は深く、流れ続ける血液は勿体ない。
「飲んでいいですよ」
フィードは目を見開き、白い指を這う血を食い入るように見た。そして大きく息を吸うと、目をそらしてゆっくり三歩後退した。
「飲まないんですか?」
「……やめとく」
壁を向いたままフィードは応えた。これでも若い女性の肉体である以上、自身の血肉は美味しいものだと思っていた。残念だったがロクテーヌはすぐに気を取り直した。傷は人間らしく正規の手法で治してもらおう。
手に持っていた果物ナイフを元の位置に戻すと、ロクテーヌの動きに合わせてフィードが後ずさりした。
「どうしたんです、何か変ですよ?」
壁側にぴったりと背中をつけてロクテーヌから出来るだけ距離を取ろうとしている。動きもぎこちない。
「俺は腹が減った」
「でも血はいらないのでしょう? 理解できません」
「お前は腹が減った時に一口分の料理を出されたらどう思う」
フィードは恨めしそうに問いかけた。銀のプレートに一枚だけ乗った美しいアーモンドクッキーを想像する。軽い食感もさることながら香りも素晴らしい。
「嬉しいですね。好みの味であれば」
「……そうか、腹が減ったことがねえのか」
遠い目をしていて、何だか失礼だ。人間なのだから食欲くらい湧く。意味不明の相手は放っておくことにして、ロクテーヌは部屋の扉に手をかけた。
「とにかく夜には戻ってきますから、昼間はどこにでも行ってください」
気のない返事を聞いて、部屋を出た。ひとまず無事に合流できたのでよしとする。
向かう先は屋敷の正面玄関だ。小さなカウンターが受付になっており、テイリスの居場所を聞き出した。受付にいた丸顔の女性はロクテーヌへの興味を隠せていなかった。どうやらこの宿でロクテーヌはテイリスの友人であるらしい。
本人は明言していなかったが、テイリスは若くしてこの大きな宿屋を取り仕切っていた。自室が仕事部屋になっており、朝からずっと働きづめだと受付の女性が嘆いた。屋敷に到着したのは早朝だったが、そこから働いているのだとするとぞっとする。
部屋を訪ねると、テイリスは本当に机に向かって仕事をしている最中だった。体力の違いだろうかと感心するロクテーヌに気付いて、ぎょっと目をむく。その視線が血に濡れた指先に向かっていると気付いたロクテーヌはそういえば、と思い出す。
「果物ナイフで切ってしまいまして」
「そんな……言ってくれたら私がしますから」
絶望的な表情でロクテーヌの手を取り、様子を確認する。不器用だと思われてしまうのは癪だが仕方ない。テイリスは慣れた手つきで棚から救急用具を詰め込んだ箱を下ろした。診療所でも紹介してもらうつもりが、どうやら手当の準備が進められている。
「テイリスさんが手当てして下さるんですか?」
「……いいえ。妹が」
「ああ、練習台には丁度よさそうですね。いいですよ」
ロクテーヌは快諾した。テイリスの二人の妹の話は馬車の中で聞いていた。上の妹のマリナは医者を目指して勉強中だったはずだ。テイリスは礼を言うと早速妹を呼びに行った。
部屋に残されてしまったので、ぐるりと中を観察する。一般的な一人部屋として十分な広さだが、仕事部屋も兼ねていることを考えればやや手狭である。家具は少なく、簡素なデザインのものばかりだ。綺麗に整頓されており、本棚には宿屋の帳簿などが並ぶ。数字が並んでいるだけだとしても見てみたい気持ちが沸いたが我慢した。
机の上にも本が積まれていた。こちらはしっかりとした装丁だ。あの優しそうな好青年はどんな本を読むのだろうか。ロクテーヌが知っている本だろうか。興味の赴くまま表紙に手をあてたところで、扉が叩かれた。
「早かったですね……あら」
ロクテーヌはテイリスを出迎えたはずが、扉の前には幼い少女が立っている。小柄な少女で、その目はぼんやりと宙を漂っている。
「おに、ちゃ……は?」
「今、マリナさんを呼びに行っているところですよ。アリーさん」
ロクテーヌが笑いかけるとアリーはぱちぱちと瞬きをした。頬の丸みに、とろっとした雰囲気が愛らしい。独特の話し方を含めてテイリスから聞いていた通りだ。
アリーはゆっくりとロクテーヌの手から滴っている血を指差す。
「血……」
そして首を傾げた。
「……怪我?」
「ええ。切ってしまいました。」
こんな小さな子供に見せるのも忍びなく、背中に隠そうとして手首を掴まれる。
ささやかな力で固定した指先をアリーはじっと見つめている。子供特有の丸みがある指でロクテーヌの爪に触れる。
「……きれい」
ふわりと微笑まれて、微かに身を固くする。手入れのされた爪は町娘にしては整いすぎていた。手には属性を判断する材料が多く宿る。女中の手に成り下がらないように気を使っている分、美しい指先だ。
「……ありがとうございます」
ロクテーヌは小さな手を解き、代わりにその手首に巻いてある可愛らしいブレスレットを見つけた。いくつも連なって、シャラシャラと音をたてている。話題を逸らすにはちょうどいい。
「綺麗ですね。ピンクの……鉱石の類ではなさそうですし貝殻ですか」
不均一な一つ一つが丸みを帯びて、なぜか引き寄せられる。アリーはブレスレットを軽く指ではじいた。
「つくった……」
「あら、お上手。アリーさんは小さな芸術家なんですね」
「……」
ロクテーヌが微笑むとアリーの口元が緩む。表情の変化に乏しいものの、纏う空気で感情の機微は伝わった。不思議な雰囲気の幼い少女だ。ぼんやりとした目は何も見ていないようであり、何もかもを見透かしているようでもある。
アリーから隠すように手を後ろに回したところで、テイリスが戻ってきた。アリーの姿をみて一瞬動きを止めるが、すぐに気を取り直して後ろの女性を部屋に通す。医者を目指しているというマリナだろう。
「お兄ちゃん、焦りすぎ」
ミルティーニと同じくらいの年齢だが、もっとしっかりした口調の少女だ。短い前髪が似合っていて、柔らかい目がよく見える。マリナは笑いながら丸椅子を引き寄せて座ると、鎖骨のあたりまで伸びた髪を手早く一つにまとめた。
「セーナさん、だっけ。自分で間違って切っちゃったんでしょ? 意外と抜けてるんだね。かわいい」
「抜けっ……⁈」
否定したかったがまさか真実を言うわけにもいかず、ロクテーヌは口を噤んだ。揶揄ったつもりもなく、ただ正直な感想を伝えただけのようだ。
マリナの処置は的確で、見る見るうちに包帯が巻かれていく。医者を目指しているとは聞いたが、手慣れた様子はその道の何合目かを匂わせる。テイリスが感心して褒めると、マリナは嬉しそうに笑った。
処置が終わると早速出かけることにした。マリナとアリーも広場まで同行するらしく、四人で屋敷を離れる。姉妹の後ろをテイリスと並んでついていく。アリーは表情の変化が少ないが、その分マリナはよく話しよく笑っていた。二人、手を繋いで歩く姿は幸せな姉妹そのものだ。
サン・シエルは山の斜面に作られた町であり、宿屋は扇状に広がった麓側に位置している。従って広場までの道は全て上り坂だった。ロクテーヌはあっという間に疲れてしまったが、アリーとマリナは何食わぬ顔で坂道を進んでいく。
住人が時折テイリスに声をかけた。しっかり者の好青年として老若男女問わず慕われているのだ。優しげな雰囲気で頼りやすいのかも知れない。住人はちらりとロクテーヌを見たが、深く追及されることはなかった。友人のセーナが近くの都市にいく道中サン・シエルに寄って数日間滞在する、ということらしいので話を合わせる。話している間に前を行くマリナとの間が徐々に開いた。
「お兄ちゃんおそい!」
しびれを切らした呼び声に、テイリスは慌てて広場を目指した。くすくすと笑いながらロクテーヌは追いかけた。
町の中央の教会前に広場があり、近くには飲食店や青果店が多く並んでいる。住人の憩いの場になっているようで、ベンチで寛いでいたり、鳥に餌をやっていたりと思い思いに過ごしている。眦を吊り上げたマリナもその賑わいの中ではそこまで目立たなかった。
「お兄ちゃんそういうとこ本当だめ。セーナさんを置き去りにしすぎ。もっとちゃんと大事にしてあげるべき」
「私は別に構いませんよ。テイリスさんは普段からそうですし……ねえ?」
ロクテーヌはテイリスを振り返った。友人同士の距離感はちゃんと演出できていたと思うのだが、マリナにこう言われてしまうようでは足りなかったのかもしれない。怪しまれないようにフォローをしておく。
「……え、ええ。そうですね」
ロクテーヌの意を汲んでくれたテイリスは、しかし複雑そうな顔をしていた。マリナが顔を輝かせた後、それはさらに顕著になった。
「マリナ」
「……やっぱり!」
「違います」
「セーナさん、こんなお兄ちゃんだけどよろしくね」
こら、と制止されたにもかかわらず、明るく大きな声ではっきりと告げられた。いたずらっぽく片目を閉じるおまけつきだ。兄想いのいい妹で感心していると、テイリスが目を丸くしていた。身内にしか分からない事情があるのだろう。
満足そうなマリナや不思議そうに見ているアリーとはそのまま広場で別れた。二人手を繋いでさらに坂を上って行く。マリナは坂を上ったところにある川辺の山小屋に通っているらしい。勉強に集中できる環境を整えてあると聞いて、ロクテーヌは興味を持った。マリナが言うには静かなだけで医学書や器具が並んだつまらない小屋だが、読書を楽しむにも丁度よさそうだ。
「アリーさんもその小屋で過ごされるんですか?」
あれほど大人しい子供なら邪魔にはならないのかもしれない。そう思い尋ねたが、テイリスは首を振った。
「アリーは坂の上のお屋敷で面倒を見ていただいているんです」
「ご親戚でもいらっしゃるんですか?」
「いいえ。ですがよくしていただいていますよ」
テイリスは坂の上を見上げた。斜面に扇形に広がるサン・シエルの、丁度頂点にあたる部分にある豪邸は、広場からでもその青みがかった屋根が見える。ジロフル子爵の屋敷だという説明を受けて、ロクテーヌは平静を装った。
サン・シエルの領主は近郊の都市にいるはずだった。それ以外に貴族の邸宅があったとは知らなかった。少なくとも本邸ではないだろう。事前に集めた情報になかったことから、そこまで歴史の長い邸宅でもないと思われる。ジロフル子爵なんて名前程度しか知らないとはいえ、貴族とはできるだけ遭遇を避けたい。
「はじめに、遺体を見ていただこうと思います」
「ええ、是非」
ロクテーヌは深く頷いた。目先の事件に集中するべきだ。サン・シエルという町そのものにも興味をそそられるが、化け物とやらを探し出さなければ前に進めない。
一部の遺体は今も広場の教会に安置されていた。テイリスと共に訪ねると神父も訳知り顔で礼拝堂に案内をしてくれた。いくつかある礼拝堂の一つを遺体の一時的な安置所にしているらしい。領主の都市と離れているサン・シエル町ではこの神父がこうした取りまとめをするという。調査や自警はテイリスのような住人が担っており、素人仕事なので埒があかないとテイリスから聞いていた。
布を一枚引いただけの床に並べられた遺体のうち、一番手前にあった女性の遺体に近寄り被せてあった布を除いた。髪の毛が抜かれていなければ、そして腹が大きく裂かれていなければあるいは眠っているように見えたのかもしれない。
ロクテーヌは遺体の側に座り込んだまま、テイリスを仰いだ。
「……触っても?」
「勿論」
女性の傷口の中で最も目立っているのは、胸からへそまでを真っ直ぐに裂く直線だ。躊躇なくその直線の中身を暴く。元々開かれているのでさほど難しくはなかった。触れた指先に乾燥した血液がぱらぱらと落ちる。真冬の冷気の中とあって腐臭はほとんどせず、保存状態もいい。
「……なるほど、解体ですね。標本のようだとおっしゃっていた訳がよく分かりました」
中に詰まった臓器は切り分けられ、滅茶苦茶な配置で体内に詰め込まれていた。臓器の一つを手に取り観察する。臓器にもまた多くの傷がつけられており、非常に興味深い。どの切り口も綺麗なものだ。
「あらあら、丁寧な仕上がり。心臓の作りがよく分かります」
テイリスは、信じられないといった表情をする。無造作に切り分けられた臓器の断定など、決して一般的ではない。
「分かるんですか? そんなの、一部の医者でもない限り……」
「書物に触れる機会が多いものですから」
医学書そのものは数回しか読んだことがないが、図録は何度も読んだ。一般階級の人間にとって書物は貴重なものであり、何でも読み漁る貴族にもあまり出会ったことがない。従って読んだ書物の量では誰にも負けない自負がある。
ロクテーヌは立ち上がり、遺体を背に微笑んだ。
「残念でしたね、テイリスさん」
優しい好青年の目に動揺が走ったのをロクテーヌは見逃さなかった。一歩また一歩とテイリスに詰め寄る。静かな礼拝堂に靴音が響く。
「あら、どうかしましたか? 急に無口になって」
礼拝堂はしんと冷たく、嵌め殺しの窓から差し込む光がくっきりとした影を落としている。返事をしないテイリスを試すようにじっと見つめた。眩しい光の中に進み出たところで冷え切った体が温まることはない。
「……指のことには触れないんですね」
遺体の手は開かれているというのに丸かった。指先を切り揃えられて、もう何も掴めない。切り分けられた臓器は腹の中に収められていたが、指先は何処にも見当たらなかった。そんなこと、とロクテーヌは笑う。
「本題ではないでしょう。いえ、ある意味本題なのかもしれませんが」
「よく……分かりません……」
テイリスは眉をひそめた。
「ご安心ください。ご期待に沿ってみせますから」
二人だけの礼拝堂にくすくすという笑い声はよく響く。
「あなたは……」
「さて、水をいただけませんか? 気持ち悪いので早く洗ってしまいたいんですけれど」
青年の言葉は遮られ、冷たい空気に消えていった。手洗いの水も氷のように冷たく、ロクテーヌは顔をしかめた。
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